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旅上 萩原朔太郎
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん
汽車が山道をゆくとき
みずいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに
萩原朔太郎(明治19年ー昭和17年)の有名な詩である。
この詩が発表されたのは大正2年です。朔太郎は、前橋の開業医の長男と
して生まれたがフランスへの旅は当時、船で1カ月にも及び財力、体力が
なければ無理であった。鴎外は明治17年ドイツへ、漱石は明治33年イギリスへ
留学しているがこれは明治政府の人材育成の国家プロジェクトによる留学であった。
荷風、藤村、など財力に恵まれた一部の人達は洋行し始めているが朔太郎は、ほとん
ど定職についたことはなく高校も退学を繰り返している。親が反対するのも当然で
ある。そこで上記の詩となるがこの「背広」について言及してみたい。
この時代には、「青山」も「アオキ」もない。
背広は、今では物価の優等生といってもいい。私は大学を卒業して入社する前に
「丸井」の月賦で購入して入社式に臨んだ。たしか3万円した。初任給が4万弱
だったので当時は高い買い物になる。今でも3万円で十分購入できる。
朔太郎の時代、背広は「仕立てる」か「古着」の購入しかない。
この時代背広はまだ一般的ではない。背広に限らず兄弟、親戚のお下がりを着る
のが日常的であり成長に応じて衣服を自分用に揃えることが出来る家庭はよほど
恵まれた階級といっていい。大正2年前後の物価について言及してみたい。
大正4年で背広の出来上がりは25円(但し英国製布地)とある。大正7年の3食付下宿
が15円、大工の手間賃2円10銭、大正7年の小学校教員の初任給が12円ー20円。
詩人・佐藤惣之助は、明治23年、川崎の本陣宿を営んでいた家に生まれた。
今では歌謡曲の作詞者として名を成している。古賀政男と組んで多くの流行歌を
遺している。「赤城の子守唄」は東海林太郎のヒット曲であり、「男の純情」
「人生の並木道」「湖畔の宿」と聞けば50歳以上の方であれば曲が流れれば口ずさむ
ことができる。その数多くの流行歌の中で「青い背広で」がある。昭和12年の
作詞である。ここにその詩を書いてみたい。これも古賀政男作曲、歌は藤山一郎で
ヒットした。
青い背広で心も軽く
街へあの娘と行こうじゃないか
紅い椿でひとみも濡れる
若い僕らの生命の春よ
駅で別れて一になって
あとは僕等の自由な天地
涙ぐみつつ朗らかに歌う
愛と恋とのひと夜の哀歌
この詩は、宴席の酔眼で藤山一郎の着ていた濃緑の背広を見て思いついたという
説もあるが佐藤惣之助は、昭和8年に朔太郎の妹・愛子と再婚している。4歳上の
同業の詩人・朔太郎の上記の有名な詩「旅上」は当然読んでいると思う。
義兄・朔太郎とどういう交際があったかは調べていないが佐藤の「青い背広で」の
モチーフの基底に朔太郎の「旅上ーの背広」が沈殿していたのではないか?それで
藤山一郎の濃緑の背広を見て浮かんできたのではないだろうか?。たしかに旅に着て
行く背広は、茶では寂しい。灰色でも寂しい。青い背広が一番似合うのはまちがいな
い。大正期は、モダニズム・リベラリズムの勃興期であり、都市労働者の増大
ともに左翼思想が広がる時代でもある。大震災、金融恐慌、第1次世界大戦参戦、
ストライキ多発、治安維持法成立、この「青い背広で」が出来た年に盧溝橋事件
で日中戦争、太平洋戦争へと日本は暗い時代へ坂道を転げおちていく。
朔太郎の「旅上」が出来た大正2年から惣太郎の昭和12年「青い背広で」は
丁度、大正期勃興したモダニズム、リベラリズムが線香花火の最後の輝きを放つよう
な明るい色調を持っているというのは考え過ぎか?
参考文献ー岩波文庫「萩原朔太郎詩集ー三好達治選」
「値段史年表」朝日新聞社刊
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