クイズ!日本不思議発見☆

「日本の面白い」をクイズ形式で紹介!トリビアニッポン!

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◆ヒント◆戦国時代、各国の大名はそれぞれ、忍者軍団を持っていた。戦争をしかける前に彼ら忍びの者を派遣して敵の情報を完全に把握したり、敵の後方を混乱させるための破壊活動を行ったりしていた。忍者は忍法などといってよく、怪しい術を使ったとされるが、基本的には諜報活動や敵陣への放火、強奪、だまし討ち、馬泥棒、流言、奇襲攻撃などを行う集団であったという。








◆答え◆各国の戦国大名はそれぞれ忍者という集団を召抱えていた。その中で特に有名なのは、徳川・伊賀忍軍の服部半蔵、そして小田原北条・風魔忍軍の風魔小太郎である。風魔小太郎は、その名の通り異様な容姿だったという。身の丈、七尺二寸(約2.2m)。筋肉はこぶのように盛り上がり、目や口は逆さまに裂け、牙が四本突き出し、頭は福禄寿のように長く、その声は五十町先まで聞こえる怪物と伝えられる。特に無敵のはずの武田軍を震え上がらせたとされることから、このように誇張されたのかも知れない。武田勝頼との戦いで、風魔は大量の藁人形を武田陣に投げ込んだ。そして、何だ人形かと油断させておきながら人形とまぎれて風魔一族がなだれ込み、武田を内部からかく乱させたのである。これにより武田軍は同士討ちという最悪の混乱に陥ったのだった。
 風魔一族は、代々首領を小太郎と命名、怪物のような風貌の皮面をつけたといわれる。そのため、いつ見ても風魔党の首領は同じ異様な容姿をしていたのであり、一人の人間が何百年も生きたわけではない。
 1590年、秀吉は大群を持って箱根越えをし、北条の小田原城を攻め、北条家を滅亡させて日本を統一した。北条家により幕開いた戦国時代は北条家と共に幕を閉じたのである。これにより、風魔党は、その潜入術・逃走術を駆使し、あだとなる徳川の江戸の町を荒らす盗賊団と化した。そのため、江戸幕府は大規模な討伐を行い、風魔党に多額の懸賞金をかける。捕らえられた五代目風魔小太郎は処刑、風魔一族は滅亡した。

◆アクセス◆風魔一族は箱根の山に結界を張り、戦国の世を大いに活躍した。写真は箱根大涌谷。約3000年前に箱根の最高峰の神山が、箱根火山最後の水蒸気爆発をおこした爆裂火口で、今もなお熱い水蒸気と硫気を噴出している。古来より大地獄と呼ばれている場所だが、ここからは雄大な富士山の眺めを楽しむことができる。もちろん、温泉も有名。アクセスは箱根登山鉄道などで。
 

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◆ヒント◆戦国最強の一人といわれる上杉謙信は酒が好きで、大酒をつまみ無しで塩を舐めて飲んでいた。最後は夜、寒いかわやへ行き脳卒中で亡くなったそうである。大酒をすると失敗するという例だが、さて、黒田官兵衛は豊臣秀吉に仕えていた大軍師。幾多の戦いをその智謀で乗り切っていった。そんな彼が節度のない大酒をするだろうか?





◆答え◆黒田官兵衛は、黒田如水ともいわれ、関ヶ原合戦後は、徳川家に恐れられて九州に転封された。そんなある時、関ヶ原でかつて味方同士だった安芸の福島正則が宴会を開き、黒田家を招待した。これに黒田家からは家臣、母里太兵衛という者が出席。この太兵衛、宴会で立て続けて八合(1.44リットル)ほど飲んだ。まさに大酒飲みであり、その飲みっぷりを見て福島正則は感動した。正則も赤子の時に虎の子を押さえつけたなどの逸話がある豪胆な猛将なのである。彼は太兵衛に追加で七合(1.26リットル)の杯を渡し、「これを一気に飲み干してみよ。できたら何でも好きな刀を与えるぞ」といった。太兵衛はこれを聞き、一気に七合飲み干してしまった。つまり、合計2.7リットル飲んだ計算になる。そして正則が秀吉から授かったという「名槍日本号」をぱっともぎ取った。これにはさすがの正則もビックリして、「他にせよ。それは別じゃ」というが、酔った太兵衛は、「武士に二言はないはず」といい負かし、日本号をかついで帰ってまう。正解は×。大酒を飲み槍を得たのは黒田官兵衛ではなく、その部下の太兵衛である。ただ、太兵衛は官兵衛から「会にいっても禁酒せよ」といわれていたので後で大目玉をくらい、槍は官兵衛に取り上げられたという。ちなみに「酒は飲め飲め、飲むならば〜♪」でお馴染みの黒田節は、このエピソードを歌ったものである。

