英語上達と癒し

更新してほしい内容があると嬉しいんですが。。。

「持つべきは近所のおばちゃん」

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第4話「更なる悲劇」

「持つべきは近所のおばちゃん」

第4話 「更なる悲劇」



私は父の葬儀の2日後から学校へ行くようになった。

私は学校から帰るとすぐに姉と私が共同で使う本棚の

上段に置かれた位牌の前に立ち、蝋燭と線香に火を灯す。

上段といっても、高さが1メートルあるかないかの

本棚だったのだが。

私の家がかなり狭かった事もあり、また金銭的な余裕など

なかった為、仏壇を買えなかったようだ。

私は両手を合わせて「南無阿弥陀仏」と拝む。

そして、目を閉じながら私はその前で父と10分近くいつも

会話をするのだった。私が大体いつも父に話しかけるのは

その日の学校での出来事がほとんどだった。

『お父ちゃん、今日でべそと喧嘩したんだ。だって、あいつが

 俺の鉛筆を折ったくせに謝らないんだもん』

私はじっと黙って父の声を聞こうとした。

―剛三、喧嘩をするのはええけど。でもはようにちゃんと仲直り

 せなあかんぞ!友達は大切にせんとな!お前が誰かを助ける

 心をちゃんといつも持ってたら、お前が困った時誰かがきっと

 助けてくれる。ただ、あてにすんのはあかんけどなぁ。

 ええかぁ、人生は壁当てと一緒や!お前が強く投げたら強く

 跳ね返ってくるんや。分かったか?

私は毎日このような会話を父としていたように記憶している。


私の父の葬儀から1ヶ月程経過をしていた頃だ。

私の母は父の亡き後はずっと塞ぎ気味で生気が感じられない程だった。

その心労もあったのか、母は心臓の病気で入院する事となった。

母はそれまで父が健在だった頃から、近くの設計事務所で働いて

家計を助けていた。しかし、母は西区にある宇川病院へ

入院する事となり、我が家の収入源が絶たれる事となった。

国から幾ばくかの生活補助を受けていたようだが、幼い小学生

の私たち2人ではどうする事もできなかった。

母も突然の病だったようで、誰かに頼む術もなかったのだ。

私は姉に

「お姉ちゃん、お母ちゃん大丈夫かな?」

「心配したって、別に良くなる訳でもないやろ?」

(そんなよく冷たい事言えるよなぁ!)

