クイズ!日本不思議発見☆

「日本の面白い」をクイズ形式で紹介!トリビアニッポン!

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◆ヒント◆ グリコは、「食べると遊ぶを融合」させ、日本のお菓子文化を確立したといわれています。そのため、グリコのオマケがとても有名ですが、グリコのパッケージには、「一粒300メートル」のロゴと、マラソン姿の男の人が描かれていて、これもとても有名なんですよね。さて、このロゴとマラソンの人って何を意味しているのか考えたことってありますか?





◆答え◆ グリコは商品名ですが、会社名は江崎グリコ株式会社。最近は、グリコ乳業を完全に2002年に子会社化しましたが、グリコがこの会社にとってとても大切なものであることがよくわかります。このグリコが生まれた秘話を知っていますか?

 「江崎グリコ株式会社」の江崎とはグリコ創始者の江崎利一社長のことですが、その昔、まだ会社が大きくない頃、江崎さんは社運をかけた新商品の開発に頭を悩ませていました。当時、江崎さんには少し体の弱い子供がいたそうです。そこで、栄養価の高いお菓子を作って、自分の子供や全国の子供を元気にする商品ができないものかと考えていました。ある日、川原を歩いていると、母子が何やら川の傍でぐつぐつ煮ていました。そして、それを母が子に食べさせています。江崎さんはそれは何かと尋ねると、母は牡蠣だといいました。子供が風邪で弱っているので食べさせて元気にしているというのです。牡蠣とはそんなに栄養があるのかと、江崎さんは当時の陸軍の研究所で成分を調べてもらいますと、グリコーゲンというとても栄養のある成分が豊富に含まれているとわかりました。これだ!と思った江崎さんは、栄養素グリコーゲンを食べやすく、おいしくキャラメルに添加しました。こうしてできたのが、グリコです。グリコの名前は牡蠣のグリコーゲンからきてているのです。この時、グリコ一粒の成分からは子供が330メートル走れる量が含有されていました。が、ロゴでは300メートルとし、あとの30メートルこそ、裏グリコのオマケとしたらしいです。

 また、当初、キャラメルという菓子名が一般的だったので、商品名は「グリコキャラメル」でいくとしていましたが、全く新しい栄養菓子を創りたいとの願いを込めて、商品名は斬新に「グリコ」にしました。最初は、グリコと聞いてもキャラメルなのか何なのかわからなかったのではないでしょうか?

 更に当時は、キャラメルといえば、黄色いパッケージの明治キャラメルが大人気でした。そこで、差別化しようとパッケージを真っ赤に、そして、あのマラソンマークも起用しました。
 マラソンのマークの由来は、やはり、江崎さんが散歩している時、元気にランニングしている子供達を見かけ、彼らが走ってテープを切るマネをしているのを見て、思いついたのだそうです。しかし、インパクトは充分ですが、当時、マラソンマークはちょっと気味悪いと、女の子からはいわれたらしいです。男性が両手と片足をあげている特徴的なこのイラストは、正式には「ゴールインマーク」というそうですが、「グリコポーズ」の名の方が市民権を得てしまいます。1928年には、当時のスポーツ選手の顔をもとに描き替えられ、それ以降、現在まで数回の変更が加えられています。大阪、道頓堀川の戎橋には、このパッケージをもとにしたネオンサインがあるくらい有名になります。
 1931年には百貨店に映画付きグリコ自動販売機を設置、1933年には、栄養強化菓子の先がけ商品として酵母菓子「ビスコ」など発売します。
 
 グリコの形状は、当時、珍しい立体的なハート型でありました。キャラメルは飴などと比べて軟らかいため、型抜きでハート型を作るのは難しいとされていましたが、ローラーを用いることでこれを可能にします。これは業界初の試みでだったといいます。1953年から1987年の間は大量生産によるコスト削減のため角型に変更されました。

 グリコに限らないことですが、よく考えてみるとお菓子系の企業って「未来の宝=子供」の健康や道徳や知育など考えて、いろいろ真摯に取り組んでるんですよネ〜。

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◆ヒント◆ ホワイトデーもバレンタインデーも日本独特のもので、日本人が作ったということは今ではよく知られていますネ。さて、では、ホワイトデーってできたのはいつなのでしょうか?キャンディーを贈るのが日本独特ですが…





◆答え◆ ホワイトデーはそもそも、バレンタインデーの語源でもある司教バレンティヌス(以下で詳しく説明)殉職1ヶ月後、男女が二人の愛の誓いをあらためて確認するというものであるらしいです。ホワイトデーという呼び名も本当は「クッキーデー」「フラワーデー」「ポピーデー」などとも呼ばれ、クッキーや花などを贈っていたのです。それが、いつ頃から日本独自ともいえる「ホワイトデー」となり、キャンディーを贈る日になったのでしょう?

