オランダ坂から

はかなさは花月の門につるしたる金燈籠の灯より来るらし 勇

杉浦明平記念文学館

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

 この本については知らなかった。

これは、同社の全集「日本の古典・全25巻」の愛読者特典本で非売品である。いうなれば付録本

である。多分、全巻予約購買者にプレンゼントされた本であろう。この元となる全集は私も

何冊かもっており、第21巻「新井白石・本居宣長集」には研究している杉浦明平が「折りたく

柴の記」全文の口語訳を担当している。昭和40年代に河出は亀倉雄策デザインの日本・世界文学

全集を相次いで刊行している。この全集も亀倉の装丁である。高度経済成長に入り団塊の世代が

進学・就職を始めた時でもあり文学全集が一番売れた時代ではないか?

 全集の刊行は、売れそうな本から出版していく。日本の文学だとしたら漱石であり、藤村、

芥川などが最初にでる。しかし、最初の勢いが最後まで持続することはない。巻も段々と地味な

作品となり一般受けしなくなる。発売部数も減少していく。それを補うために出版社は各種の

特典をつける。この「古典文学入門」もその種の一冊であろうが全25巻のなかには当然入らない

ので巻末の全巻紹介の頁にも記載がない。時代を経ると偶然手にしないと解らない。

 この特典本は貴重である。当代一流の作家達が書いた古典文学の紹介文を集めている。

柳田國男が「稗田阿礼」を書き、川端が「枕草子」小林秀雄が「平家物語」を書いている。

杉浦明平は「軍記物語について」を寄稿している。同文は、昭和38年3月の「国文学解釈と鑑賞」

に発表したものである。友人の寺田透も「和泉式部日記・序」を寄稿している。

伊良湖岬と杉浦明平

 杉浦明平は、「伊良湖岬」と題した同名の小文を2つ遺している。

何れも書き下ろしであり単行本には収録されていないのでその概要を書いてみたい。

 1・「少年少女文学風土記ーふるさとを訪ねてー全46巻ー」

   の第14巻・愛知。尾崎士郎編。昭和38年5月、泰光堂刊の中、P172に「伊良湖岬」を

   提供している。このシリーズは題名の如く、小中学生向けに郷土の風土、文化、歴史の

   紹介文であり、当地関係者が執筆している。

   杉浦のこの文章は、伊良湖、渥美の風土を万葉集、芭蕉の有名な句を引用して戦前の

   軍の伊良湖射撃場の説明、以降発展していく温室の壮観さまで解り易い文章で書いている。

   この年に杉浦は50歳になり、町会議員を辞めている。父太平が再び町長となった年である。

 2・「高等学校教科書・現代国語3・新訂版・尚学図書、昭和56年ー59年使用版」

   にも「伊良湖岬」と題して提供している。

   この文章は実にいい。簡便で伊良湖、渥美の風土を知りぬいた人物でないと書けない。

   叉、愛情のこもった文章といえる。高校生向きであるがエッセイとしても1級の小文と

   いえる。伊良湖、渥美の季節の特徴を書き、杉浦は、伊良湖岬の一番いい時期は

   伊吹おろしの吹く冬を推している。「・・・たけり狂う風と波だけに対していると

   、なるほどここは岬の先端、大地の果てにいるという壮絶な孤独感に包まれる」と書き、

   春がどこよりも早く訪れるかの地の自然の躍動感を書いている。


  東京から渥美を見ると「渥美半島」を正確に答えられ人は数少ない。

  農業の先進性は関係者以外は知らない。観光地としては対象外である。私が知り合った

  人物で「渥美」を挙げて即答したのは全て「杉浦明平」の一連の著作の読者である。

  それも好印象を持って渥美を語っている。

  杉浦明平は、渥美・伊良湖の最大の宣伝マンでもある。この伊良湖岬に土屋文明を案内し、

  旧制一高時代からの友人、立原道造、寺田透、猪野謙二、田宮虎彦婦子は疎開で杉浦の別宅に

  居住し野間宏、他多くの文化人、ジャアナーリスト、歌人、岡井隆は19歳の時に杉浦宅を訪問

  している。

   

   
   

