オランダ坂から

はかなさは花月の門につるしたる金燈籠の灯より来るらし 勇

長崎物語

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県庁の下、通りの横にある。

ここは、当時は岬の先端であり、ポルトガル船の最初の入港は1567年島原半島の口之津に

入っている。今は、この先2百M余りは埋め立てられてビルが乱立しているが港の中心であつた。

大村純忠は、肥前長崎をイエズス会に寄進している。約10年間、長崎は、イエズス会の所領であつた。

この地に教会が立った。江戸期に入ると東側に出島が完成し出島を見下ろすこの地は長崎奉行所

となつた。少年遣欧使節か旅立ったのもこの地であつた。

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3ケ日は寒く、今日は温暖の予報を信じて昼前には家を出た。

去年は鳥居を潜り、石段を登ったが今年は日銀の横を通るを道を選んだ。階段が

年々堪えるようになったこととこの道の方が緑が多く気持ちがいい。本殿の前に出る

る。賽銭箱の前は画像の通り行列が出来ているがその横から賽銭を投げお参りをすま

せた。

 諏訪神社の左右の山裾は公園になっていて長崎に貢献した人の銅像や各種記念碑

が建立されている。その中で目立つのが「長崎甚左衛門」の立派な銅像である。碑文

を見ると長崎開港に貢献したとある。この人物は長崎の土豪である。隣町の深堀氏と

敵対していたために大村純忠の後ろ盾を持っていた。この資料少ない人物が長崎開港

に貢献したとある。何を根拠にこんな出鱈目な碑文ができたのだろう。一大勢力、

大村の言いなりになってていよく大分かどこかへ追い払われただけの人物である。

 長崎開港の功労者を挙げれば大村純忠であろう。オランダ・ポルトガルとの

貿易で巨額の利を狙って福田から長崎へ拠点を移させた人物こそ大村であり、

長崎をイエズス会へ所領として寄進までしている。

 叉、この銅像は刀を大小2本差しにしているのも出鱈目である。

長崎の時代、まだ2本指しの風習はないといっていい。太刀を腰から下げるのが

正しい。この像の建立に尽力した法人、個人の名前が台座に刻まれているが

誰1人、異論がでなかったのだろうか。こういうものは極力史実に忠実にやって

いただきたい。長崎甚左衛門などこの巨大な銅像を建立してまで顕彰すべき人物

ではない。たんなる土豪に過ぎない。

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この画像は、パリの下町ではありません。

僕の家の近く、僕が一番市内で好きな場所です。パリの街並みを描いた荻須画伯の

絵に登場する風景といっても云いすぎではない。ここはオランダ坂下の左側の道路

であり、この画像はニュータンダホテルの裏側の歩道から写している。画面の右側は

聖公会(英国国教会)の教会でありその先には英国領事館があった。この右側一帯が

「大浦バンド」と呼ばれリンガー・オルト商会、英字新聞社、西洋式ホテル、香港

上海銀行、税関等があった幕末から明治にかけて一番華やかや場所といっていい。

この道の先に大浦天主堂がありこの教会に隠れキリシタンが対岸の村から出没したの

がキリスト教史の重要なできごととなっている。長崎の教会群とキリスト教関連遺産

は今暫定候補となっており政府は推薦を決定したようだ。バチカンも全面応援の

姿勢であり来年世界遺産の朗報が届きそうです。

 僕の散歩道も来年以降多くの人出で混雑しそうだ。長崎は随所に異国の顔を

持つその歴史と背景を感じながら歩くと時空を越えることが出来るのがなによりの

街歩きの楽しみでもある。

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遠藤は、この西洋館16番館で展示されていた踏み絵を見る。

そして、転宗を拒み、拷問、極形に遭おうとも死んで行った強い殉教者より、転んだ

「弱い人」を書くのが小説家としての使命だと強い思いにかられる。それが彼の「沈

黙」を始めとするキリスト文学へと結実して行った。

その後、取材で度々長崎とその周辺の隠れキリシタン関係地を訪れている

る。とりわけ、画像の道、これはグラバー園の出口にある十六番館の前の細

い下りの坂道が小曽根方面へ延びている。遠藤は、長崎の一番好きな場所

と云って訪れる度にこの道を歩いている。右手には長崎湾が一望できる。明治

初年、グラバー園の入り口にある大浦天主堂が出来る。この位置から場所

を確認できる浦上村から隠れキリシタン3名が「マリア様はどこに?」と

云って現れる。狼狽した明治政府は、弾圧、捕縛、拷問を加える。度重なる

る弾圧に叉流浪、逃亡の信徒が出る。やっと明治6年欧米の圧力により明治

政府は「耶蘇教・キリスト教」を公認した。

 遠藤が「転宗した弱い人」を題材にしたのはやはり遠藤の生い立ちに

影響があると思うが次の機会にしたい。


 注・アイ・パッドで写して転写したらアイ・パッドの方は正常でPC
   はご覧の通り、初心者の僕には不明、ご教示を!

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 市役所の下の桜町公園にある。

碑の裏面に「昭和31年10月今宮武雄を中心として長崎アララギ会が建立して市へ

寄贈」とある。

 残念ながら無学な僕には歌碑の文字は読めない。顕彰碑であるからせめて裏面

に一般の方々が読める説明文でも付けていただければ感傷にひたることができるが

これでは関係者の自己満足に過ぎないのではないか。

      あさ明けて船より鳴れる太笛の

       こだまは長し並よろふ山

 自筆筆跡から拡大したものだそうだ。この歌は、長崎医専教授として着任した

時に宿った緑屋旅館で作られた歌だそうだ。

 土屋文明は、昭和41年長崎で

      バスの窓より見えてすぎたる石文を

       バスのガイドは言うこともなし

と歌っているがこの茂吉の歌碑を指す。

 私は、茂吉が詠んだ長崎の歌の中で好きなのは

      ハンブルグの港に来れば港町の

       そのおもかげは長崎のごとし      につきる。


       参考文献 「茂吉と長崎」松本 武著 短歌新聞社刊

      

       


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