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自分の考え方は、『常識的』ではないのだろうと思う。
一昨日、KとSと話している時にも感じたことである。
おそらく、自分は、周囲の人の目には『理解しにくい人間』に映っているのだろう、と思う。
特に、仕事についての考え方が、『非常識』で『無責任』である、と。
『常識的に考える』と、次のようになるのだろうか。
―今の会社を辞めたいのなら、すぐに辞表を出して、残務処理や引継ぎをきちんと行い、次の仕事を見つける努力をすべきである、と。それが出来ないのならば、今の会社を辞めるべきではなく、社長に相談するなりして、将来の生活設計が成り立つように、具体的な仕事にむかって努力をすべきである、と。
何もしないで、終日、その日暮らしをしようという考えは改めるべきである、と。独身ならいざ知らず、妻子を養う責任がある以上は、何もしないことは許されないことである、と。―
KとSに言ったことは、次の通りである。
―現在の会社を辞めるつもりには変わりがないが、しばらく会社の出方を眺めていようと思っている。また、仕事をしなくても良いので、宇宙のことを考えてみたりぼんやりとしたりしているが、Kが言うように、そのために自分がだめになる、とは思わない。現在の気分は落ち着いていて、以前のようにノイローゼになったりすることは考えられない。心配してくれるのはありがたいが、来るときが来たら、行動する、と。―
自分は、「KやSとは違って、経営者にはなれない」とも言った。Kは、サラリーマンの方が、時間を大切にしている(仕事と個人の時間を明確に区切っている)と言っていたが、つまりは、自分のサラリーマンとしての資質を問われているのかと思った。「わかっている」とは答えたが、「自分にはその資質に欠けているのがわかっている」という意味で伝わったかどうか不明である。正直なところ、Aが言うほど酷くはないと思うが、自分には、仕事をする能力や意欲が、人並みにはないことを自覚している。だから、こうして何もしないでも平気でいられるのだろうと思っている。
こうしてワープロのキーを叩きながらも、常に、どこかに空しい気持ちが存在する。
それは、生きていることの空しさに通じるものであり、仕方がないことだと思っている。
また、それとは別に、自分に対する不満や不平もいくらかは原因としてあるのだけれど、それ以上に、人間の存在自体が抱える不安、といったものの方が大きいように思う。だからでもないが、本を読んでいたり、何かに熱中している間はその気分を忘れていられるが、例えば、『孤独』を感じる時には、『その不安』に押し流されそうになってしまう。
『その感情(不安)』は、誰しもが感じることであり、自分だけに特有のものではないことは知っている。しかし、『孤独感』とは、『個別の』感情であるために、よほど『精神を強く』持たなければ恐ろしいものであると思う。(ふと、ストレスの原因は、そのあたりにも存在するのではないかと思った。都会人にストレスが多いのは、人口過密の中に置かれたネズミの実験でも明らかである。三木清も、「孤独は街の中にある」と書いている。)
宗教心にも通じるが、孤独とは逆に、生命は皆一つである、と本心から思えるならば、ストレスをほとんど感じないで済むかもしれない。『気』の基本の考え方もそうであるし、稲盛和夫氏や船井幸雄氏の説く『宇宙観』も似ている。立花隆の考えの中にもあるし(エコロジー的思考)、最近そのようなことを書いてある本が多くなったように感じる。
もしかすると、人間はとてつもなく変化するものかもしれない、と空想する。
昔読んだ本(アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』)ではないが、デザイナー・ベィビーが現実に出現し始まれば、やがて、本格的に宇宙に適応する人類が誕生するのかもしれない。そうした方向に進むように人間の遺伝子が設計されている可能性は小さくないと思う。
こんなことを考え?たりしているせいか、1日のうちのほとんどは、ストレスを感じないで過ごしている。まさかと思われるかもしれないが、家に帰った時の方が、ストレスを感じるほどである。
ここまで、出鱈目に書いているようだが、その理由(?)は、一昨日、KをSに会った時に話したことを、少しでも丁寧に説明したいからである。
自分の考えが、常識的ではないことが、少しでも理解できるのではと思って書いているのである。というよりも、理解して欲しいから書いているのである。
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