 まず、よくいわれるのが、3/14を日本オリジナルな「マシュマロデー」と提唱した「石村萬盛堂」です。石村萬盛堂とは、銘菓「鶴の子」で知られる福岡の和菓子の老舗。1978年、3/14を「バレンタインデーのアンサーデー」とし、マシュマロデーにマシュマロを贈るということを発案したのであります。
 
 一方、キャンディー戦略を発案したのは、「全飴協(全国飴菓子工業共同組合)」。この全飴協とは、明治製菓・不二家・篠崎製菓・宮川製菓・サクマ製菓・佐久間製菓・マルエ製菓・金太郎飴本店・カンロ・ホームラン製菓・みやこ飴本舗・二葉製菓・メリーチョコレート(順不同)など加盟13社を擁する関東地区部会で、ここが、キャンディー販売促進目的で、1978年、名古屋の総会において全飴協ホワイトデー委員会を組織し、「ホワイトデー」を決議。1980年、「第一回ホワイトデー」を発動した。そして、この戦略に銀座三越も乗っかり「ホワイトデー元年は、銀座の三越から始まった」と電通にマスコミ宣伝させたのだそう。

 このホワイトデー、売上げが爆発的に伸び、一般普及するのが、その後の83年くらいから。「愛の数だけキャンディーを贈ります」というホワイトデーキャンペーンを大展開。ミスDJとミュージシャン稲垣潤一によるホワイトデーコンサートを3月14日、虎ノ門久保ホールで開催(500組の若者を招待)の2企画が前人気を呼び、東急エージェンシーや文化放送がタイアップしたりして、とにかく売りまくりました。キャンデーセールは3月12日〜14日に実施され、東京・銀座のソニービルでは会場の1階ロビーに参加メーカーのホワイトデーキャンデーをメーカー別に並べ、場内の色彩をピンクとホワイトで統一してムードを高めます。また日本橋の東急デパートでは、日本橋架橋380周年記念セールの一環として、正面入口と地下1階に特設売り場を設け、ソニービルとかけもちのキャンデーガールなどがクイズ企画などで盛り上げました。キャンデーセール3日間の人出はソニーが13日(日)、東急は14日(月)がそれぞれ最高を記録し、ホワイトデー当日の東急は、昼休みのサラリーマンで黒山の人だかりとなり、午後1時過ぎには品不足に見舞われて、デパート側をあわてさせたということです。

 それらこれらで、今ではホワイトデーは完全に定着、国民的行事となりました。

 ちなみにバレンタインにチョコレートを贈るという習慣は日本独特のものですよね。その起源は、昭和11年 (1936)に神戸のモロゾフが考案したという説や、昭和33年(1958)にメリーチョコレートがキャンペーンとして始めた、など諸説あるようです。
 もともとバレンタインデーというのは、イタリア人司教ヴァレンティヌス(Valentinus)信仰に由来する、(14世紀頃からは宗教と無関係に)恋人同士が贈り物を交換する風習でありました。ヴァレンティヌスとは、ローマ皇帝が出した「遠征兵士の結婚禁止令」に反対したことで、269年頃に処刑された人です。そのため、愛の守護聖人となりました。ですからバレンタインデーとは、ヴァレンティヌスの殉教記念日ということです。
 また、鳥がさえずり始める日を記念した2月15日の古代ローマの豊穣祈願祭ルペルカリアと結合したという説もあるらしいです。(古代ローマ、その前身のエトルリアでは、鳥占いなどの鳥信仰があった)

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◆ヒント◆ 「勇者ライディーン」は、1975年4月4日〜1976年3月26日までに全50話が放送された人気ロボットアニメ。機動戦士ガンダムのキャラクターデザインなどをした安彦良和らが、ガンダムに先駆けて参加、制作した。ライディーンの顔はエジプト風のデザインだったが、名前は日本風…。





