オランダ坂から

はかなさは花月の門につるしたる金燈籠の灯より来るらし 勇

杉浦明平記念文学館

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木山捷平の伊良湖岬

 木山捷平は、昭和40年1月13日に伊良湖に来ている。

昼ごろ新幹線で来て豊橋の「きく宗」で昼食を摂っている。ここは江戸期より続く

田楽の店である。木山は、菜メシ80円、豆腐の田楽120円を食べその安さに驚いている

が今「菜めし田楽定食」は1700円もする。

 木山は、週間朝日に紀行文を書くための取材旅行であった。

新聞社の用立てした車で杉浦宅へ向かう。杉浦に伊良湖を案内してもらう目論見で

あったが生憎風邪気味で杉浦が手配した役場の吏員が同行した。

杉浦の著書に木山の記述はない。年齢も木山は明治43年生まれだから4つほど上だ。

「酒を飲むとちょっと頭がよくなる家系」と書いているので酒好きであり、

その点は杉浦と同じだが上京した時の交遊は見あたらない。この時の訪問は多分朝日新

聞が手配したのかもしれない。この紀行文は、格別新鮮なことが書いてある訳ではない

が当時の情景が解る記述があるので触れておきたい。その日の宿は、日出(ひい)の

「石門荘」に泊まっている。今、伊良湖の集客場所は港のある先端部分に移っているが

この時代は、太平洋側の伊良湖ビューホテルがある骨山の下にある石門荘周辺が一番

の賑わい場所であった。土産物屋も軒を連ねていた。休日になると大型のバスや

観光客の往来で舗装されていない道路から土煙が上がっていた。宿泊した石門荘は

この時、半島の先端付近にある一番いい旅館であった。ビューホテルが出来るのは

その3年後であり、レジャーブームと共に民宿が開業して行く。木山は「いの貝の瓶詰

」を吏員に恋路ゲ浜のロマンスに例えた説明を受け購入している。みやげ物屋の棚に必

ず並んでいたのがこのアルコール漬けにされたいの貝である。当時の代表的な土産物と

いっていい。いの貝は別名「似たり貝」地方によって色々な呼び名があるがカラス貝と

もいうらしい。何に似ているかというと女性のアソコに似ている。その剥き身が

透明の壜に1個入っているのである。一時、土産物屋から一斉に姿を消したことがある

。どうも脳なしの官憲が余りに卑猥であるから客の眼に映るところに陳列するなと

指導したらしい。権力の愚劣さはこういう所に出る。宿の下の海の岩礁に季節に

なればいくらでも獲れた。その貝を剥きアルコールに入れて販売しただけである。

官憲の論理だと女性の太ももに似た松の枝も卑猥になる。この元手のいらない

隠れた名品は今でも販売されているのだろうか?

 木山は、翌日、フェリーで鳥羽へ渡り、名古屋に出て帰郷している。その3年後には

逝去した65歳という若い年齢であった。


 ※ 参考文献「木山捷平全集 第6巻」講談社・昭和54年4月刊
   「伊良湖岬」初出は、週間朝日の昭和40年2月

 高安は、昭和30年11月に渥美町折立(現田原市折立町)の杉浦宅へ来遊している。

同年齢、同じアララギ土屋文明門下でもある。歌誌「未来」には2人とも参加し、

甲南高校ー京都帝大卒の高安だが野間宏など若い頃からの高安の人脈と杉浦は重なる

ことになる。

 この来遊時に「伊良湖岬」と題して次の歌を詠んでいる。


    雨と汐にぬれし小砂利の靴につき行けば緑の岩かげとなる

    雨具着て鉄の扉をとざす人小さき灯台の下我ら去るとき

    かすかなる雨に髪ぬれ少女ら行く荒磯は遠く汐気立ちつつ

    雨気立つ沖に見え居し貨物船以外に遠し神島を過ぐ

    基地なるを免れし開拓地君と行く君らが闘いを読みて知る我ら

    青年らを送り出す君の声きこゆ夜ふけ再びめざめし我に
                           −砂の上の卓・白玉書房

    叉、杉浦が第1作品集「暗い夜の記念に」を贈呈し

    受けて次の歌も遺している。

      「暗い夜の記念に」

    否定の言葉のみ多きに飽き足らず君を思いき戦争の頃

    今にして君が烈しき罵りもすがすがとしみじみと我は読むべし

    decadentの我を危ぶみ温かし年経て本となりにけり
                            −年輪・白玉書房刊


     ◎ 高安国世(1913年ー1984年7月30日)
       甲南高校・京都帝大文学部 京都大学教授・ドイツ文学
       アララギ歌人土屋文明門下 歌誌「未来」参加「塔」主宰
       高校時代より内田義彦、下村正夫、野間宏等と交遊。

