オランダ坂から

はかなさは花月の門につるしたる金燈籠の灯より来るらし 勇

文学

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三島由紀夫と文学全集

 昭和30年代後半から40年代にかけて大手の出版社は、競うように文学全集の刊行に着手している。

その代表的文学全集の1つに中央公論社が創業80周年記念出版と題して刊行した「日本の文学 全80巻」

がある。背景としては、高度経済成長により家計所得の増大と団塊世代が読書年齢に到達した

ことが大きい。この全集の編集委員は、谷崎潤一郎(明19年生)、川端康成(明32年生)、伊藤整(明38

年生)、高見順(明40年生)、大岡昇平(明42年生)ドナルド・キーン(大12年生)三島由紀夫(大14年

生)が名前を連ねている。

 ドナルド・キーン氏は、「私がなぜ選ばれたのかは解らないが、国際性を出したかったのかもしれない

」と書き、「選定は、三島氏が中心となって行ない自分の意にそわない作家は名作集に入れた」と

後年記述している。この名作集は、全集の最後の77−80巻の4巻がそうである。これらの巻は背表紙が

名作集であり作家の名前は表示されていない。作家にとって自分の作品が文学全集の1冊を占めることは

生涯の名誉といっていい。そのために名作集と名前が表題になる他の巻とでは大きな違いがある。

 この全集には松本清張は収録されていない。もうこの時期には清張は大きな文学的地位を占めている。

この件について文芸春秋史上で佐野眞一氏は、半藤一利、宮部みゆきとの対談の中でその秘話を明かして

いる。それによると三島は「松本清張には文体がない、あれは文学ではない、だから僕は認めない」と

猛反発し、谷崎、川端は賛成したにもかかわらず「清張を入れるなら僕は委員を降りる」とまで言った

と述べている。三島と清張の文学は大きな違いがあるがこの時、三島は35歳前後である。文学観が

異なるといえどもこの頑な態度はある意味では日本の文学の狭さを象徴していると言える。当時、文壇と

いう特殊サークルの全盛期でありその代表とも言える丹羽文雄は無論この全集で1冊を確保しているが

今時、丹羽文雄などは誰も読みもしない。彼の文学の社会性の貧困さと清張の骨太な文学とは比較できる

水準でもない。丹羽の文学を支えた文壇という非常に狭い空間の中でしか存在できない作品であり、

時代とともに忘却されるべき作家であるが反対に清張の文学は社会に風穴を開けて今でも光彩を放って

いるのは時代が証明している。この全集に司馬遼太郎も収録されていないのは驚きでもある。

清張は、その後中央公論社からの個人全集刊行の申し出を断り他社で出版している。

 今、私が時々通うブックオフで綺麗なこの全集が100円で並んでいる。少年期、読み忘れた1冊を

購入している。文学全集も久しく刊行されない。読書人口の減少と少年の興味の対象の拡大など原因は

多種にあるがこれからはネット上で廉価に読める時代に入って来ている。

生きること

     生きるということは


     今まで知らず知らず犯してきた・・・罪を


     解ってくることではないだろうか?



                        −無言集よりー


     

   「いったいどうしてわれわれは、自分に起こったことを細部もらさず覚えて


    いるだけの記憶力を持ちながら、同じ人にその話を何遍したのかを


    思いだすだけの記憶力がないのだろう?」


                         −岩波文庫・ラ・ロシュフコー箴言集ー


   ◎ 公爵にしてこの嘆きであるから凡人の私が家人に熱を込めて「・・明治維新は・・」

     と語ると「あ!その話し何度も前に聞いたわ」と腰を折られるのを我慢しよう

     ではないか?「痴呆症ではないの?」とまで言われのも我慢しよう!

吉行淳之介の名言

 吉行淳之介は「文士」である。

「文士」と称される最後の人かもしれない。では文士とはなにものかといわれれば「定職をもたず放蕩

しながら文学に専念する人」というのが実態に近い。吉行は、モテタ。日夜繰り出す銀座のクラブで

彼を慕うホステスも多かったと聞く。その艶聞は、彼の死後、本妻以外の女性3名が思い出を綴っている

。その中の1人が元女優で「ねむのき学園」の創設者、宮城まり子であるが本妻ではない。

 その吉行の名言に「腿モモ、膝ヒザ3年、尻8年」というのがある。もっぱら吉行の名言となっているが

本人の本にはみあたらない。周辺の編集者、評論家のどのたかが書いていたと思う。

要するに銀座で女性に嫌がられなくモモ、ヒザを触るのに3年の修行がいり、お尻にいたっては8年かかる

という意味である。あの吉行にして・・という背景がありいかにもと余人には思わせる。又、彼は

あるクラブの螺旋階段を上ろうとするホステスのお尻をそっと触り、そのホステスをして「電流が走った

」と言わしめている逸話もある。

 山口瞳は、旧制麻布高校の後輩であり吉行には親しく接している。在る時共通の知人の

葬儀が鎌倉で行われ帰りの電車に吉行、山口、銀座のママと乗り合わせた。吉行は「中途半端な時間だ」

といってそのママとホテルへ行く話しがまとまり品川で下車する風景を書いている。「吉行淳之介は

異常性欲者としか私にはおもわれない」と記述している。

 作家は、ある面ではどんな生活をしていようが私たちに良質な文学を残してくれればいい。

ここ長崎に市役所勤務で芥川賞を受賞した作家がいるが私にはもうこれだけで読む気がおこらない。

しかし、今、芥川賞を受賞して筆1本でメシは食えない。吉行は「文士」で筆を成した。吉行にとって

いい時代だったかもしれない。関係者で「吉行淳之介」を悪くいう人はいない。

 山口瞳は、次のように書いている。

「私は吉行淳之介と同じ時代に生まれ同じ時代に生活し、同じ時代の空気を吸ったことを大きな

喜びとしている。・・・吉行さんは素敵な人だった。こんなに多くの人に愛された人を私は知らない。」

万葉集と藻塩

 娘から電話が掛かってきて、「こんなおいしい塩、初めて!」

娘夫婦はこの前帰省した時に、私が秘蔵していた「藻塩」を持って帰ったらしい。私も2回しか使用

してない。それも近くのスーパーの店頭で購入したからいつでも買えると思い製造元をメモしていない。

 塩は、最近まで国の専売事業であり「日本専売公社、現、日本たばこ産業」が専売権を握っていて

勝手に製造販売は出来なかった。それが2004年に民間でも届け出だけで自由に製造販売できるように

なって各地、各県でおいしい塩が出回るようになってきた。国の専売の時には、食品というより塩化ナト

リウムの薬品ではないかという塩を平気で販売していた。何もしなくても売れるからそこに創意工夫、

消費者が喜ぶという意識は皆無であった。国の事業とはこんなものだという見本みたいなやり方である。

 塩の製法は、赤穂の塩田で有名な製法は中世以降と考えていい。それ以前は、土器に海水を入れて

煮詰める方法である。その海水の中に「藻=ホンダワラ」を入れると触媒の効能を発揮するらしい。古代

の塩はこのやり方で作っていた。古代、私の故地は、有数な「藻塩」の製造元であったことが「木簡」と

海岸の松林の中から発掘された「製塩遺跡」で証明されている。私が持っていた塩はこの古代の製法で

復元した「藻塩」であった。

 この「藻塩」の名前は、万葉集の巻6の935、詠み人、笠金村の歌に「・・・松帆の浦に朝凪に

玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ」とある。

 おにぎりをこの藻塩でつくる万葉への誘いをまだ果たしていない。

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