オランダ坂から

はかなさは花月の門につるしたる金燈籠の灯より来るらし 勇

文学

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007の日本紀行

 映画の007は、日本を舞台にしたのが「007は2度死ぬ」である。1967年の公開です。

007の映画ほど刺激を受けた映画はない。映画の展開、外国の景色、ポンドガール、サスペンス

洗練されていた。この映画は冷戦時代のソ連を刺激し当時のKGB長官は、東欧のある国の作家に

命じて007を暗殺する作品を書かせている。これは事実でありそれほど国家も刺激させた。

その作者が、有名なイアン・フレミングである。この人物が招待旅行の一環で日本に来ている。

1959年の11月24日昭和34年、オリンピック前である。彼はジャーナリストの

経験もありさすがに日本を冷静に見ている。この映画の原作の取材ではない。ホテルが会議で満室なため

に「福田屋」に宿泊している。たまたま来日中の既知の作家、サマーセット・モームに会い帝国ホテルで

昼食を一緒に食べて講道館を見学している。フレミングは「モーム氏と私の友情は、彼がわたしの妻

になった女性とかって結婚したがっていたという事実によるところが大きい。・・妻の噂を聞くだけでも

会うことを喜んでくれるのだ」と書いている。

 「007は2度死ぬ」のジェームス・ポンドは、前作「女王陛下の007」で結婚したばかりの妻

(イタリヤマフイアの大物の娘)を敵プロフェルドに殺され、その後仕事でもミスをやり立ち直りの

チャンスが日本行きの命令であった。それに比較すると原作者のフレミングは短い滞在であるが気楽に

これから発展していく日本を見ている。彼は銀座を歩く人を見て「日本の若い人たちがとても明るく

、希望に燃えているように見えること、彼らはピカデリーやシャンゼリゼをぶらつく人と同じような

人種に較べて、驚くべきスピードで歩いている。彼らの目のいかにきらきらと輝いていることだろう」

と書いている。それから半世紀、今彼が銀座を歩いたらどのような表現をするだろうか

 帝国Hは6000円かかり芝のパークホテルは3000円で泊まれる。今はホテルの建築ラッシュが

続いている。日本料理は、辻留、新喜楽を薦めると書きスキヤキはそれほど旨いものではないといって

いる。又、夜に当時銀座の一流クラブで文化人の溜まり場でもあった「エスポワール」と「おそめ」を訪

問している。この文章は、今読んでも変な違和感はない。当時の東京の様子がわかる。

 映画「007」の面白みは、フレミングの一流好みの「小物」が映画で随所で生かされている

ことである。ワインであり香水であり煙草である。今の映画は、もうフレミングの原作ではないので

その良さが失われて荒唐無稽な話しが先行しているのは残念なことだ。


 ※ この文は「007号世界を行く」イアン・フレミング 井上一夫約
    1965年 早川書房刊 を参考にした。

 池波正太郎は、昭和37年に長崎・平戸を旅している。

その旅行記を内外タイムスの2月1日に「長崎・平戸の旅」と題して寄せている。それによると

料亭「花月」で夕飯を取り、芸子を呼んでいる。席にきたのが「菊笑・キクエミ」という18歳の子で

あった。長崎から一里の蜜柑の産地で生まれた子と書いている。この芸子が現役ならば65歳になる。

下に笑とつく芸子は他にいる。芸子の名前の付け方は不勉強であるが「花月」の前身は「引田屋」という

丸山の「女郎屋」である。引田屋最後の当主が書いた本を昔読んだことがあるがお抱えの女郎であったか

芸子であったかは定かでないが全て下に笑エミがついていた記憶があるが間違いかもしれない。

江戸時代から続く「引田屋」ゆかりの名前なのか?あるいは丸山遊郭の代表的な名前なのかは長崎学の

越中哲也先生にでもお聞きすれば明快な答えを教えてくれるにちがいない。シーボルトの有名な愛妾は

「其扇・ソノギ」という別の楼の遊女の可能性が強い。オランダ人の愛妾になるには、丸山遊郭の

鑑札がいった。遊女以外は出島の出入りは禁止であった。

 川端康成の「雪国」は、日本文学の名作であるという。

私にはこれがわからない。文章も旨いとは思わない。出だしなどはそれこそ阿川弘之翁のいう「だった

文章」の典型で流麗さはない。会話も無理がある。駒子の話す言葉にいたっては到底我慢がならない

。まるで山の手の奥様である。描写はあるが会話の欠点は川端文学全体にいえることでもある。

 今日は、雪国の文学論を書くつもりではない。この主人公の「島村」とはいったい何者であるか?を

検証したいだけだ。ほとんど文学的には意味がないことです。

 T・クランシーのジャック・ライアンの経歴、あるいは妻の勤務先が有名医大の眼科医で、何故CIA

に入りライアンは給与以上の生活ができるのか?どうして米大統領まで登りつめることができたのか

はこのシリーズの読者だったら語ることができる。私は、「雪国」は5回は読んでいるが島村が何者で

あるかは説明できない。この違いが明治以降の純文学の特性を出しているといってもいい。明治以降の

文学のテーマは「自我の確立」あるいは「私とは何者なのか」であるといってもいい。だから「檸檬」の

呟きが正当な「純文学」として推奨されてきた。この作品も登場人物のプロフィールを語ることはできな

い。「私」「佐藤」でも「井上」でも誰でもいい。作者の心理描写があればいいことになる。

それでは、作品から少しでも島村の個人情報を探してみたい。

・・・・・・

 島村(3P)、無為徒食の島村(21P)、夏の避暑地を選び迷って、家族づれで来ようか(29P)

東京の下町育ち、子供の時から歌舞伎芝居になじんで・学生の頃踊や所作事の・・研究や批評めいた

文章まで書き(30P)西洋舞踏に鞍替へ(31P)西洋舞踏の紹介などを書くので文筆家の端くれ(32P)

職業のない彼(32P)・長唄の文句くらいは覚え(94P)・親譲りの財産で徒食する島村(177P)

フランス文人達の舞踏論を翻訳・・自費出版するつもり(178P)


