|
長崎の出島は、人口の島である。
オランダとの交易は、平戸の松浦氏が始めた。当初は、ポルトガルとの交易であったが
ポルトガルは、カトリックで藩主にまで改宗を求め又船員と松浦藩士と小競り合いも
勃発して、その間隙をスペインから独立したばかりのオランダが進出を図った。
オランダは海運に出て商売に積極的に出る必要が国造りに必須であった。又、プロテスタ
ントの国であり、「政商分離」の方針をとり、積極的であった。
後、大村の大村純忠も対外交易は儲かると踏み、イエズス会に西彼杵半島北端にある
横瀬浦を寄進してまで参入してきた。最良の港を求めて後に長崎も寄進している。長崎は
約10年間はイエズス会の領地となり日本のキリスト教布教の中心地となった。
寺は焼き払われ教会の尖塔が聳え立った。この出島の表門橋前の小高い場所は当時は小さ
な岬であり、ここにも教会が建てられた。
豊臣秀吉の代となりキリスト教の進出を危ぶんだ秀吉は禁教とした。
交易はオランダに限るとして家光の時代にこの出島が完成した。司馬遼太郎は。「この
出島という遠眼鏡の先のピンホールから西洋の文物が流入し、それが明治維新へ繋がる」
と述べている。
今、出島の周囲はビル群に囲まれている。
本来は海であった。まだ復元の途中である。復元された建物の中にキャピタン(商館長)
の部屋がある。引き戸1枚で遮られた横の部屋は、側女の部屋が造られている。
出島のこの橋の入り口には「傾城の女以外の出入りを禁ず」と書いた高札が立っていた。
傾城の女とは丸山の出入りを許可された遊女を指す。シーボルトの妻だった「お滝」も
無論、傾城の女である。
新しいこの橋は、あまりにモダン過ぎて違和感を拭えない。
復元という言葉を使用するなら本来の木橋にすべきだったと思うが、長崎は大水害を
経験している。水流を考えてこの橋桁のない金属の橋になったかもしれないが中島川
の上は改修され分流できるようになっている。大水害はそうそう起こるものでもない。
|