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◆ヒント◆「天ぷら」はもともと日本古来の料理と思われがちですが、16世紀頃、鉄砲の伝来とともにポルトガルから長崎に入ってきた南蛮料理です。天ぷらという名称もポルトガル語の゛料理゛を意味する「テンボラ」が語源という説があります。当初、日本では油は灯火用で貴重だったため、調理に多量の油を使用する天ぷらは高級品。江戸時代、やがて油の生産高が増え、大衆料理として広まり、立ち食い屋台などで主食ではなく間食的に食べられたそう。明治以降、天ぷらの専門店、料理店も出現。








◆答え◆「慶長日記」には、元和2年(1616年)京都の豪商茶屋四郎次郎が、当時上方ではやっていた鯛(たい)の天ぷらを献上したところ、家康はあまりのおいしさにたくさん食べすぎて、その夜から激しい腹痛をおこし、3ヵ月後亡くなったという話が残っています。「油者は胃にもたれる」などといいますが、この時、家康は76歳という高齢で、当時、あまり口にすることのない油料理を大量に摂取したため、消化不良を起こしたのではと考えられます。なので、答えは○(ただし、既に胃ガンで、ガンと診断した医者を追放してその事実を隠していたという説もあります)。ちなみに天ぷらには、「卵を衣に入れ、ゴマ油であげ、江戸前でとれた魚をきつね色にあげて天つゆで食べる関東系のもの」と「野菜中心でサラダ油で白くあげ、自然の味を生かすために塩で食べる関西系のもの」があります。家康が食べたものはどちらでしょう?一見、関東系の天ぷらのようですが、徳川家康が食べたとされる「鯛の天ぷら」とは、当時京の都で流行していた食べものだとのこと。それは、今の天ぷらとは少し異なり、鯛を栢(かや)の実の油で揚げ、それをさらに煎り、上にニラの摺ったものをかけたものだそうで、正確には「天ぷら」より「から揚げの一種」に近いようです。

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◆ヒント◆坂本竜馬(一八三六〜一八六七)といえば、土佐藩の幕末の志士。千葉周作道場に剣を学び、のち脱藩し、勝海舟に師事。慶応二年(一八六六)薩長同盟成立に尽力。前土佐藩主山内豊信を説いて大政奉還を成功させたが京都で暗殺された人物。常に身を危険にさらし、波乱万丈の人生だったが。









◆答え◆薩長同盟が成立した翌日、坂本竜馬は京都伏見の宿、寺田屋に泊まっていた。そこへ100人以上の伏見奉行配下の者たちが寺田屋を襲った。俗にいう寺田屋事件である。この時、これをいち早く察知したのが寺田屋女中のお竜(りょう)。彼女は入浴中であったが、ダッと階段を駆け上がり、竜馬たちに危険を知らせた。このおかげで竜馬は、負傷したが、屋根伝いに逃げ難を逃れた。この事件のこともあり、また、西郷隆盛のすすめもあって、竜馬はお竜と結婚した。そして、竜馬たちは、傷の治療を兼ね、西郷の故郷の薩摩へと旅行する。そして、これが日本で初の新婚旅行だといわれている。正解は○。

◆アクセス◆塩浸温泉。坂本竜馬とお竜の新婚旅行銅像が建てられている。鶴の湯の奥には、坂本夫妻が実際に浸かった浴槽があるという。純重炭酸土類泉。入浴寮250円。効能、皮膚病、婦人病、切り傷、火傷、胃腸病、筋肉痛、疲労回復。鹿児島県姶良郡牧園町宿窪田3606。JR日豊本線・肥薩線隼人駅からバスで約35分。九州自動車道溝辺鹿児島空港ICから県道56・R223号線経由で約11km。

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◆ヒント◆戦国時代、各国の大名はそれぞれ、忍者軍団を持っていた。戦争をしかける前に彼ら忍びの者を派遣して敵の情報を完全に把握したり、敵の後方を混乱させるための破壊活動を行ったりしていた。忍者は忍法などといってよく、怪しい術を使ったとされるが、基本的には諜報活動や敵陣への放火、強奪、だまし討ち、馬泥棒、流言、奇襲攻撃などを行う集団であったという。








◆答え◆各国の戦国大名はそれぞれ忍者という集団を召抱えていた。その中で特に有名なのは、徳川・伊賀忍軍の服部半蔵、そして小田原北条・風魔忍軍の風魔小太郎である。風魔小太郎は、その名の通り異様な容姿だったという。身の丈、七尺二寸(約2.2m)。筋肉はこぶのように盛り上がり、目や口は逆さまに裂け、牙が四本突き出し、頭は福禄寿のように長く、その声は五十町先まで聞こえる怪物と伝えられる。特に無敵のはずの武田軍を震え上がらせたとされることから、このように誇張されたのかも知れない。武田勝頼との戦いで、風魔は大量の藁人形を武田陣に投げ込んだ。そして、何だ人形かと油断させておきながら人形とまぎれて風魔一族がなだれ込み、武田を内部からかく乱させたのである。これにより武田軍は同士討ちという最悪の混乱に陥ったのだった。
 風魔一族は、代々首領を小太郎と命名、怪物のような風貌の皮面をつけたといわれる。そのため、いつ見ても風魔党の首領は同じ異様な容姿をしていたのであり、一人の人間が何百年も生きたわけではない。
 1590年、秀吉は大群を持って箱根越えをし、北条の小田原城を攻め、北条家を滅亡させて日本を統一した。北条家により幕開いた戦国時代は北条家と共に幕を閉じたのである。これにより、風魔党は、その潜入術・逃走術を駆使し、あだとなる徳川の江戸の町を荒らす盗賊団と化した。そのため、江戸幕府は大規模な討伐を行い、風魔党に多額の懸賞金をかける。捕らえられた五代目風魔小太郎は処刑、風魔一族は滅亡した。