◆答え◆ 江戸の寛政時代。名力士、雷電が現れて、横綱小野川を苦しめた。雷電は信濃国小県郡大石村に生まれ、身長6尺5寸(約197cm)体重168.7キロあったという。江戸時代の人の身長は、墓地などから発掘された人骨(おもに大腿骨)の長さから推定され、おおむね“男性155〜158cm”“女性143〜146cm”の範囲内におさまるといわれる。
 江戸に出ては浦風の門に入り、谷風側に属した。あまりに強く、相手力士の身体を壊すことも再三、相撲会所では、彼にだけ「かんぬき」や「張り手」などが禁手と課されたが一向に負けず、ついに25回も優勝、谷風にさえ勝った。全勝回数も7回で、昭和の双葉山には1回譲るが、谷風の6回より優れていた。この雷電、実は横綱になっていない。雷電為右衛門は、大関で終わっているのである。その理由は、手続きが大変めんどうであったためとか、雷電が松江藩お抱えで、相撲もと締めが細川藩で、徳川家に関わっていないためなど諸説ある。しかし、横綱にならなかったが、実力は江戸力士中随一の強剛力士とされている。雷電の生涯成績は、254勝10敗21引き分け、96.2パーセントの勝率になる。ちなみに昭和の大横綱、大鵬は勝率85.8パーセント、千代の富士の勝率は76.1パーセント、曙が74.1パーセントである。
 この強力な力士、雷電は、様々な場面で引用されている。1975年4月4日〜1976年3月26日までに全50話が放送されたロボットアニメ「勇者ライディーン」は、「雷電」を英語風にもじって名づけたといわれる。ライディーンは、エジプト、ムー大陸、中近東などいろいろな歴史観あふれる名作だったが、その世界観の中で、主役を日本最強力士にしてくれたところはとても面白い。また、別件だが、日本テレビの人気番組「雷波少年」と「電波少年」との合同番組の名前も「雷電為右衛門」である。
 あと、次の名前の由来も力士、雷電からのものか知っている人がいたら教えて欲しい。
 YMOの名曲「ライディーン」、第二次世界大戦の名戦闘機「雷電」、魁!男塾に出てくる三面拳の一人「雷電」。


●参考資料 ↓ 現代のK−1ファイターのデータ。

モンターニャ・シウバ 225cm、171.4キロ

曙          203cm、219.7キロ

ボブ・サップ     200cm、155キロ  ← 雷電とほぼ同体格。こんな男が江戸時代にいたわけダ
                         他のファイターと比べても雷電の巨大さがわかる
レミー・ボンヤスキー 192cm、99.9キロ

中迫剛        190cm、100.6キロ

武蔵         185cm、99.9キロ

ボビーオロゴン    185cm、98キロ

アンディ・フグ    180cm、96.9キロ

魔裟斗        174cm、70キロ

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◆ヒント◆ 力士や部屋の後援者のことを「タニマチ」と呼びますが、これは、「谷町」という地名からだそうです。では、谷町ってどこでしょう?




◆答え◆ 明治時代、江戸城が皇居と定められて、東京に明治天皇の行幸があった明治2(1867)年3月、力士が錦の御旗を捧持して東海道を歩んで行進したそうです。それというのも、幕末・維新の混乱期には、江戸の民衆も相撲どころではなく、更に明治維新を迎えても、相撲は、髷(まげ)が時代に合わない、古い野蛮なものだなどの理由からものすごく低迷していたからなのです。そのため当時の力士たちは、招魂社(現靖国神社)の建築、消防での活躍、展覧試合を催すなどして政府へアピールし、相撲以外にも関わることで、相撲の存在を認知させようとしたのです。招魂社(現靖国神社)の建築に関わったのが縁で、後年靖国神社境内では相撲がしばしば行われました。こうした御木曳の風習は今日でもあり、数年前に行われた明治神宮の遷宮の工事にも、関取連が御木曳に参加して奉仕しました。明治四十二年には、両国に相撲の聖地=国技館を作ります。この頃には、横綱常陸山と梅ケ谷の戦いなど、相撲は以前の人気を取り戻し、大正時代も人気を保ちました。

 昭和に入り、相撲界は更に大きく変化します。実は当時、相撲界には、東京の相撲集団である「東京相撲」と、大阪の相撲集団である「大阪相撲」とが存在していました。大阪相撲は元禄時代からありました。力士や部屋の後援者のことを現代でも「タニマチ」と呼びますが、これは、明治時代の有名な後援者が大阪の谷町に住んでいたことに由来するからです。また、現在の年寄名跡として残っている時津風(ときつかぜ)、陣幕(じんまく)、三保ヶ関(みほがせき)、押尾川(おしおがわ)などは、もともとは、大阪相撲の「頭取」(大阪では、力士の親方のことを年寄ではなく、頭取と呼んでいました。)の名前でした。これら東京と大阪に別々にあった相撲協会が、昭和二年(1927年)、合併し、相撲界は一本化、(財)日本相撲協会となりました。


