命のデモ行進

現代社会を改善する非暴力直接行動とは!

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前回の記事に「僭称」というブログからトラックバックをいただきました。 
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2011-02-14
非常に興味深いご指摘が2〜3ありましたので、お答えさせていただきます。

http://img.mixi.jp/img/emoji/112.gifは私のコメント、http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gifはトラックバックからの引用です。


http://img.mixi.jp/img/emoji/112.gif
私は現代科学というものに有用性を感じていません。
http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gif
いますぐ回線を切って目の前のコンピュータを捨ててらっしゃい。あなたの言葉に傾聴の価値があるとすればそれからで、そうじゃなければただのHypeだ。

なるほど。遺憾に感じる気持ちはわかります。
最近私は、一つの気付きを得ると、また次の気付きが見えてくる、といった感じで、どんどん世界のカラクリが見えてくるような、そんな自分の状況に驚きを感じているところです。
先の主張は、「常識」という通常私たちが基準とする錯覚から開放された果ての、ほぼ確信に近い思いの表れです。
これを理解していただくには、もう少し私とお付き合いいただき、議論を深めてもらわければならないように思います。
というわけで、今回は先を急がずほんの少しだけ説明せていただきます。
私が今強く感じていることは、科学が追求する道筋と、生命体としての人類が本質的に希求し志向する道筋は、同じ目的地を目指していないということです。
たとえば、科学が目指す「健康」と、生命体としての人体が希求する「健康」を考えてみてください。
科学にとって健康であるとは、苦痛がない状態、そしてそれができるだけ長期間継続する状態ではないでしょうか。ですから、長寿は健康である事の最大の証明となります。
ところが、生命体として私たちが志向する健康とは、「清浄な肉体」なのです。
これをどう表現したらいいのか、うまい言葉が見つかりませんが、体全体の生命エネルギーの流通が不純物・不活性によって滞ることなく、整合のとれた状態とでも言いましょうか。
「清浄な肉体」を科学に求めることはできません。そして、そこに至らしめる日ごろの修養・鍛錬にも、さほど科学は役に立ちません。

それから、「いますぐ回線を切れ」という御指摘ですが、これも私の主張を理解していただく必要があるようです。
よくも悪しくも、人類はコンピュータという土俵でゲームすることを選択したわけですが、私たちに開かれているゲームはそれだけではないということです。
一例を揚げれば、小鳥や小魚の群れが全体で一つの生命であるかのような整列した動きをすることがあります。boidsと呼ぶそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=io_dp60xFxY&feature=fvsr
これなどは、生命の本質的な機能に基づいたコミュニケーションであり、ロックコンサートなどで観客が感じる一体感や、サッカー選手が言うアイコンタクトなどは、これと同質のものです。
本来、意識は空間を超え、ダイレクトに他者に伝えることが可能なものなのですが、科学はそれを「証拠」がないといって否定し、わざわざネット回線という不便な道具を間に挟めなければ、コミュニケートできないと思い込んでいるのです。
これは一つの愚かなゲームであり、私がもう少し個人的な生活に重きを置いておれば「回線を切る」選択をすることもあるでしょう。
しかし、今の私は、みなさんに幾許かの「気付き」を感じてもらう試みをすることに使命を感じており、科学が取り決めたネットゲームに身をおく必要を感じています。
ですから、確かに今私はコンピュータという科学の恩恵に与ってはいますが、「生命の目的」に立ち返れば、これも本質的に不要のものだと考えます。

http://img.mixi.jp/img/emoji/112.gif
むしろ、科学は不要であるばかりか、場合によっては非常に有害であると考えます。
http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gif
このかたにその言葉をだれかに届けうる手段を与えた、と云う一点において、科学(とその成果のひとつであるインターネット)は確かに"有害である"側面を如実に示しているけれど、同時に有益な言説も数多くぼくに届けてくれるので、この点ではまぁ差し引き個人的にはプラスですね。

人類が生命に根ざしたコミュニケーションを放棄し、科学が認める交信方法のみを信頼する姿は、私に言わせれば、「耳がしっかり聞こえるのに補聴器を使」っているようなものです。
科学に意識を征服される以前の人類は、この能力を自覚し活用していたと思います。
この方は、そんなこと信じられないと言うでしょうが、それは、人類が何世代にもわたって、そう思い込むように教育を受けているからです。
今私たちがこのような能力を復活させるためには、それなりの努力が必要となるでしょうが、おそらく進化の道筋はそういった方向を向いている。そのように考えます。


http://img.mixi.jp/img/emoji/112.gif
科学に慣らされた常識的な思考では、私の主張は時に突飛で、ナンセンスな印象を与えることもあるでしょう。私は、その点に臆病になるつもりはありません。私が目指すのは、科学よりもより真理に近い洞察です。
http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gif
印象を与える、と云うか、根拠も示さずに「思う」「考える」だけでつながれていく主張は、単にほんとうに"突飛で、ナンセンス"なだけのものだとみなされてもしかたがないんじゃないかな。

