オランダ坂から

はかなさは花月の門につるしたる金燈籠の灯より来るらし 勇

杉浦明平記念文学館

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 この本は、興亜院が昭和15年6月に刊行している。

杉浦明平は、東京帝国大学国文科を卒業するも2−3の学校に履歴書を送るが就職口はなく、

大学院に籍をおきながら同時に東京外語の夜学に通いイタリヤ語を習いルネッサンス研究を志す。

昭和14年に父・太平の軍隊時代の知人鈴木貞一(陸軍中将・後の企画院総裁)興亜院政務部長の

口ききで興亜院に嘱託で採用される。英書の翻訳が仕事である。杉浦は自筆年譜において「チャールズ・

ベル、チベット・中国カトリック教布教史等、5冊約2000枚の翻訳をしたが、どれも原稿のまま

焼けてしまったらしい」と書いている。その焼けてしまった本が今回入手した「支那カトリック教布教

史」である。表紙に興亜院資料(政治編)第10号・昭和15年6月 表題 左下に興亜院政務部 とあ

る。本文110頁、付表1、索引15頁、奥付はない。例言に「翻訳者は、嘱託、杉浦明平である」と印

刷されている。本というより小冊子である。この時期の国の刊行物の体裁である。横15cm、縦20、5c

m。 私は,同じ興亜院刊で杉浦約の「極東平和の先決条件」が国会図書館に所蔵されているのが解り2年

前に当地の長崎市立図書館経由貸し出し依頼をかけたが「館外持ち出し禁止図書指定」ということで手に

することは出来なかった。この本は国会図書館にも所蔵は確認されていないが今回、主要大学、県立図書

館蔵書を再度調べてみた。東京大学東洋文化研究所図書室、横浜市立図書館には所蔵を確認できたが極め

て稀本であることはまちがいない。杉浦明平の文学的刊行本は、昭和18年にダ・ヴインチの訳書である

「科学について」を10月に出版している。第1作品集としては昭和25年の「暗い夜の記念に」が有名で

ある。表題本は、杉浦の文学的行動の著作ではない。彼の作品の中に入れるのは難しい。業務上、仕事で

翻訳した本であるが彼の年譜上たしかに存在を確認できる重要な資料である。当初、何部刊行したのか不

明であるが残存部数は極めて限られるのは間違いない。


 注・興亜院の刊行物に詳しい方がおられてこの本の刊行部数がお解りでしたらご教示いただきたい。

 注・「興亜院と戦時中国調査」岩波書店刊が所蔵を確認しているリストには
   「米国議会図書館・農林省農林水産政策研究所図書室・東大東洋文化研究所」の3ケ所をあげて
    いる。これに横浜市大、東洋文庫が所蔵。私の本は6冊目となる。

 注・参考・「杉浦明平著作選 下 巻末自筆年譜」


 ◎ 地元新聞発表文を補記。

 杉浦明平と立原道造の関係については前に書いた。

二人は、旧制一高の短歌会で会い、立原が1939年に25歳で逝去するまで交遊し一

番身近にいた人物の1人が杉浦明平である。ここで彼が遺した立原道造に関する著作を

整理しておきたい。


 1・昭和22年4月執筆・南北、復刊号12月に発表⇒「立原道造の進歩性と反動性」

   「暗い夜の記念に・増訂版、同復刻版に収録」

 2・昭和23年1月「増補・現代日本の作家」に⇒「立原道造の思い出」

 3・昭和30年3月「堀辰雄全集・月報5」新潮社刊に「堀さんと立原と」

 4・昭和33年「立原道造全集2巻月報4」に⇒「一高時代の立原道造」

 5・昭和46年6月「ユリイカ」に⇒「下町育ちの立原」

   「闇と笑いの中」に所収。

 6・昭和47年3月「茨城県史研究7号」に⇒「立原道造の祖先」

   「闇と笑いの中」に所収。

 7・昭和49年3月「浪漫昭和」に⇒「立原道造をとりまく女性達」

   「闇と笑いの中」に所収。

 8・昭和50年10月「太陽」⇒「立原道造」

 9・昭和51年3月「ボナンザ」⇒「古本屋彷徨」

 10・昭和52年6月「文芸読本 堀辰雄」河出書房新社へ「堀辰雄」(執筆は昭和29

   年)