杉浦明平と浜岡原発

 杉浦明平は、地元の中部電力渥美火力の反対運動の中心的人物でありその顛末は一連の

著作に詳しい。

 昨日、中部電力は、現在菅総理の要請を受けて停止中の浜岡原発について想定以上の高

さのつなみにも対応できる高さ18Mの堤防を建設して再稼動を目指すと発表している。

懲りない輩というべき行動である。東電の福島原発の爆発は、津波により外部電源が喪失

したことより遥か遠い宮城沖を震源とそする地震の一撃で翌日にはメルト・ダウン炉心溶

融が起きているのはもう周知の事実これを政府・東電は今まで隠蔽してきた。明日、今日

にも起きてもおかしくない巨大地震危険地帯の中心にある浜岡原発は高さ18Mの防波堤

を建設すれば防御できる問題ではないこと位幼子でも判る。

 本来、この場所にあってはならない原発である。

 それを、杉浦明平は、1989年4月に刊行された広瀬隆編著の「原発がとまった日」ダイヤ

モンド社刊に「浜岡原発が大事故をおこせば・・」と題して次の稿を寄せている。

 「・・1つには発電所の設置される1自治体だけの賛成さえ得れれば恐るべき原発建設

がすぐに許可されるという意識的手抜き原発法のせいであろう。もし事故がおきればその

被害は予測できない

にしても・・・深刻な長期性を考慮にいれて建設のさいには100キロ圏内の全住民の賛否を

問うのが果たすべき当然の義務・・・・はっきりいえば原発がいかに恐ろしいかはこうい

う当局や原発

関係者のいかがわしいやり口、札束による買収などから推察される・・・」と書いてい

る。 渥美火力問題でも当選した鈴木大三という体育教師(岡崎師範・現愛教大)上がり

の粗雑、無能な町長はもともと不動産屋まがいの金儲けに長けた男で「中電からの金を1

戸あたり30万分配する」と公言して当選している。福島原発のメルトダウンによる放射能

拡散は未だ収束どころか拡散を続けている。

杉浦の予測した100キロ圏をはるかに超えて汚染しつづけ汚染牛がマスコミの問題となって

いる。

 この現状を杉浦がご存命ならどう筆写するか?原発と人とは共存できないと書くにちが

いない。この本では「・・・それほど安全をいうなら東京湾の埋立地に原発を設置したら

いい」とも書いているのをつけくわえたい。

八木喜平と杉浦明平

 長年探していた「八木喜平歌集」が古本屋から届いた。

この本は、私家版であり販売された本ではない。八木のご遺族の希望で親交のあった杉浦

明平が編集したものである。序文は、2人の共通の師である土屋文明が「八木喜平歌集

に」と題して寄せている。編集後記は、杉浦が書いている。

 杉浦は、昭和6年の2月18日に一高の同級生芥川に連れられてアララギ発行所を訪ね

土屋文明と初めてあっている。杉浦が「生涯の師」と書いているのはこの土屋文明一人で

ある。

 もうその年のアララギ9月号に

   眠りても体の疲れ消へぬゆえ笑ひし夢を我は見ざりし

と他2首が土屋文明選で掲載されている。18歳の時である。

 八木喜平は、年齢は3歳杉浦より上で2人の家は同じ町内にあり同じ小学校を出てい

る。

杉浦は、12歳で豊橋中学入学のために家を出ている。家は3百M位は離れているので幼少

期には交遊はないと思われるが2人を引き合わせたのは小学校の師である荒木力三であ

る。歌集についている八木の略年譜には昭和6年3月にこの先生の家で杉浦明平と会うー

と書いているので杉浦がアララギ入会してからのことになる。もう八木は、昭和4年にや

はり土屋文明選で

  いも畑の畝間うねまに咲きにける五月ささげの紫の花

他2首が掲載されているのでアララギ・デビューは八木の方が早い。

 八木は、小地主で使用人3人を使って雑貨店を営む杉浦の裕福な家と異なり伊勢の生ま

れで少年期に両親を亡くし旅館を営む親戚の家に引き取られ高等小学校を出るとすぎに働

かねばならなかった

。この歌集に掲載されている歌も八木の実直な人柄がよくわかる。八木は、静に「時」を

「生」を「景色」を歌にしている。杉浦は、土屋文明に「福江には会員がいる。八木喜平

という若い職人で・・すなおでなかなかうまい」と声をかけられている。

 杉浦は、創歌を5年ほどでやめるが帰省の度に八木の歌を持ってアララギ発行所の土屋

文明のところへ届けている。杉浦も「歌をつくらなくなってからも八木君がアララギに私

をむすびつけていた」と書き、そして「伊良湖の漁夫から歌人になった磯丸などは八木君

の足元にも及ばない」と書いている。土屋文明は、戦前からこの二人の歌人のいる伊良湖

岬を訪れて歌も読んでいる。2人して文明一行を案内している。その喜びを八木は次の歌

に詠んでいる。

 明平さんが時をり訪ひて下さるを楽しみにして一年すぎぬ

 明平さんの家に先生居たまひし五日間吾は通ひつづけき

 土屋先生とひとつ鶏鍋をつつしきしもああもう遠いむかしとなりぬ

 後期で、杉浦も書いているがこの歌集に収められている歌は八木の歌の一部にすぎな

い。他にも相当ある。この歌人は郷土を代表するアララギ歌人である。地元のどなたかが

八木喜平の歌の採集をしていただき後世に伝えていかなければならない。

   ◎ 参考文献 「八木喜平歌集」昭和56年・私家版・杉浦明平編集
          「明平、歌と人に逢う」杉浦明平・1989年筑摩書房刊

   ◎ 土屋文明 明治23年ー平成2年、歌人、文学者、群馬県生
          旧制一高 東京帝大 芥川・久米正男と「第3次新思潮」同人
          斉藤茂吉とともに歌誌「アララギ」主催
          東京・群馬名誉県民 文化勲章受賞