表面的には同じ人間でも、気付くのが早い人遅い人がいるように感じます。
気付きの遅い方は、私が突飛でナンセンスだという印象をなかなか取り払うことができないでしょう。ですから、「突飛だ」「ナンセンスだ」と思われることは幾分やむをえないことだと思っています。
でも、最終的には「気付き」ます。
なぜならば、科学の世界観は虚構であることはもはや明白であり、人類は迷走しながらも、最終的に生命が目指す方向が科学では無いことに、思い至るでしょうから。


http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gif
"常識的な思考"で理解できない主張は、たいていの場合常識を超えているのではなくて、単に常識に届いていないだけの場合が大半だ。

今日の常識は明日の非常識です。そんな例はいくらでもあります。
現在もっとも急速に非常識化している常識は、なんといっても地球温暖CO2人為説でしょう。
それと、従来は「脳細胞は分裂再生しない」が常識でしたが、今では覆されています。
http://www.naoru.com/nousaibou.htm
以前は化学調味料を料理に入れるのは当たり前でしたが、将来は「発病物質」として、全ての食物に対し使用を禁じられるでしょう。
現代の常識の多くは科学によって作られたものであり、その多くが将来覆される運命にあります。
もしも「今教えられている常識だけが真実なのだ」と思い込んでおられる方がいらっしゃるようでしたら、一旦ご自分を疑ってみることをお勧めします。


http://img.mixi.jp/img/emoji/112.gif
たった一匹のサルが獲得した発見・気付きは、空間を飛翔し、他のサルへと伝播します。
http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gif
よく知られているようにこれはライアル・ワトスンによる創作であり、ワトスンが引用元として挙げている河合雅雄はこの現象をきっぱりと否定している。

ウィキペディアの記述では、「百匹目の猿現象」はこう書かれています。↓

『「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」という存在しない現象を指す。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%8C%B9%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%8C%BF%E7%8F%BE%E8%B1%A1

「存在しない現象」という断定は現時点における常識に過ぎません。
「接触のない」2者間にはなんら因果関係が発生しないとする立場は、科学の古典的世界観である「機械論」に依拠するものですが、量子力学などによってこれは否定されています。↓

『また、量子力学の不確定性原理のようにそもそも決定論が当てはまらない物理現象も知られている。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AB%96

「ある行動」「考え」といったものを、科学は質量的に特定できるわけではなく、特定できないものの挙動を確認することは、科学にはできません。
よって、「存在しない現象」と断定することは、科学の能力を上回ることであり、ましてや真理に繋がる主張でさえもないのです。
「百匹目の猿現象」は、科学的な証拠を提出することはできないものの、理論として矛盾がないと私は考えます。よって、将来評価が反転する可能性を感じています。


http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gif
そう云うわけで、このことを根拠にした主張は端的に嘘なわけだけれど、まぁここまで読んできたこのかたのスタンスからすれば、嘘をつくことそのものを悪いことだとはあまりお考えにならないんだろうな、とは推測できる。

まさしく、立証されていないことは全て嘘だと断定する姿勢こそが、科学の限界を認めないための最終手段です。
「立証されていないこと」には、当然「将来立証されるかもしれないこと」である可能性が存在するわけですが、そのような浮動性を無視して嘘だと言い切ってしまうのは、事実ではなく信念がなせる業です。
今や、そういった信念の押し付けが現代科学の本質となっており、これは見方によっては非常に宗教的です。


http://img.mixi.jp/img/emoji/112.gif
ですから、人の想念が水の結晶の美醜に影響するという「水からの伝言」は、それをニセ科学として退けようとする蒙昧な現代科学思想より、はるかに真理に近い考えであると思います。
http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gif
これも単純に嘘であるわけなんだけれど、まぁ嘘つきが嘘の根拠に嘘を持ってくるのは、薔薇の木に薔薇の花が咲くのと同じくらいには自然だ(でもおなじくらいの溜息は呼ぶかもしれない。ほぼ逆の意味合いで)。

これも、上述と同じですね。
科学には、水の結晶の美醜を見分ける基準がないのですから、嘘だという断定は科学の能力を超えるわけです。
残念ながら、最後は科学信奉者特有の、レベルの低い信念の押し付けで締めくくられています。



http://img.mixi.jp/img/emoji/237.gif
ただねぇ。
嘘が羅列されているだけの美しくもない文章を綴る人間が真理を語ったり、あまつさえ「詩人」を名乗るのは、傲慢とかそんな程度ではない、限度を超えた僭称だと思うのだよね。

科学という牢獄から世界を見回そうとする方には、真理というものが途轍もなく不可解に思えるのは理解できます。
真理はむしろ、科学の鎖を思考から取り去った時に、より感得されるもののように、私は感じています。
いつか、この方が、そういった心境を理解する日が来ることを願っています。
それから、「詩人」が人間の中でも何か特別な存在であるかのように考えていらっしゃるようですが、これも想像力の乏しい解釈ですね。
プロフィールに私はこのように記述しています。↓