「それで、お姉ちゃん今日からどうすんの?」

「どうすんのって?」

「ごはんとか、洗濯とか?」

「そりゃぁ、私たちでせなしゃあないやろ!」

「そら、そやけど……」

私は姉が全てやってくれるものと思っていたのだが、

彼女の言った『私たち』という言葉を聞いて、私も

お手伝いをしないといけないんだなぁと改めて実感した。

そんな会話を姉と私がしていた時だった。

ふと現れたのは。。。

第3話「父の教訓」

「持つべきは近所のおばちゃん」

第3話 「父の教訓」



私の父が私の事をかまってくれるようになったのは、

私の弟が他界してすぐ後だったらしい。

それまで父は仕事一筋の人だったようである。

私の姉は物心がついた時から一人でいるのが大好き

だった―それが故に父ともまったくといって良いほど

よりつかなかった。

私の弟が亡くなって1週間後に私は初めて父とキャッチ

ボールをした。父は本当に野球が大好きだった。

彼はジャイアンツのファンだと私や母の前では言っていたが、

私は幼心にも彼も母と同様阪神ファンだと感づいていた。

私の母は阪神の大ファンで、中でもとりわけ田淵が大好きだった。

ある夜私たちがテレビで阪神対巨人の試合を見ていた時、

田淵がホームランを打った。当然の如く母は大喜びで、

子供の前と言う事も忘れて黄色い声を張り上げ、大喝采する。

それを見た父は、「あほか堀内、どこ投げとんね!チェッ!」

と言い放ち、チャンネルを回すのだった。

しかし、そんな父は翌朝新聞のスポーツ欄を眺めながら、

ほくそ笑んでいた。要するに私の父は照れくさがりであり、

且つあまのじゃくな人なのだ。


私が父と初めてキャッチボールをする前日に、父は私に

子供用のグローブとC号の軟球を買ってくれた。軟式用の一番

小さいグローブだったらしい。そして彼は仕事場からか

どこかは分からないがどこかで自分の大人用のグローブを

拾ってきたようだ。こうして、私は父と最初から格好だけは

本格的なキャッチボールをする事となった。

また父は私がまだ4歳と幼い事なども忘れてか、私に丁寧に

ボールの投げ方を手取り足取り教えてくれた。

それ以来父とは雨の日以外毎日家の前でキャッチボールを

する事となり、私の幼い時代の一番楽しい思い出であった。


私が父とキャッチボールを始めて3日目後くらいだったと

思う。私の家の隣に住む、東野という漬物屋のおばちゃんが

キャッチボールをする私に毎日声をかけるようになったのは。

「剛ちゃん、今日もお父ちゃんと受け合いかい?いいねぇ」

「剛ちゃん、だいぶ速いボール投げれるようになったねぇ」

「剛ちゃん、受けるんすごい上手になったねぇ」

そんな嬉しい励ましのような声を毎日言ってくれるおばちゃんに

私はいつもこんな返事をしていたと思う。

「東野のおばちゃん、おはようございます。いつも声かけてくれて

 有難う。おばちゃんに褒めてもらえるのが毎日楽しみやねん」

勿論、私は父に褒めてもらう事が一番嬉しかった。だが東野のおば

ちゃんに褒めてもらった事が私の野球上達の理由になって

いたのは事実だ。


時は流れて私は6歳になっていた。今から思えば父が他界した前日

の朝の事だった。私はいつも通り、6時45分になって父とグローブを

持って家の前に出た。しかし、この時父は私にこう言った。

「剛三、ちょっとそこの壁に向かってボール投げてみぃ」

「なんで?お父ちゃん、いつもみたいに一緒にキャッチボールしようや」

私は首を傾げながら、父に問い返した。

「ええから、まぁ投げてみい」

私は父の言われた通り、家の前の中田機械の壁に向かってボールを

強く投げた。渾身の力を込めて。

「剛三、今度はすごいゆるいボール投げてみぃ」

私はまた父の指示通りに、ゆっくり投げた。

「どうや、さっきと跳ね返りが違うやろ?」

(そら、そうやんかぁ!)