 概ね島村についての抜書きである。「雪国」は昭和10年の文芸春秋1月号より7回にわけて連載された

もので最終回は昭和12年になる。単行本として出版されたのは昭和12年6月創元社の刊行です。私が

使用した本はこれの56版昭和15年発行のものです。島村は、下の名前は不詳、年齢、家族構成、居住地

不詳といっていい。推定として下町生まれ妻子もちであり親の遺産で食べている。どうも大学出の

インテリで30代の後半くらいの年齢、日本、西洋の舞踏に関心がりその関係本の翻訳をやっている男

と云える。・・・・まことにうらやましい境遇の人物である。時代の昭和10年前後は、満州国が出来不穏

な動きに入っていく。昭和8年には、小林多喜二は特高により築地警察署内で撲殺されている。プロレタ

リア文学の興隆がある。片側で川端らの新感覚の集団があった。大正期からの自然主義に変わる

ものといっていい。自然主義は田舎から出てきた若い娘の使用した蒲団の臭いを嗅ぎ、島崎藤村は、姪の

子に子供を産ませフランスへ逃げる。逃避でありそこから「新生」は生まれなかったので川端らのよりと

ぎすまされた内面描写が出てきたのであるがこの「雪国」には、社会は全く反映されていない。無理もな

いが戦前の女性観そのものであり駒子に恋心を抱くが「こいつが一番よく君を覚えていたよと、人指し指

だけ伸ばした」という有名な台詞に代表されているように性欲の対象としか見ていない。私の不満は、日

本文学の名作としての代表がこの川端の「雪国」だとしたら時代のインテリがおのれの性欲に逃避したの

か解らないがもう少し、時代への苦悩があってこそ代表としての名作の地位を与えられるものではないか

ということである。

 代表作品というものは、「時代への整合性」「その作者でないと書けない」この2 
つの条件が揃って生みだされるものだと思っている。

この本は、明確に竹中労という時代を駆け抜けた反権威・反権力の人の代表作品であ

りドキュメンタリー作品として秀逸であり時代に残るものだと思う。現代文学におい

て記録文学の実質的創始者というべき杉浦明平はその著書の中で「真実は記録の書き

とめる些細な事物の底に包含されているのだから、記録的なものなしには、フイクシ

ョンも芸術的真実をかちえないのである。・・記録とフイクションの統一の

問題が現代芸術のもっとも大事な課題となる。」と書いている。竹中は、嵐寛寿郎と

いう映画の大看板を通して杉浦のいう「芸術的真実」を手中に修めた作品といえるの

ではないか。

 この本のプロローグは、「嵐寛寿郎の他に神はなかった。みたされぬ欲求は永遠の

願望となって、人の情念に生きつづける。誰もがみな少年期に、魔人願望を抱くもの

だろうか?私には、とりわけてそれが強かった。紙芝居の黄金バットから活動写真の

鞍馬天狗へ、天かける夢をずっと見つづけてきた。・・」で始まる。嵐寛寿郎への思

いを告白し少年期の自分を描写している。この思いは尋常ではない

。この本は2人の対話・聞書きを通じて、日本映画史が語られ、監督、役者の人物評

の中に嵐寛寿郎の時代への醒めた眼も浮びあがる。この方の以外な饒舌と進取性には

驚く。話芸でも銭がとれるのではないかと思うほど描写がありユーモアを持ってい

る。頭脳が明晰でないとこの語りはできない。

 時代は、役者が「河原乞食」として規定されていた時でありその時に「活動写真」

の世界は「・・当時映画俳優は河原乞食のもう1つ下やった。板から泥におりると

は、どういう了見やと叔父はいきなりワテの横面を張りました。・・ふだん縁のない