◆アクセス◆風魔一族は箱根の山に結界を張り、戦国の世を大いに活躍した。写真は箱根大涌谷。約3000年前に箱根の最高峰の神山が、箱根火山最後の水蒸気爆発をおこした爆裂火口で、今もなお熱い水蒸気と硫気を噴出している。古来より大地獄と呼ばれている場所だが、ここからは雄大な富士山の眺めを楽しむことができる。もちろん、温泉も有名。アクセスは箱根登山鉄道などで。
 

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◆ヒント◆戦国最強の一人といわれる上杉謙信は酒が好きで、大酒をつまみ無しで塩を舐めて飲んでいた。最後は夜、寒いかわやへ行き脳卒中で亡くなったそうである。大酒をすると失敗するという例だが、さて、黒田官兵衛は豊臣秀吉に仕えていた大軍師。幾多の戦いをその智謀で乗り切っていった。そんな彼が節度のない大酒をするだろうか?





◆答え◆黒田官兵衛は、黒田如水ともいわれ、関ヶ原合戦後は、徳川家に恐れられて九州に転封された。そんなある時、関ヶ原でかつて味方同士だった安芸の福島正則が宴会を開き、黒田家を招待した。これに黒田家からは家臣、母里太兵衛という者が出席。この太兵衛、宴会で立て続けて八合(1.44リットル)ほど飲んだ。まさに大酒飲みであり、その飲みっぷりを見て福島正則は感動した。正則も赤子の時に虎の子を押さえつけたなどの逸話がある豪胆な猛将なのである。彼は太兵衛に追加で七合(1.26リットル)の杯を渡し、「これを一気に飲み干してみよ。できたら何でも好きな刀を与えるぞ」といった。太兵衛はこれを聞き、一気に七合飲み干してしまった。つまり、合計2.7リットル飲んだ計算になる。そして正則が秀吉から授かったという「名槍日本号」をぱっともぎ取った。これにはさすがの正則もビックリして、「他にせよ。それは別じゃ」というが、酔った太兵衛は、「武士に二言はないはず」といい負かし、日本号をかついで帰ってまう。正解は×。大酒を飲み槍を得たのは黒田官兵衛ではなく、その部下の太兵衛である。ただ、太兵衛は官兵衛から「会にいっても禁酒せよ」といわれていたので後で大目玉をくらい、槍は官兵衛に取り上げられたという。ちなみに「酒は飲め飲め、飲むならば〜♪」でお馴染みの黒田節は、このエピソードを歌ったものである。

◆アクセス◆写真は福岡市美術館。黒田藩に伝わる武具を始め、九州出身作家の作品、すぐれた近現代美術が充実している。地下鉄大濠公園駅から徒歩約10分。

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◆ヒント◆ 明智光秀といえば、織田信長に仕え、下克上とはいえ、主君信長を討ち取った人物。「敵は本能寺にあり」という彼の言葉はあまりに有名で、一見、逆臣のイメージも強い。果たして信長を討つほどの男が、妻以外愛さなかったのだろうか。そうだとすると、よほど相思相愛だったエピソードがあるのか…?







◆答え◆ 明智光秀は、信長に仕える前、美濃国の土岐氏に仕えていた。そこで、後の妻、煕子(ひろこ)と縁談がまとまる。ところが、嫁入り前に煕子は疱瘡にかかり、一命はとりとめたが、顔に醜い痘痕が残ってしまう。このため、煕子の家(妻木家)では、破談にならぬよう妹を煕子として送る。結婚当日、光秀はこれを知ると「醜くなっても私の相手は妹でなく、姉の煕子である」といい、煕子を迎えに行き、二人は結ばれたという。
 それから後、光秀が仕える土岐氏が、斉藤道三によってのっとられた。そのため、光秀は浪人となり、やがて越前の朝倉義景に仕えるのだが、ひどく貧乏した。その頃、朝倉氏の仲間同士では、持ち回りで会を準備し、飲んだり、食べたりする習慣があった。だが光秀は、日々の食事も満足にはできない暮らし。そこで、煕子は、当時、女の命といわれる自分の黒髪をこっそり売って、他の仲間に恥じないもてなしをした。それを知らない光秀は、贅沢なもてなしに驚きつつも無事会を終え、面目を保つ。そして後で理由を知り、光秀は、厳しく妻を叱りつけた。が、同時にとても感激し、「一生、側室は持たない」と誓い、それを実行した。やがて、光秀は信長に仕える。近江坂本城主にまでどんどん出世し、そして、本能寺へと突入していく。

◆アクセス◆ 地図とコースは亀岡氏のHPから。亀山(亀岡)城は、天正年間明智光秀が築城、江戸時代の初め五層の天守を有した城郭。現在、城跡として現存するのは本丸付近と堀の一部。
 JR亀岡駅から谷性寺までは京都交通 バスが運行。バスの本数が少ないので事前確認を。京都交通バス 0771-23-8000 ※金剛寺穴太寺間バス不可。

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