私は父が何を言いたいのか、したいのかよく分からなかった。

「今度は剛三、むちゃくちゃ投げてみぃ」

「むちゃくちゃ?」

私は彼の意図する事が分からず、思わず問い返した。

しかし返答もないので、指示通りに体をぐるんぐるん回転

させながら思い切り力を込めて壁に向かって投げた。

ボールはとんでもない方向へと飛んでいった。

「剛三、ええか?お前はまだちっちゃいから分からんと思うけど。

 わしらの人生もこの壁当てといっしょや。お前が強く投げたら

 強く跳ね返る。ゆっくり投げたら、ゆっくりしか返ってこん。

 むちゃくちゃ投げたら、どこに返ってくるかわからへん。

 つまりや。お前が相手に速く動いてほしかったら、お前は

 速い球を投げなあかんのや。逆も一緒で相手に強い球投げられたら

 お前も強い球で返したらなあかん。どっちにしてもむちゃくちゃは

 あかんけどな。わかるか?」

「お父ちゃん、あんまりよう分からへんけど。でも、なんとなく

 分かる気もすんで」

「そうか、これは絶対大きくなっても忘れたらあかんで」

「うん、分かった」

私は勿論この時の父の教訓をあまり理解していなかった。

ただ、言葉では言い表せないが、雰囲気だけはそれでも

掴んでいた気分にはなっていたと思うが……

「剛三、ほんでこれからお父ちゃんがもしどうしてもお前と

 一緒にしてあげられへん時は、お前一人で壁当てしたら

 ええから。今みたいに。分かったか?」

「うん、分かった。でも、やっぱりお父ちゃんと一緒に

 する方が圧倒的に楽しいけどな」

その翌朝はいつもの通り父とキャッチボールをしたのだが。

その日、父は交通事故で他界した。

今振り返ると、それは虫の知らせだったのかと思われて

しかたない。



第2話 「弟」

「持つべきは近所のおばちゃん」

第2話 「弟」



私は昭和37年7月25日に大阪市港区南市岡という所で

生まれた。正確にいうと、同区市岡にある産婦人科で

生まれたのだが。私の生まれた港区南市岡は、ごみと油

でいっぱいの尻無川がすぐ左手にあり、その川の向こう側

は隣の大正区である。私は今もそうだが、地理感覚という

ものが皆無である―東西南北などの説明が一切できない。

私の家のほど近くに全長60メートルほどの繁栄商店街

がある。当時は、それほど今のように大きなスーパーなど

もなかった。だからその商店街はかなりの活況を呈していた。

後に私はこの商店街に住み、働くおばちゃん達との

たくさんの素敵なふれあいをさせていただく事になるのだった。


私の家は何の自慢にもならないが、とても狭かった。

私が生まれて、父と母、そして姉と家族が4人になる。

その私たち4人は、4こ1の2階建て文化住宅の1階の

一番左端で生活を送っていた。

私の家は部屋が2つきり―4畳半と6畳だ。

私が生まれた翌年、昭和38年10月に家族が1人

増えた―私の弟の剛毅が生まれた。

家はますます窮屈にはなったようだった。しかし、

その生活はわずか3年余りとなってしまった。

私の弟、剛毅は幼くしてわずか3年少しでこの世に

別れを告げる事と。

私の弟はうまれながらに心臓肥大だったようだ。

そして、彼が3歳になったばかりのある夜、彼は

家ネズミに噛まれたらしい。

その翌日突然発作を起こし、帰らぬ人となった。

私は母にそのように聞かされた。

今も私は自分が情けなく申し訳のない気持ちで

いっぱいなのである。

というのも、当時私はまだ4歳と幼かったといえば

それまでだが―当時の記憶がほとんどない。

私は弟が生まれた時も、他界する瞬間も、彼の

葬儀をした事も……まったく記憶がないのだ。

私は何とひどい人間なんだ!私は兄として彼に

何もしてやれなかったから。。。

それでも私が記憶しているのは、ある夏の日に

家の前で101匹わんちゃんのビニールの円形

プールに母親に水を張ってもらい、姉と弟と

3人で水遊びをマッパでした事、隣に住む成駒屋

というおもちゃ屋のおっちゃんに、私たち3人が

交代でダイハツミゼットに乗せてもらった事、

そしてなぜかは意味不明だが、ある日の朝に南市岡

小学校の前で3人とも食パンを口に咥えながら

母に写真を撮ってもらった事。

それが私の弟との記憶の全てだった。

私はそんな記憶しかなかったので、正直当事は

弟の死に対する悲しさはなかった。

ただ、私が5歳になった頃から眠れない日が

多くあった。私はきまってそんな時は『死んだら

どうなるんやろ?』と考えている。死に対する恐怖感

でいっぱいだったのだ。

ある時、私はその恐怖心を取り除きたかったんだろう。

私の姉に問うてみた。

「お姉ちゃん、僕ら死んだらどうなるん?」

(お姉ちゃんはもう小2やし、答えが分かるやろう)

きっと私はそう思っていた。すると姉が答える。

「閻魔さんに舌を抜かれるんやって」

それって嘘をついたりしたらっていう時の迷信だろ!

今ならそう口答えするんだろうが……当事まだ5歳の

私はそれを聞いてますますしに対する恐怖感が増した

事を今でもはっきりと覚えている。

「持つべきは近所のおばちゃん」

第1話 「お父ちゃんはいつも僕の傍や!」



「お父ちゃん、起きて僕の話聞いてぇやー……

 僕今日返してもろた算数のテスト100点やったんやで。

 お父ちゃんいつも僕が試験でええ点とったら褒めてくれる

 やろう。そやから、昨日も一生懸命テストの勉強してん。

 ほんで……」

「剛三……、剛三……」

私の母は悲しみのあまり言葉が出てこない。

「お父ちゃん、明日の朝もいつもみたいにはように起きて

 キャッチボールしてくれるやんなぁ?それに明日は

 僕ら家族4人で天王寺動物園行く言うて約束したやろ?

 僕お父ちゃんの好きなとろろ昆布のおにぎりを明日

 作ったげるから。お父ちゃんいつもおにぎりを一口で

 食べて―それを自慢げに頬っぺたふくらましながら

 見せてくれたやろ?」

私は小川病院のベッドで横たわる父の体を軽く揺すった。

「お父ちゃん、起きて教えてぇなぁ!そのおにぎりでええか?