 斉藤喜博と杉浦明平は、同じアララギ・土屋文明門下として親しく交流を

している。杉浦は、斉藤が群馬県日教組文化部長時代に依頼されて講演に行っている

。叉、「斉藤喜博は子規いらいのアララギのよき血統を引いている」と評価している

。斉藤は、杉浦の小説にモデルとして度々登場する教師、詩人・河合俊郎とも交遊

があるようだ。

 その斉藤が杉浦の住む伊良湖崎を詠んだ歌が「斉藤喜博全集」に収録されている。

1951年昭和26年の歌だ。


            伊良湖崎

   入りゆくに雨ながら明るき遠きなぎさ伊良湖の島の貝も拾はむ

   石の上に打ち上げられてふくらめるなのりそも砂におほはれてをり

   はまごうの黒く枯れたる砂の上に強き行きざまに咲くすみれ群

   青き岩くづれこぼるる伊良湖崎ただにやすらに白き燈台

   燈台は白くゆたかに見ゆれども白波高く伊勢の国見えず

   わびしくも白波の寄る伊良湖崎昼をともして低き燈台

   平らぎし海の向こうのやや鋭き神島も雨におぼろになりつ

   いにしへも今もこほしも伊良湖燈台の上を鳶の飛びつつ

   自転車は砂の上に置き山越えて来りし君も岩の上なる

   防風の未だ幼き葉の色の黄色くあれば思ほゆるかも

   砲打ちし跡の明るき松山には一本の棒高く立ちたる

   ふりさけてみつつ帰るに山の向うに砲打つ如く騒ぐ夕潮

   松山より道に流れてあふれたる水は莢豌豆の畑へ入りゆく



    ◎ 参考文献 「斉藤喜博著作集第6巻」昭和37年8月 麦書房刊
      巻末「解説」は杉浦明平、この解説は改題し「斉藤喜博の歌」
      として「明平、歌と人に逢う」に収録。1989年7月、筑摩書房刊行。

 
 「半島」 編集・井上靖

 昭和37年7月6日、有紀書房刊行(文京区高田豊川町24番地)

 18cm×20,8cm、箱、215頁、定価650円。

 27の半島を縁の人、26名が書いている。2編を書いているのは杉浦明平1人。

杉浦は「渥美半島」と対岸の「知多半島」を書いている。何名か上げると、

「花咲半島」を小松伸六、知床半島「更科源蔵」「島原半島」杉森久英、「野母半島

」福田清人」などである。

 杉浦のこの2つのエッセイは、書き下ろしかもしれない。

杉浦の師、土屋文明は、戦前戦後2度ほど杉浦を尋ねて伊良湖、渥美を漫遊して

いる。その時に詠った短歌を引用しているのでその歌を書いておきたい。

     友ありて遠きなぎさを伊勢の国の見ゆる岬にめぐり来にけり

     神島はけはしく陰の強ければ畑のみゆるところ親しも

     松山にほてりし幹を傷けてしたたり乏し受けたる見れば

     松脂のしたたりはやく止むことをいきどほりつつ人の働く

イメージ 1

 ・昭和61年6月刊行、アサヒグラフ編、朝日新聞社発行、朝日文庫、214頁、定価58

0円。

アサヒグラフに昭和42年7月に登場しこの雑誌の最終頁を飾ってきた「わが家の夕め

し」を文庫化したものである。各界の士の夕食の光景が写っている。総勢101名とな

る。

 杉浦明平は、同雑誌に昭和53年9月15日に登場している。

長男・長女夫婦とそのお孫さん達と「鍋」を囲んだ賑やかな食卓となっている。杉浦

が書いている説明の小文の題は「雑草入り水炊き」となっている。

 昭和53年は、杉浦65歳となりこの年の4月に日中友好協会の一員として中国へ行って

いる。著書も「筑摩文学大系・杉浦明平・花田清輝集」「漬け物手帖」「杉浦明平著

作選上・下」「闇と笑いの中」「列島文学探訪」などが刊行された。

 杉浦の前頁には若い頃の論敵「中野重治・原泉」夫妻が食卓を囲んでいるのは面白

い。この本に収録されている方々は既に「鬼籍」に入られた方が大多数である。居間

の調度品からその方の個性と時代が窺えるのも面白いが本自体は売れた本ではないだ

ろう。私もやっと1冊探し出した。関係者で無い限り店頭で立ち読みすれば終わりの本

であるからこれから再刊されるべき本ではない。そうなると現存の本も貴重となる。

 残念ながらその後、離婚した夫婦も載っている。「貴ノ花と憲子夫婦」「井上ひさ

しと好子夫婦」「アントニオ猪木と賠償美津子」。面白いのは遠藤周作の食卓であ

る。食卓には、イワシの焼いたの2匹、漬け物、梅干だけである。遠藤と奥さんの顔に

は笑みがある。これは「孤里庵」が顔を覗かせている。


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