親戚まで(映画界入り)に目クジラをたてよる」とある。

嵐寛寿郎は、「寛寿郎自身がいうように京都のいわゆる被差別芸能者、河原乞食の出

にはちがいない。だがそれは、歌舞伎のあらゆる家系・門閥についても言えることで

ある。嵐家は関西劇壇の名流だった。だが寛寿郎がデビューしたとき、斜陽の一門で

あった」とある。

 面白いエピソードも書いておきたい。

「ワテは衛生家ですよってゼニで女買うのなら、根びきにして、ほかの男に触らせん

ようにせな気色悪い。だから数は少ない。先代実川延若も、成駒屋(雁次郎)はん

も、曽我廼家五郎も掛け値なし1000人斬り・・・・・ワテはそうはいきません。

せいぜい300人」「坂東妻三郎。女遊びもこの人にはとても及びません。祇園の芸

者総揚げにした。花見小路から八坂さんまでずらーっと芸者末社ひきつれて、大名行

列をくりひろげた」晩年の面白い騒動記もある。「神々の深き欲望」の監督

今村昌平に懇願されて出演をOKすると南大東島へ連れていかれ,暑く、シケがくる、

食べ物もない、煙草もなくなり逃げ出したが又連れ戻される。監督は女優の沖山秀子

とオ〇〇コばかりやっている。沖山は素っ裸でその辺を歩く・・・この世のことと

思へん。ワテも奇人やと自認してま、だがこれはタダゴトやない・・・」この場面は

抱腹絶倒!さすがの鞍馬天狗も脱出も試みている・・・・?

 竹中労の少年期よりの熱き思いはこの1冊に結実している。加へてこの本により時

代を画くした希代な映画スター・大御所・葉村屋・嵐寛寿郎は私たちの脳裏に染みる

ことになった。私たちがこの作品を読めることは幸福なことである。著者の力量に賛

辞を惜しまない。




   ※ 同本は、1976年白川書院より刊行され、1985年徳間書店より文庫版が刊行されている
     。

志賀直哉と福田蘭童

 私は、八戸の港で「コンドーム」を短冊に小さく切りそれを疑似餌にして鯵を釣っ

たことがある。釣りをなさる方はこの疑似餌は周知のことであるがこれを考案したの

も福田蘭童と云われている。

蘭童は、私たちの世代ではなんといっても「新諸国物語 笛吹き童子」の主題歌の作

曲家として有名である。♪ ヒャラーリヒャラリコ ヒャラーリヒャラリコ 誰が吹

くのか不思議な笛だ・・♪ NHKラジオ・TV・映画で当時の少年達を虜にした。

映画は、錦之介・千代ノ介主演ではなかったか。

 蘭童は、才人である。尺八、作曲、作家、釣り、料理、狩猟に通じその交遊関係も

多彩である。父があの夭逝した天才画家・青木繁、子供は、ハナ肇とクレジーキャッ

ツでピアノを弾いていた石橋エータローである。志賀直哉に可愛がられ志賀家には木

戸御免で出入り出来た。戦後の不自由な時期に色々な食料を届け志賀を喜ばせてい

る。志賀の短編「山鳩」は、蘭童が実名で登場する。志賀とは、22歳の

歳の差がある。志賀家の雑事もよく引き受けていたようだ。

 蘭童は、友人の縁で渋谷駅南口近くに居酒屋「三漁洞」を開店する。一・二度行っ

たことがあるが感じのいい店である。この店名を志賀に説明した時に「海釣り、川釣

り、湖水釣りで附けたのですが陸つりだと友人から言われている」と話すと「君はそ

の方は専門だから」と冷やかされている。蘭童は、女性関係も活発だった。石橋エー

タロー氏が引き継いだと聞いたが今も健在なのだろうか?

蘭童は、志賀が逝った数年後に逝去している。向こうの世界でも志賀を楽しませてい

るに違いない。


 

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