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2年前のちょうど今頃、自宅にオレンジ色の大きな封筒が届いていました。
何だろう、これ?!
思い浮かばない私は何かのご案内かなと考えていました。
表を見てびっくりです。
日本骨髄移植推進財団からでした。
『えっ、なに本当?!』
しばし言葉にならない単語を口走っていました。
中身は開けるまでもなくわかっていました。
やった、これで返せるんだ!!って思いました。
30数年前、高校生だった私は卒業したら結婚しようと約束した彼女がいました。
彼女は父親の仕事の関係で神戸へ引越し私は当時川崎に住んでいました。
今で言う遠距離恋愛ですね。
その当時は携帯もメールもありません。
手紙書いたり、電話で話す事が主でした。
私は当時、池袋の道場に通っていましたので辛い練習の中、唯一の安らぎが彼女との電話や手紙でした。
本当に他愛のないやり取りです。
3年生になったある日を境に彼女から手紙も電話も来なくなりました。
忙しいのかな?!
2週間待ったけどまったく連絡がないので自宅へ電話しました。
母親が出て、娘は亡くなりましたと告げられた。
当然私には信じられません。
母親が言うには、半年前に白血病だと診断されたそうです。
そんな事は何にも知らない私はそれからも彼女とノー天気にいつもの馬鹿話をしていました。
彼女が苦しんでいた事も知らず、亡くなった事も知らされず。
なぜ!!って思いました。
その時は悲しさよりもなぜ知らせてくれなかったんだという事に怒り・悔しさを感じていました。
心配かけたくない?!ふざけんじゃねえよ、何も知らせないで黙って死ぬなよ!!
悔しくて仕方なかった事を憶えています。
何にも知らされずにいた悔しさ、寂しさがしばらくすると彼女の愛情の大きさだったんだと気付いたんです。
そんな事さえわかってやれない自分自身の幼稚さを腹立たしく感じました。
辛いのは彼女自身の方なのに一生懸命私を励まし続けていた。
そんな事を少しも理解できなかった。
亡くなってから気付いても何もしてやれない。
今でも思っている事があります。
やっぱり言ってほしかった。
共有したかった。
痛みを和らげる事はできないけど
恐怖をなくす事はできなかったかも知れないけど
慰め、労わってあげたかった。
一緒に戦いたかった。
当時は骨髄バンクというものはありません。
確か91年に組織が発足して92年の春に登録しました。
登録した当初は毎日、ポストを見てまだ来ない。
電話が鳴ればもしかして?!って思いました。
それから15年目にしてやっと適合したんです。
その当時、私は派遣先にて仕事をしていました。
大企業や官庁では少しずつドナー休暇制度が認められる様になった頃です。
ですが派遣社員にそのようなものはありません。
そして本人の意思だけではドナーにはなれません。
両親と姉貴の承諾書を貰い、派遣元にもその旨了解を得なければなりません。
もちろん、いろんな検査を受けたり途中何度も意思確認がされます。
この間、仕事休んだり最終的に入院しなければなりません。
私の場合には有給がありましたけど、それでも派遣先に了解を得なければ勝手には休めません。
派遣先が忙しく代わりがいない場合には退社するしかありません。
このあたりが正社員と非正規雇用の違いです。
失業してもそれはどこも補填はしてくれないのです。
その時の担当者や姉貴に言いました。
『仕事辞めても死ぬわけじゃないから。でもやっと適合した患者は待っているんだ。たとえ手術で万が一があって死ぬ事になってもやる。救える命があるんだから。』
本当にそう思っていた。
あの時の彼女にできなかった分、どんな事があってもやりたかった救いたかった。
3回目の検査で最終候補の二人になった時点でコーディネーターさんから連絡がありました。
『今回の移植は患者さんの都合で中止になりました。』
『えっ、それってどういう事ですか?!』
『私にはわかりませんし、患者のプライベートですので。』と言いながら
通常では患者が死亡したかあるいは手術に耐えられる体力ではなくなった場合でしょうという事でした。
逢った事もない見ず知らずの人だったけど救えたかも知れない命を救えなかった。
登録して15年目にしてやっと私を必要としている人が現れた。
それなのに救ってやれなかった。
もしこの先もドナー候補に選ばれたら何の躊躇いもなくお受けします。
こんな私で救える命があるなら・・・・・・・・・・・・・。
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