クイズ!日本不思議発見☆

「日本の面白い」をクイズ形式で紹介!トリビアニッポン!

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

◆ヒント◆山之内一豊は平の武将から最終的には土佐24万石を配慮した。関ヶ原の合戦を前にして、一豊は家康に自分の城や財産を明け渡している。「家康殿が石田三成と戦うため進軍するならば、途中にある東海道の自分の居城・掛川城をその兵糧と共に自由に使っていただきたい。我が軍は全軍で先陣に加わりますので、旗本の誰かを城代として入れてくだされ」といったことが大きかったという。この発言により他の東海道に城を持つ武将も財産をなげうって家康に協力すると申し出たからである。家康は一豊の発言により、何もせずに東海道の諸城を手に入れることが出来たのだ。関ヶ原の合戦で目立った戦功がなかったにも関わらず、土佐一国24万石を拝領できたのは、この「掛川城明け渡し」の件が大きかった。石高は、太閤検地以降、土地生産高を米の量に換算して表示したもので、石盛(こくもり)を基準に確定され、1石は10斗とされた。






◆答え◆1石は10斗である。10斗=100升=1,000合ということになる。1合=ご飯茶碗2杯分であるので、1石=1,000合=ご飯茶碗2000杯。これの24万倍なので、2000杯×240000=4億8000万杯。人一人が一日ご飯二杯食べると、2億4000万人分になる。すなわち、現代の日本国民全員が二日間籠城できる量である。家康軍20万の大群なら、2400日=6年半籠城できる計算である。
 ちなみに1石は1人が1年間に消費する量にほぼ相当するといわれる(365日×3合/日=1095合)。

イメージ 1

◆ヒント◆当時、馬揃えというものがあった。馬揃えとは、近く行なわれる戦前に、馬を一堂に集めてその検分をするというものだった。立派な武将姿を馬と共にアピールするのだが、お金がかかった。一豊は当時、わずか400石で、家来が多かったのでお金が無かったのだが…。 






◆答え◆1581年(天正九年)、山内一豊と妻、千代のエピソードで、最も有名な話。浅井・朝倉攻めが近いとされた当時、一豊はわずか400石、家来もいたのでお金が無く、老いたやせ馬にしか乗ることが出来なかった。これでは戦前の馬揃えで恥をかく、そう思っていた。そんなある時、浅井・朝倉攻めが近いとの噂を聞き入れ、馬売りが安土城下に名馬を売りにやって来た。毛艶、体格、完璧なこの馬を見て家中の誰もが欲しがった。しかし、その値は十両だったので誰も手が出せない。一豊ももちろん、とてもそんなお金は無い。そこで、あきらめていた一豊だが、その夜、妻の千代に何とはなしに素晴らしい馬がいたことをつい話した。すると千代は、「武将の皆が認め、惚れるような名馬なら、手に入れれば、注目の的になります」といい、嫁入りの際にここぞという大事まで備えよと、親からわたされていたお金をわたした。どんなに苦しくても千代は取り崩さなかったそのお金で一豊に馬を買わせたのである。そして、馬揃えの日、各武将が立派な身支度して参列する中、見劣りするどころかいっそう際立つ一豊の姿があった。これが信長の目に留まり、「見事な馬じゃ。どこで手に入れた?」と聞かれると、一豊は正直に「妻に買って貰った」と答えた。結果、この馬揃えのおかげで、主君信長の覚えも目出たくなり、出世の糸口になった。「馬揃えで、皆が注目するような名馬を買えば、信長様にも一豊の名が聞こえるはず。それならば、この十両で馬を買うのも安いものになる」千代はそう判断したのである。高知城前には妻、千代と、彼女が買った名馬の像がある。

◆アクセス◆四国、高知城。JR高知駅よりバス「公園通り」。電車「高知城前」下車5分。
 天守閣、追手門以下15棟の建造物が国の重要文化財に指定されている。高知城の象徴である天守閣は高さ18.5mの3層6階、屋根入母屋造り本瓦葺き。山内一豊によって1603年に築城されたが、1727年の大火で消失。現在の天守閣は1748年に再建されたものである。

イメージ 1

◆ヒント◆戦国武将の妻といえば、有名な者の一人はやはり、山内一豊の妻である。山之内一豊は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の権力者に仕えた戦国武将で、姉川の合戦や賤ヶ岳の合戦に参戦し、長浜城主となっている。そして、その妻・千代は、浅井家家臣の若宮喜助友興の娘(最近では美濃の郡上八幡城主・遠藤盛数の娘という説あり)で、夫の立身出世を支えた賢く献身的な妻として語り継がれている。いわゆる「内助の功(表立たない、内側での功績。夫の外部での働きを支える妻の功績)」の人である。








◆答え◆山内土佐守一豊=通称・伊右衛門は、親(父は岩倉織田家で家老を務めた山内盛豊)と兄を亡くし、13歳で家督を継いだ。信長に仕官当時の知行はわずか50石だった。1567〜1570年の間に織田信長の家臣となる。越前攻略戦、姉川の戦いで戦功あげ、近江唐国に200石の知行を拝領。その後も派手さはないが、1585年に近江長浜2万石、1590年には遠江掛川5万石を拝領した。1600年の関ヶ原の戦いでは、2つの忠義が高く評価され、家康から土佐一国24万石を拝領。土佐入国後は、長宗我部の遺臣たち(一領具足)に苦戦するも、これを制圧、高知城の築城や城下町の整備に力を注いだ。武力の誉れが高いわけでもなく、智謀が豊かなわけでもなく、しかし、一豊は土佐一国、石高にして24万石の大封を得たのであった。
 妻の千代は、戦国武将の良妻賢母といえば必ず名前のあがる女性で、一豊が下っ端の馬廻り役だった頃からずっと山内家を支えていた。生活が苦しかった頃、米を量るマスを裏返しにしてマナ板代わりにしていたという話しや、一豊の家臣たちに飯を食わせるために髪を売った話しなどが伝えられている。そして、自分の着物も継ぎはぎにして夫のためにお金を工面した。その継ぎはぎの様を模した折り紙が、彼女の名をとって、千代紙と呼ばれているという。
 一豊は、1605年に没するが、妻の千代は、一豊の没後は出家し、見性院と名乗って晩年は土佐ではなく、京都で過ごした。そのため彼女の墓は京都大通院にあり、一豊の墓も土佐から京都に移され、大通院の堂内に千代の墓と並んでいる。

◆アクセス◆写真は京都大通院。JR嵯峨野線花園駅から

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事