 ※ 私が所有している「アララギ」からこの歌集にない八木喜平の歌を記録しておきたい。

   昭和9年1月号第28巻第1号

   ・まひなたに物を洗ひてゐる君を崖の上より見つつ下りぬ

   ・いく年かただにあくがれ故郷に帰りてみれば人はなきかな

   ・工場の掃除はおほよそにして遠くよりきましし友を濱につれきつ

   昭和9年9月号第27巻第9号(27巻とあるが誤植か?)

   ・麦扱機の音単調にひびきつつ木立多き村夕ぐれむとす

   ・森の中に松蝉の声すみゐつつ光やうやく夕づきにけり

   昭和10年3月号第28巻第3号

   ・ひるすぎてすでに日かげとなりにける岬道をゆく人におくれつつ

   ・島々にともし火ひかる夕ぐれを我はぞかへるしぶく荒磯を

   ・埋立地歩みきたりて今日は見る満ち湛へつつ暮るる潮川を

   ・夕ぐるる入江の澪は泡立ちて潮の満ちくるひびき聞ゆる

   昭和21年7月号第39巻7号

   ・崖の上に松かさ多き松ありてひねもすにして風吹きとよむ

   昭和21年「羊蹄 創刊号」

   ・水上に歩みてひるも過ぎぬれば激つ岩の瀬多くなりたり

   ・味噌汁のなかに菜の花うかべればせつなきまでに故郷思はゆ

   ・湧きいでし温泉の流れゆゆたけきをバケツにくみて人らさげゆく

   ・ゆきゆきて町は水田につきぬれば松山の向うに雪ふりし山

   ・崖下の湯口はまなく泡立ちて青竹をひたしぬ二十本ばかり

   ・窓下のあらぶる海に雨は降るみぞれまじりの雨のさびしさ

   ・人なかに黙しをりつつ何のはづみにか立原道造の詩思いだしぬ

   ・北に海南に山の見ゆる室に山の方むきて臥れる吾は

   昭和31年三河アララギ3月号

   ・つとめより帰れば戸棚開けてみる娘のために芋焼く妻は

   ・売上が家計費にも足らぬ幾日か居眠る妻に吾は毒づく

   ・昼食をとるまも惜しみ織りしかど今日の入費の半分もなし

   ・つりに行きし話するあり将棋させるあり不況対策委員会の委員

   ・一握りの土筆いてきぬ行商より帰りし妻の手さげ袋より

   ・交渉のまとまり帰る夜の溝に二人ならびて尿放ち居り





 

立原道造と長崎

 立原道造の長崎への旅は、死への旅立ちでもあった。

昭和13年12月4日に立原は長崎へ着いている。その日の日記には「あと半時間ほどして僕は

長崎に着くだろう。終わりになる長い旅、僕は、この終わりを待ち望んでいたのだろう

か。待ちのぞんでいたとしたら今たいへん高い意味を持って僕の身辺にやって来た。長い

こと夢想していたひとつの生活がいよいよ始まろうとするのだ」

 ある種期待を込めて長崎に来ている。友人に依頼していた南山手の老朽化した西洋館に

旅装をといてまもなく持病の結核が発熱し喀血をする。

12日の日記には「みじかかったこの部屋でのくらしこの部屋だけのこの夢みてきた長崎、

もう言葉は何もない。長崎よ、おまへにあげる言葉は唯一言さよならだけだ」と書いて帰

京の列車に乗る。

13日付けの旧制一高の友人、生田勉宛に次の葉書を出している。

 「長崎に来てみたものは、楠の木の葉に陽があたるのだけだった。そして、人の会話を

よそから聞いているとどこの言葉か全然わからない。仏蘭西語のようにも聞こえる。とう

とうこの南方は僕に何も与えてくれなかった。しかし、僕は何かを自分のなかに気づき得

た。」

 立原が自分の中に気づいたのは「死への旅」にちがいない。

彼は、翌年の春3月26歳で逝去した。

立原が見たであろう楠の大木は今も南山手の活水学院の丘に葉を繁らせている。


   注・参考文献 立原道造全集第3巻 昭和18年山本書店刊。

 


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事