◆アクセス◆ 写真は、近鉄当麻寺駅・當麻寺参道途中にある葛城市相撲館「けはや座」。相撲の歴史や町を代表する力士などの約300点の資料、本物と同じサイズの土俵など見所です。我々には親しみ深い相撲ですが、意外と知らないことが多いことに驚かされます。

毎週火・水曜定休日、開館時間:午前10時〜午後5時
子供150円、大人 300円(団体、子供120円、大人 250円)


住所 奈良県葛城市當麻83-1
    TEL:0745-48-4611
    FAX:0745-48-4611

交通
   ・電車:近鉄南大阪線当麻寺駅下車、西へ徒歩約0.5km
   ・車  :西名阪自動車道、香芝I.Cより、国道168号線経由で約20分
        西名阪自動車道、柏原I.Cより国道165号線経由で約20分
        南阪奈道路、葛城I.Cより県道経由で約5分

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◆ヒント◆ 古代とは縄文、弥生時代などで、人々は土器や土偶、埴輪などを焼いて暮らしていた大昔ですが。




◆答え◆ 現代では相撲は、プロスポーツ「大相撲」であり、国技とされています。NHKではテレビ放送され、家庭でも観戦できる娯楽にもなっていますが、この相撲、歴史は古く、実は古代からありました。古くは神事として、行事として行われていたそうです。シコを踏むというのが今でもありますが、もともとは地面の下にいる悪霊を踏み固めて、地上に出て来れないようにしたそうです。弥生時代には力士が埴輪で焼かれていますがご存知でしょうか?つまり、卑弥呼(239年頃)も相撲を見ていたということになります。(写真、中央右が力士の埴輪)

 古事記や日本書紀の中にも相撲は登場します。垂仁天皇7年(360年頃)7月7日、「当麻邑に当麻蹶速(たぎまのくえはや)という豪傑がいました。彼は「自分は天下無双である。自分と対等に戦えるものがいたら、力比べをしたい」といっていたそうです。そこで天皇が「力自慢の者はいないか」と家臣に訊ねたところ、出雲の野見宿禰(のみのすくね)が推薦された。そして、二人の試合が行われたが、結果は野見宿禰の勝ったそうです。これが神話の世界での「相撲」の起源とされています。ちなみに、この時の試合はデスマッチだったようで、当麻蹶速はアバラ骨をボキボキ折られて死亡しました。そして当麻蹶速の土地は野見宿禰に与えられ、野見宿禰はそのまま天皇の家臣となったそうです。

 また、時代は変わって、源頼朝や織田信長たちも相撲を奨励したといいます。彼らは、度々上覧相撲を催し、行司が生まれたのもこの上覧相撲かららしいです。この頃、相撲は、武家社会で完全に武芸としての色が強かったようです。信長のドラマなど見ると、吉法師(信長の幼名)が柿を食べながら相撲をとるなんてシーンも出てきたりしますネ。

 江戸時代には、勧進相撲から始まり、今の日本相撲協会の前身にあたる江戸時代相撲会所が整備され、今日の大相撲につながっていきました。この頃は武芸から芸能に少し色を変えてきたようです。谷風や小野川、雷電といった人気力士の出現により相撲人気は完全に定着しました。



 
◆アクセス◆ 写真の埴輪は、福島県立博物館所蔵、泉崎村にある原山一号墳出土のものです。この古墳は、全長約22メートルの前方後円墳で、1981年の調査で大量の形象埴輪と円筒埴輪が溝に落ち込んだ状態で発見されました。盾持ちや相撲埴輪など武力を表現するものと琴弾き、踊る人など歌舞音曲(かぶおんぎょく)に関わるものなどがあります。

福島県立博物館 〒965-0807 福島県会津若松市城東町1-25

毎週月曜定休日、午前9時30分〜午後5時 (最終入館は午後4時30分まで)
高校生以下無料、大人260円(団体210円)

交通案内
● JR会津若松駅より約3km
● 市内循環バス1コースにて県立病院前下車 徒歩5分
● 鶴ヶ城経由飯盛山行きにて県立博物館前下車 徒歩1分
● まちなか周遊バス「ハイカラさん」にて鶴ヶ城三の丸口下車すぐ
 

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