 それともたらこのおにぎりの方がええか?お父ちゃん、

 たらこのおにぎりも大好きやもんなぁ」

「剛三、お父ちゃんは……(フンフン)」

私の母はそこまで言いかけた―しかし泣きすぎてなのか、

しゃっくりと鼻をすする音がした。

「お父ちゃんは……もう起きてきぃへんねや!グヮァーー」

私の母がまた大声で泣き叫ぶ。悔しさと悲しさが彼女を

刺激する。辛すぎる!

私は父の閉じた目をじっと見た。

「お父ちゃん、痛かった?どこが一番痛かったんや?

 僕がたまたま友達が素振りしてたバットで頭殴られた時

 お父ちゃん僕に言うてくれたやろ―『折角お前は賢いええ

 頭しとんのに、アホになるぞ!頭だけは気ぃつけろよ』って。

 お父ちゃんはアホにならんで済んだ?だってお父ちゃん何でも

 物知りやったもんなぁ」

私はそっと自分の右手を父の方に差し出し、父の右手を軽く

握る―その手は氷のようにとても冷たかった。

「お父ちゃん、さむないか?たまご酒でも作ろか?お父ちゃん

 僕が風邪ひいた時いつも作ってくれたやろ。ほんで、

 『風邪ひきにはこれが一番よう効く』言うてたやろ」

「剛三、もうお父ちゃんゆっくりと休ませたげて」

「お父ちゃん、もうどこも痛くない?痛かったら、言うてな?

 僕その痛いトコ擦ったげるし」

私は再び父の顔を、目を見た。

父はおだやかに、そして優しそうないつもの顔をしていた。

ただ、いつもと違うのは父は目を覚まし起き上がる事が

ない―その悲惨な事実だ!


昭和43年9月21日、私が小学校1年生の時。

私の父は交通事故で他界。まだ36歳だったのに。

その日の夜、私の家ではお通夜が行われた。

私の住んでいた家はかなり狭かった―そしてお通夜、

葬儀に使われる道具で埋め尽くされ、更に足の踏み場

もないような状況だ。

そんな家の状況もあってか、私と3歳上の姉は隣の

工務店を営む浜田さんの家と自分の家を行ったり来たり

していた。

近所に住むたくさんのおばちゃん達も駆けつけてくれ、

いろいろと手伝いを精力的にしてくれた。

私は当時まだ幼かったので、この時の記憶は頼りない。

おばちゃん達はその浜田さんの家で、確かいろんな

おかずを作ったりご飯を炊いたりしていた―そして

私たちと同じように―私の家にも行ったりして、お通夜

の受付とかいろんなお手伝いもしてくれた。


翌日9月22日の日曜日に父の葬儀が行われた。

その日は朝早くから激しく雨が降っていた。

それははっきりと記憶している―鮮明に!

葬儀中、私も姉も母も皆ずっと泣いていた。

特に母のそんな悲しみにふける様子を気遣ってか

近所のおばちゃん達が自分たちの事のように

一生懸命動いてくれ、手伝ってくれた。

私は父との最後のお別れの時、父の棺に

父に買ってもらったスポーツカーのプラモデルを

入れた。父の手に握らせるように。

そのスポーツカーはフェアレディZで父が大好きな

車だったから。

葬儀が終わり、私たちはマイクロバスに乗り込み、

火葬場へと向かった。

父の棺が、まさに火葬する為炉へと入れられる時、

私は母に問うた。

「お母ちゃん、お父ちゃんどうなるん?」

「お父ちゃんは今から焼かれて、骨になるんや」

私は頬っぺたが顔面神経痛になったかと思うくらい

引きつった顔で母に言葉を放った。

「お母ちゃん、そんなんやめてもろて!お父ちゃん熱く

 て可哀想や!お父ちゃん熱いの大嫌いなんや。お母ちゃん

 もよう知ってるやろ?」

私は母の喪服の片袖を引っ張る。

「剛三、死んだ人は皆そうして骨になるんや。

 でも、剛三。お父ちゃんは今から骨だけに

 なるけど、お父ちゃんの魂はいつまでも私らと

 一緒やから。なぁ、分かったか?」

「……」

私は何も言わず、首をたてに振るのが精一杯だった。

私は母や姉と一緒に父の遺骨を拾い上げ、骨箱へと

移し入れた。

「お父ちゃん、見た目不細工になったけど。でも、

 お父ちゃんはいつもずっと僕の傍や!」

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