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「紫乃が願った奇跡」(後編) 月島衣音 親父はそこまで話すと、急にコタツから立ち上がり、窓の前に立ち、カーテンのすき間から、夜の雪の空を見上げた。 「大雪の晩だった」 親父は同じ事を二度言った。その背中が、微妙に震えているのが分かる。 「寒かったんだ」 分かっていながら、ボクは努めて軽く返した。 親父の話はさらに続いた。 「俺は生まれて初めてキリストの神というものに向かって祈った。 『神様! もし、あんたが本当に神様なら、奇跡を見せてくれ。今、あんたの忠実なしもべの紫乃が死のうとしている。もし、紫乃が元気になって、また生き続けることが出来るようになったら、俺は、あんたを信じよう。もし、奇跡を見せてくれたなら、俺は自分の宗旨を捨てて、大嫌いだったあんたの道を信じよう』ってな。」 ボクは、親父の背中に向かって言った。 「でも、結局、紫乃さんは死んじまったんだろ?」 「死んだ。その晩、天に召されて行ってしまった。」 「じゃあ、なぜ親父はキリストを信じたんだ? ……神は奇跡を見せてくれなかったんじゃないか。」 「奇跡は起きた。『石をパンに変えるよりも困難な奇跡』が起きたから」 「奇跡は起きた?」 「祈りは聞かれた。」 「どういうこと?」 「祈りは聞かれた。ただ、聞かれたのは紫乃の祈りのほうだった」 「紫乃さんの祈りが聞かれた?」 「紫乃も祈って言った。『わたしに奇跡をお見せください』ってな。俺は紫乃に言っていた。『俺はどんなにお前に勧められてもキリスト教なんぞ死んでも絶対に信じない』って。 紫乃は神様にこう祈った。『わたしに奇跡を見せてください。絶対キリスト教なんぞ信じないと言う夫の心を溶かしてください』って。『そのために、わたしの命を捧げます』ってな。」 「神はその紫乃さんの祈りを聞かれた…」 「そう。神様は紫乃の命を取った。だが、紫乃の祈りを聞いて奇跡を起こした。俺の願った奇跡でなく、紫乃の願った奇跡を」 「それが、今、言った『石をパンに変えるよりも困難な奇跡』ってことか」 ボクの言葉に、親父は背中でうなずいた。 「脇には神父さんが居てくれた。俺は紫乃の手を取って、叫んで祈った。 『神様!おられるなら、紫乃を再び起きあがらせてくれ!』 神父さんは祈って言った。 『紫乃さんの命を御手にお委ねします。地に御心が行われますように』って。 紫乃もいまわの際にかすれた声をふりしぼって祈った。 『わたしは御許にまいります。その前に奇跡をお見せください』」 「その瞬間、俺の頭に稲妻の様に閃き渡ったものがあった。 『キリストの犠牲』というものがどういうものか分かった。それこそ十字架の奥義ってものだと」 「紫乃は死の間際に俺に言った。 『神様はいらっしゃったでしょ?』 不思議と、きれいな透き通る声だった。 『そうだな』 俺は紫乃が息を引き取る直前に、神父さんと紫乃の前で、『信仰告白』をした。 死ぬ程嫌いだったキリストの教えを受け入れた。 紫乃は、俺の神父さんの後に続いて唱える、『信仰告白』の言葉を聞きながら、微笑んで、涙を流した。俺の手をしっかり握ったまま、『主よ、御許にまいります』と言って息を引き取った。 紫乃の死に顔は、言葉に言えないくらい綺麗だった。」 「………」 ボクは、初めて聞かされる親父の壮絶な愛情の物語に声も出せなかった。 「これが俺の…、お前の親父の信仰の原点だ…。」 親父の広げるカーテンのすき間の窓の向こうに、黒い空を背景に、白く静かに降っている雪が見えた。 「また、たまには電話でもくれ。母さんがな…、お前に言っとくれって…。『せめて、年に一度でいい。声を聞かせてくれ』って」 「…うん。分かった…」 ボクはその後、そのまま、この名古屋に定住することになり、この地で結婚し、この地で子供ももうけた。 紫乃さんのその話を、親父は、その後誰にも語ることもなく、墓まで持って行ってしまった。親父は、お袋が他界した三年後に、天に召されて行った。親父もお袋も同じ死因、同じ食道癌だった。 ボクは紫乃さんの話を聞かされてからずっと、この話は親父の創作かも知れないと、心の隅に思っていた。 親父が呑んだくれの放蕩だったとは、心の底からは信じられなかった。親父はボクが小さい頃から養命酒以外、アルコールを口にしたことがなかった。 結核の新妻も放って飲屋街を彷徨く冷血だったとは考えられなかった。親父は、お袋にも、子供たちにも、無骨ながら優しい父親だった。 二〇〇五年の十二月のある朝、名古屋は五十八年ぶりという大雪に見舞われた。 ニュースで五十八年ぶりと聞いて、ボクは、親父の話が創作でも何でもない…、親父の体験した真実のストーリーだったと知った。 了 |
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「石橋を叩いて渡る」 月島衣音 村の庄助が、昨日出来上がったばかりの石橋を「コンコン」叩いている。 そこへ吾助がやって来た。 「庄助どん。相変わらず慎重派だな。石橋を叩いて渡るってか?」 「吾助どんか。めんぼくね。こうしねえとオラ心配で渡れねんだ」 「庄助どん。そんりゃ無理もねっぺ。昨日出来上がったばっかの橋だ。オラなんかほれ。叩いてもなかなか渡れねっから」 すると今度は、弥平がやって来た。手には大きな玄翁(げんのう)を持っている。 「弥平どんでねっか。どしただ? そんなおっきな玄翁持って?」 「庄助どんと、吾助どんでねえか。オラ、昨日出来たばっかのこの橋、渡ってて壊れるんじゃねえかと心配でしょうがねえんだ」 「オラもだ。オラ心配で、こうやって石橋を叩いて渡ろうと思ってる」 「オラも。オラはそんでも壊れっといけねっから、石橋を叩いて、渡るの止めようと…」 「おめらも、なかなか慎重派でねぇか。けんど、オラの方がもっと慎重だぁ」 弥平はそう言うと持っていた玄翁を振りかざし、石橋を「ガンガン」叩き始めた。 「オラなんか、ほれ、石橋を叩いて、壊して、渡らねえ」 昨日出来上がったばかりの頑丈そうだった石橋は、弥平の手で「ボロボロ」に壊された。 石橋は、だれも渡れなくなった。 〈ion〉
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