オランダ坂から

はかなさは花月の門につるしたる金燈籠の灯より来るらし 勇

長崎物語

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長崎市ダイヤランド町

 ダイヤランド町は、長崎市の正式な町名である。

30年近く前にその名の通り三菱地所が長崎郊外の高台に開発した。長崎は、三菱重工長崎造船所が

市の経済動向にその関連企業を含めて大きなウエイトを持つ。この住宅地は市内では人気のある場所で

あるが別名「夜逃げランド」とあだ名がついている。

 私は、この町名に違和感を持つ。たかが1私企業のシンボルを町名につけるこの企業の傲慢さに

反感を覚える。無論、町名には行政が関与しているがこの町名が冠されることに誰も違和感をもたな

かったかと問いたい。長崎の中心部は伝統ある銅座町、銀屋町、本石灰町、籠町、寺町、船大工町など

で構成されている。そこに「ダイヤランド町」である。この町の対岸には最近「みなと坂町」という

住宅街が出来人気を集めている。この名前などは実に長崎の歴史と伝統にあっている。

 三重県の鈴鹿市は、本田技研の工場があり長崎と同じように市の経済に重要な位置を占める。

鈴鹿市は市を挙げて故・本田宗一郎氏に「本田市」への名称変更を願いでたが本田宗一郎は「1企業の

名前を伝統ある市につけるべきではない」と固辞している。

 ここの地方紙長崎新聞に三菱造船の所長が交代すると「新所長御就任祝」の全面広告が掲載される。

関連・下請け・地元企業とおもわれる名前が並ぶ。これなどは、新聞が勝手に企画して掲載するので

あろうが三菱の厚顔・傲慢ぶりがわかる。たかか1企業の所長である。「掲載しないように」

と申し入れすれば済むことである。この企業には謙虚さの1つもない。

 長崎は、三菱が創った町でもない。三菱はここを踏み台に成長した企業であるが国家と密接に

結びついて膨張した企業グループであるから今だ体質に上記のような傲慢さのある企業であるといえる。

 我が家には、三菱ースリーダイヤーのマークのついた製品はなに1つとしてない。

精霊流し

 昨夜は、長崎の有名な行事「精霊流し」であり、市の中心部は交通規制がかかり遅くまで

爆竹と鉦の音、硝煙の臭いが立ち込めた。今年は、歌手のさだまさし君の父上が初盆にあたりNEWSでも

彼が紋付袴、提灯を持って行列の先頭を歩いている姿が放映された。

 この行事は無論、盆に帰ってきた霊を再度浄土へお見送りする儀式である。各地で行われるがそれぞれ

風習があり形式が異なる。

 私の育った所では、浜で火をたき、墓、家の庭でも火を焚いてお迎えしたがお見送りは墓参する位では

なかったかと思うがたしかではない。

 異国で伝統のある祭り、行事を見ると自分が地の人間でないのながよく解る。

ここで育った人は、この時期の暑さ、鉦の音、爆竹の音、風の流れが体に染みている。その内の1つでも

想いだすとこの行事と自分の生い立ちが解るのである。私がこの精霊流しを始めて見たのはもう大分前に

なる。まだ、さだ君の曲は発表されていない。しめやかさはなく、長崎は南方系の風土が色濃く

この行事にも反映されているのではないかと思った。船は2つの形式がある。個人で出す船と「もやい

船」と称する町内会が造る船である。初盆の家は、7月頃から準備に入る親戚、縁者、近所の方々が

手伝いして船を造る。商売人などは大きな船となる。さだ君の家の船も10Mを超えたという。

 手伝いの人に食事、酒も出してそれなりに初盆の家は物入りである。

長崎は、盆過ぎてもまだまだ暑い日が続く「おくんち」までは暑い。

長崎原爆の日

 又、熱い原爆の日が来た。

アメリカの考えは「戦争を終わらせるには必要だった」ということであるが・・・・

「地獄の兵器」は、広島と長崎に落ちた。もう実質日本の軍隊は死に体であった。

ここに来て、「平和都市長崎」という声と核の反対運動は痛いほど解るが「何故、長崎に落ちたの

か?」という声と疑問は耳にしたことがない。長崎の港で最強の軍艦イージス艦を三菱重工が造るのに

誰も疑問の声を挙げない。・・・・・・・・・これが平和都市長崎の現実である。

長崎弁

 
  家人が友人へ電話している。


   「よかあ〜とよ よかよかよか よかあ〜とよ」


  当方には、無論、なにが「ヨカ」なのか皆目不明である。

エル・グレコに会いに

 少年期に、「ピレネーを越えるとヨーロッパの田舎が始まる」という言葉を覚えた。

この言葉の出典は記憶していない。以来、訪れてみたい地の上位であるがまだ果たしていない。

それもフランス側からバスクの地を通りポルトガル、スペインへ入りたい。中でも「プラド美術館」は

必ず行く計画があるがまだ具体化しているわけではない。

 そのプラド美術館から「エル・グレコの聖母戴冠」がここの長崎県立美術館に来ているので会いに

出かけた。名画を長崎の地で見られる幸運はそうあるものではない。

この美術館は、須磨コレクションが中核をなしている。戦中期に特命全権公使であった須磨彌吉郎

氏があつめたスペイン美術500点がそうである。総数は1800点であるが返還されたのは50

0点であり残りは未だプラドを始めスペインの各美術館にあるという。後、遺族から寄付をされて

ここにある。美術館もその後、このコレクションを中核としてスペイン美術を目玉として収集して

いる。その関係でプラド美術館とは「なかよし契約」を結んでおり今回相互の信頼の上で名画が長

崎に来た訳である。グレコが生きた時代は、スペインの黄金期であり大航海時代、日本では、室町

から戦国時代になる。この時スペインは、南米でインカ、アステカを始め略奪の限りを尽くしその

冨で繁栄を構築している。

 グレコは、クレタ島に生まれイタリヤを経てスペインへ行っている。

この時代の絵画の多くは宮廷画家と呼ばれる画家たちが王家、教会の庇護を受け活躍している。

国是としてのキリスト教を背景に王家の権威と威光を描いている。「人間」「庶民」が絵画に登場する

のはフランス革命以降と考えてもいいのではないか?日本でも狩野派などは代表的「宮廷画家集団」

といえる。

 グレコの作品は、日本には2点しか確認されていないという。この作品は、日本初公開である。

キリスト教の知識は、軽薄なために案内を転記すると「聖母戴冠」というのは聖母が地上における

生涯を終えた聖母の眠りから3日後、彼女の魂と肉体はキリストによって天に召され(聖母被昇天)

天上での永遠の生を得た証に(天の女王)としての冠を授かるのだそうだ。

グレコは生涯に同名の作品を5つ残しているがその内の1作品である。

日本は隣国、ポルトガルが来て平戸、松浦氏と交易を開始しているがスペイン船は豊臣時代に高知沖

で座礁しその時の船員が「キリスト教布教は表向きで国の占領が目的だ」と話したことが秀吉の耳に

届き以後キリスト教を禁教にした話は有名である。この時にスペイン船が大挙して来ていたら日本の

歴史は変わっていた可能性はあるがスペインは日本の地よりはるかに近い中南米の冨の略奪で多忙で

あったことが幸運であるともいえる。

 こういう精緻な技術は、それこそ「神の手」から生まれるとしか言えない。

いい絵を見ることは、時代と背景を知る。自分にキリスト教の宗教史が欠落していることはそれこそ

猫に小判であるが機会があれば回を重ねて眼を肥やしていこうと思っている。

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