この世に生を受けた人・動物・草や木。
全てが詩を宿しています。
命は詩。
命は詩人。
誰もが、そして全ての生き物、現象が「名もなき詩人」なのです。

気付いておられないようですが、この方自身の生きる姿勢、人生が綴る物語も、一編の詩なのです。

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不思議でならないのですが教えてください。
「水からの伝言」を容認する方は、想像力が不足していると思うのですが…。
美醜は個人の判断なのでここでは何も言いません。

言葉を書いた紙を水から見える向きに貼るのですよね。上下逆に貼ったら?ナナメなら?裏向きなら?(正しい向きに貼らないとダメなのでしょうか)どこまで読み込めるか興味あるところです。水の判断力が試されます。
水への語りかけに外国語では?メジャーな言語から少数民族の使う言語まで様々です。言語には其々の価値基準があります。水は言葉の意味を判断できるのでしょうか?
その言語を使う人がやらないと効果は出ない?…ならば「この中に懐疑的な人がいるのでボクの超能力は発揮できない」と言うのと同じです。
もしや、日本でのみ有効な実験ですか?

上の条件での追試なら、小学生でも思いつくでしょう。ぜひトライして発表して下さい。食べ物の腐敗度を比べる実験なら素人でもできそうです。ちなみに常識的な人は「差はでない」という結果が分かっているのでやりません。
「荒唐無稽に見えるけど信じて欲しい」、という側にいる人が、証明しなければいけません 削除

2011/3/1(火) 午後 6:42 [ もも ] 返信する

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>水の判断力が試されます。
水が判断すると思っている時点で、あなたの想像力の限界があります。
新しい科学は、実験結果に観察者の意思が反映する可能性を視差しています。
言葉がわかろうがわかるまいが、貼った紙が斜めだろうが、観察者が予想通りの結果成が出るはずだという意思と共に観察するならば、それが現われる可能性はあると、私は考えます。
近々、その点を掘り下げて記事にしようと思いますので、お楽しみに。

2011/3/3(木) 午後 0:47 [ iraku3202 ] 返信する

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コメントありがとうございます。ずっと疑問だったんです。
どうして子供騙しの手法に引っかかり信じてしまう人がいるのか。
でもこれで腑に落ちました。依って立つ所が違うんですね。
わたしは科学の手法として(間違っている)と思っていたのですが、従来の「科学」ではなく「あたらしい科学」の話だったんですね。納得です。
従来の科学では証明できない事柄なんですね!私の想像力不足でした。恥入るばかりです。

でも通常「科学」といえば、従来の科学を指しますので、できれば「あたらしい科学」と言って頂ければ、誤解が少ないように思います。
あとは「あたらしい科学」のルールを明示していただければ、完全です。 削除

2011/3/4(金) 午後 9:48 [ もも ] 返信する

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「従来の科学」では、物理的な因果関係が重視され、空間や時間のような、人間の計測できる形での繋がりが存在しない複数の観察物の間には何のつながりもないと結論してしまいがちです。
しかし、20世紀初頭の量子力学の発見以来、原子や分子レベルまで掘り下げられた観察では、それまでの自然法則に縛られない、人間の予想外の挙動が確認されました。
人間の想念や意思は物質なのか?もしも物質という形態をとるとするならば、原子・分子といったレベルよりももっと細かなものになるのではないか?そんな細からレベルの観察が、果たして人間の従来の技術の高度化によって可能になるのか?
私は、「従来の技術」つまり、科学の方法論の追及によって解明される知見には、もうそれ以上は進めないといった限界が存在すると考えます。
ですから、私は「従来の科学」が要求する「証拠」「証明」よりも、観察された現象と推察に矛盾がないことを重視します。

2011/3/5(土) 午前 11:22 [ iraku3202 ] 返信する

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拝見しました。
おっしゃるのは、科学というより哲学の思想ではないでしょうか?
量子力学の分野の発展を述べられていますが、それも含めて「従来の科学」が、今でも更新しつつある「生きた学問である」、という事ではないでしょうか?現時点でわからない事はたくさんあります。
現在解明されていないからといって「今の科学に限界がある」と言い切れません。

もうひとつ、科学では測れない事柄はあります。たとえば、「人が生きる目的とは」「何のために生まれてきて死ぬのだろう」「よりよい生き方とは」等々。
これは哲学や宗教の命題ですね。
西洋で科学が生まれてから、科学と宗教を統一しようという試みがなされてきましたが、成功しませんでした。せいぜい折り合いをつけるくらいでしょうか。無理に一緒にする必要はないと考えます(これは個人的な考え)。
日本人には無宗教の人が多いですが、信じている宗教ございますか?
「何かを信じなければ」という欲求が、無宗教の人には強いように思います。 削除

2011/3/7(月) 午前 11:48 [ もも ] 返信する

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ももさんへ

回答が長くなりましたので、記事にしました。
ご覧ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/iraku3202/2391747.html

2011/3/8(火) 午前 11:15 [ iraku3202 ] 返信する

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