11・昭和52年10月「世界美術全集・第8巻・ルーベンス・フェルメール」小学館刊に   
   「ルーベンスと私」発表。

 12・昭和56年「風信子・立原道造を偲ぶ会会報」⇒「講演録・私と立原道造」

 13・昭和59年「文学館第5号」潮流社に⇒「立原道造の蔵書1」

 14・昭和63年「岩波文庫・立原道造詩集」⇒「解説」この本の編集も杉浦である。

 15・昭和63年「塔6月号」に⇒「文語体の根強さ」

 16・昭和63年5月「信濃毎日新聞」に⇒「立原道造と軽井沢」

 17・平成元年7月「明平、歌と人に逢う」に⇒「立原道造上下」

 18・平成7年「歴史海流第4号」に⇒「未成年編纂ノート」と立原道造

 19・平成8年「小説・海越・創刊号」に⇒「生涯これ修業時代ー立原道造の場合」

 以上の19作品であるがまだ見落としがあるかもしれない。関係本には「明平、歌と人 に逢う」−昭和戦争時代の青春ーがある。
  

 芥川賞が創設されたのは、1935年(昭和10年)であった。

この第1回の受賞は、石川達三の「蒼氓」である。今時、石川達三や慎太郎など読む人もいないが

この時、太宰治も候補であったが落選している。このいきさつは文学史の事件となっている。太宰は

パビナールの中毒を患っていた。今でいう「薬チュウ」である。この賞の賞金が500円であったために

借金漬けであった太宰は欲しくてたまらなかった。そこで選考委員の1人であった佐藤春夫に次の有名な

手紙をだしている。日付は昭和11年2月5日である。「拝啓 一言のいつはりもすこしの誇張も申し

あげません。物質の苦しみがかさなり かさなり 死ぬことばかり考へて居ります。

 佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知って居ります。私はすぐれた作品を書きました。

これから もっともっと すぐれたる作品を書くことができます。私はもう10年くらい生きていたく

てなりません。私は よい人間です。しっかりして居りますが、いままで運がわるくて、死ぬ一歩手前

まで来てしまいました。芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。そうして、どんなに苦しみ

とも戦って生きて行けます。元気がでます。お笑ひにならずに、私を助けて下さい。佐藤さんは私を

助けることができます。私をきらはないで下さい。私は必ずお報いすることができます。

 お伺いしたほうがよいでせうか。何日 何時に来いとおっしゃれば、大雪でも、飛んでまいります。

みもよもなくふるえながらお祈り申して居ります。

                    家のない雀

                                   治 拝

 川端康成は、太宰を「作者目下の生活に嫌な雲ありて・・・・」という有名な評を発表する。

太宰はこれに激しく噛みつくが太宰が受賞することはなかった。昭和23年新生7月号に杉浦明平は「太

宰治への公開質問状」を発表し、その中で「貴下は自分以外をあわれむことを知らぬエピキュリアン」と

書き「芸術的な造形化という点では類なくすぐれている。」が「天皇陛下をお愛し申し上げていた」太宰

は文学精神を汚すもの、「ヒロポン代わりに文章を書く処方箋を1片進呈し・・・文学は内と外との

天皇制打倒から・・・を座右の銘とする栄を賜らんことを」と書いて締めている。杉浦は、年齢は5歳

下の東大の後輩であるが直接の交遊はない。東大近辺で太宰を見かけたことは文章にしている。この

文章は杉浦は昭和23年の1月に執筆しているが発表は昭和23年の「新生」という雑誌の7月号である。

前月の始め頃発売されたとしても太宰の自殺は昭和23年の6月13日にたしか玉川上水に飛び込んでいる。

この文章読んで飛び込んだという確証は無論ない。多分、読んでいないと思う。

杉浦が野間宏の推薦で日本共産党へは入党するのは昭和24年の1月であるがその活動は始めている。杉

浦は、太宰が戦中に保田興重郎の日本浪漫派への接近を否定してのこの文章の結びである。翌昭和25

年、杉浦は戦後初めての文学上の日本浪漫派告発の書というべき「暗い夜の記念に」を自費出版する。


 ◎ この文章で後年、杉浦は、橋川文三、奈良本辰也の3人の対談「吉田松陰」のなかで

   橋川から揶揄を受けている。以下は引用である。

   「明平さん自身の書いたものだっていまじゃ鋭鋒がおさまったみたいだけど、昔は

   ずいぶんきびしかったですよ。(笑)だって明平さんが悪口を書くとコロッコロッと人が

   死んだくらいですよ。太宰治が死ぬ前にも悪口いったでしょ。その前、誰でしたっけ(笑)
                            
                        −吉田松陰・思索社刊ー

八木喜平の歌

 八木 喜平は、戦前からアララギ誌上で活躍した歌人である。

私の在所と八木の家とは無理すれば歩ける距離にある。八木の歌は静に自分の周辺に起こ

る生を哀を時を歌っている。彼の歌にある空気の色さえも解るだけに私には懐かしく感じ

られる。

彼がアララギの昭和29年1月号に発表した歌に次の歌がある。

          土足にて米兵住みし教室を

           なげきしも七年前となりたり

 八木がこの歌を詠んだ少し前に私は家の前の用水で遊んでいた。鮮明に覚えている。

丁度そこへ占領軍のトラックが米兵を乗せて急に現われた。家の隣はカーブになっていて

トラックの音はすれども姿は突然現われる。3・4台の車列だったと思う。何事か体が固

まった。荷台には銃をもった米兵が並んで座っていた。通りすぎたトラックから黄色いも

のが降ってきた。暫く通り過ぎるトラックを見えなくなるまで埃の中で見ていた。後で足

元に散らばった物を見たらキャンデイであるのが解った。この黄色の包み紙は私の脳に印

刷されている。私の身の回りには存在しない色だった。

 杉浦明平が、唯一師と呼んだのは土屋文明である。

その文明は、サイパン陥落の報を聞いて、アララギの昭和19年9月号に次の歌を載せている。

     サイパンの島を思ひて

      眠られず わか心 くやしくやしくやし


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