◆アクセス◆写真は福岡市美術館。黒田藩に伝わる武具を始め、九州出身作家の作品、すぐれた近現代美術が充実している。地下鉄大濠公園駅から徒歩約10分。

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◆ヒント◆ 明智光秀といえば、織田信長に仕え、下克上とはいえ、主君信長を討ち取った人物。「敵は本能寺にあり」という彼の言葉はあまりに有名で、一見、逆臣のイメージも強い。果たして信長を討つほどの男が、妻以外愛さなかったのだろうか。そうだとすると、よほど相思相愛だったエピソードがあるのか…?







◆答え◆ 明智光秀は、信長に仕える前、美濃国の土岐氏に仕えていた。そこで、後の妻、煕子(ひろこ)と縁談がまとまる。ところが、嫁入り前に煕子は疱瘡にかかり、一命はとりとめたが、顔に醜い痘痕が残ってしまう。このため、煕子の家(妻木家)では、破談にならぬよう妹を煕子として送る。結婚当日、光秀はこれを知ると「醜くなっても私の相手は妹でなく、姉の煕子である」といい、煕子を迎えに行き、二人は結ばれたという。
 それから後、光秀が仕える土岐氏が、斉藤道三によってのっとられた。そのため、光秀は浪人となり、やがて越前の朝倉義景に仕えるのだが、ひどく貧乏した。その頃、朝倉氏の仲間同士では、持ち回りで会を準備し、飲んだり、食べたりする習慣があった。だが光秀は、日々の食事も満足にはできない暮らし。そこで、煕子は、当時、女の命といわれる自分の黒髪をこっそり売って、他の仲間に恥じないもてなしをした。それを知らない光秀は、贅沢なもてなしに驚きつつも無事会を終え、面目を保つ。そして後で理由を知り、光秀は、厳しく妻を叱りつけた。が、同時にとても感激し、「一生、側室は持たない」と誓い、それを実行した。やがて、光秀は信長に仕える。近江坂本城主にまでどんどん出世し、そして、本能寺へと突入していく。

◆アクセス◆ 地図とコースは亀岡氏のHPから。亀山(亀岡)城は、天正年間明智光秀が築城、江戸時代の初め五層の天守を有した城郭。現在、城跡として現存するのは本丸付近と堀の一部。
 JR亀岡駅から谷性寺までは京都交通 バスが運行。バスの本数が少ないので事前確認を。京都交通バス 0771-23-8000 ※金剛寺穴太寺間バス不可。

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◆ヒント◆ 下関市西部の彦島・江の浦の沖合400mに浮かぶ巌流島は、二刀流の達人・宮本武蔵と燕返しで知られる剣客・佐々木小次郎が、慶長17(1612)年4月13日に決闘した場として、吉川英治、村上元三らの小説にも描かれている。もともと、小さい島だが今は観光スポットとしても人気。









◆答え◆ 巌流島の正式名称は船島。決闘に敗れた佐々木小次郎の号(流派)にちなんで巌流島と呼ばれるようになったという島である。この島は、大正時代から埋め立てが進み、現面積は10.4ヘクタール、周囲1.6kmで決闘当時の3〜6倍になったといわれていわれている。島内には、佐々木巌流之碑や巌流島文学碑、巌流島灯台などがある他、延長90mの人工海浜に決闘の砂浜を再現するなど、現在、海上公園としての整備が進んでいる。正解は○。

◆アクセス◆ JR下関駅から、サンデン交通バス彦島営業所行きで10分、バス停:江の浦桟橋通り下車、森渡船(往復1000円、要予約)に乗り換えて3分。またはJR下関駅→唐戸経由で7分、バス停:唐戸下車、徒歩3分の唐戸桟橋から関門汽船(往復800円、要予約、電話:093-321-3081)に乗り換えて10分

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