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新・幸福論 青い鳥の去ったあと [五木寛之] ポプラ社 --- 読書の記録 ---

タイトル: 新・幸福論 青い鳥の去ったあと
著者: 五木寛之
出版社: ポプラ社
第一刷: 2012.03.28

キーワード: 幸福論, 漠然とした不安, 戦後の復興期, 高度成長の時代, 幸福の国ブータン, GNH(国民総幸福度), 「逢魔が時(おうまがとき)」, 東日本の大災害, 原発事故, 「大禍時」, 他力, 「山河破れて国あり」, 「絆」, 金子みすず, 「こだまでしょうか」, 親鸞, 宮沢賢治, メーテルリンク, 「青い鳥」, 「星の王子様」, 「かもめのジョナサン」, 階級社会, 労働者階級, 富裕階級, ジャパニーズ・ドリーム, 老人vs若者世代, 「鬱」, 「鬱は力なり」, あくび, ため息, 「承認」, 別院, 「隠遁者」, 「長寿地獄」, アウシュビッツ, 「収容所音楽隊」, 極限状態, 死生観

面白い節:
金子みすずの詩の衝撃 p.36
青い鳥の去ったあと p.69
「鬱」という字がもつ本当の意味 p.131
幸せになるための体の動かしかた p.151
人は誰でも認められたいもの p. 160

コメント:
率直に言ってもっと筆者らしい書物に仕上げてほしかったです。早くから失われた 20 年の黎明期に早くから自殺者三万人という問題を問題と主張し、バブルが崩壊し自己啓発セミナーの自力路線があまり流行らなくなる雰囲気になり始める最初の初期の時代に「タリキ」を主張した氏の路線からいうと、あまりに読者に冷たい投げやりな印象を持たざるを得ません。

しかし、氏には予言者的な性格もあり、前述のとおり、自殺者三万人の時代は、そのまま継続して現在に至り、タリキに対する自力の時代はたしかに天井を打った感があるのは否定できない時代が昨今まで続いているのです。

具体的にはどういうところが気になってしまったかというと、『この世の中で自己実現の階段をのぼりつめるということは、仲間を蹴落として先にゴールすることです。(p.128, 政治経済は高齢者が握っている「青い鳥が去ったあと」[五木寛之](ポプラ社))』とか、さらにつづけて『皆と共に栄える、というのが理想ですが、周囲を見回して、現実が競争の世界であることを否定できる例は、ほとんどありません。(p.128, 同書同節)』とまで言われるのです。

五木氏の予言者的な性格を信じるならば、この後の世界のきわめて硬直して身分制度の社会というものの到来は既に来ていて容易には去ってゆかないものとなることが、今後より一層顕在化することでしょう。

さて、テーマの青い鳥ですが、メーテル・リンクの「青い鳥」を最後まで正しく読むと、探しに行ったブルーバードは、実は家の中に居て、ってところまではみんなの周知のところだけれども、その後にはそのブルーバードが飛び去ってゆくオチがあるのだと、いうことなのだそうです。

『「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返して下さい。ぼくたち、幸福にくらすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」
「青い鳥」はどこに行ってしまったのか。
それは、そのまま今この時代に生きている私たちの姿ではないでしょうか。
(p.84, 教訓的ではない驚くべき結末「青い鳥が去ったあと」[五木寛之](ポプラ社))』

さらに涙がでるのが下記の記述です。

一億総中流、という「青い鳥」。
原子力の平和利用、という「青い鳥」。
福祉社会、という「青い鳥」。
高度成長、という「青い鳥」。
(p.87, 青い鳥が飛び去ったあとの世界で「青い鳥が去ったあと」[五木寛之](ポプラ社))


ここで原子力と「青い鳥」の飛び立ちとのキーワードで連想したのは「無主物」という法律上の用語です。(「無主物占有」とは、所有者が存在しない動産を所有の意思をもって先有することをいう(民法第239条1項)。)

某大手エネルギー会社は福島で原発を結果的に爆発に至らしめて、某県のゴルフ場にその放射性物質がウン mm シーベルトに達する状況になったので、その放射性物質を除洗してほしいと司法に訴えたときに、返されたことばが放射能は「無主物」だから、という答えです。僕はこのときまで「無主物」という概念を知りませんでした。初めて耳にした言葉です。

さて、メーテルリンクが言うように「幸せ」が「青い鳥」で、氏が指摘するように「原子力(放射能)」も「青い鳥」だというのなら、「放射能」が「無主物」ならば、「青い鳥」も「無主物」であり、それは「幸せ」はそもそもが「無主物」であることを意味するのだと思うのです。無主物のほかの例としては、「水」、「空気」、「光」、「土地(これは不動産になりますが)」、「(野生の)熊」、「(野生の)イノシシ、シカの類」、いやな例で身近なものではは「ゴキブリ」も無主物の例になりましょう。これらは誰のものでもあり、誰のものでもないのです。これらは現在の科学技術的資本主義的に人間の管理下にないものともいうことができます。例えば「ゴキブリ」を「俺のものだ」という人の例を、生物学的な見地から研究するような例以外になかなか想像できませんから。

すなわち「幸せ」というものは「誰のものでもあり、誰のものでもない」ということになりましょう。また人間の管理下にないものとも言えると思うのです。

かつて人間は猿でした。猿の時代にその猿にコントロールできるものというのは本当に少なかった。猿には自分のその手にもったバナナは自分のものだという意識はあったかもしれませんが、たとえば人里離れた山の中にある鉄鉱石や海底にある油田、はたまた離島にあるウラン鉱にまで自分のものである、取引できるという発想はまったくなかった。人間がホモサピエンスに猿から分かれたのが 20 万年前と言われておりますが、その間に我々が猿から遠くはなれた意識があるのは、世の中にあるすべてのものを大脳で識別できるように言語化(猿にはまだこのような言語化、表象化は弱いだろう)し、自分自身の大脳の中だけでそれを自分のものだと認識し続けたことが大きいと思います。元来自分のものでない稲の種を自分のものだと大脳のなかで識別し区別し、それに品種改良を加え、野生の稲を、別の種のコシヒカリにしてしまった。野生の稲は人間のものではないけれども、コシヒカリは 100 パーセントだれか人間の関係者のものです。

そういう歴史の中で、「幸せ」という無主物、人間のものでないもの、が人間の大脳の認識のなかで今後どういう発展を見せるのか?それがおもしろいところだと思うのです。一つには「幸せ」にも人間の品種改良が加えられていて、それがもっとも発展した形態が現在、資本主義あるいは(日本では)戦後民主主義という品種改良がなされて、それなりに幸せっぽいものに生まれ変わったのだと思います。

人間の手にかかったものはモロいものです。米も野生の稲に比べてコシヒカリの方が圧倒的に生物的には弱いものでしょう(育成には手間がかかる)。同じように人間が行ってきた自然界(猿だったころの)での幸せの品種改良版もやはりモロいものだと思います。コシヒカリがニコマルとかユメピリカになるように、人間の幸せの人間による改良もまだ発展途上なわけです。

この幸せの人間による手なずけも、人間の営為と知恵によってどんどん改良を加えて行くべき道をそもそも我々は 20 万年間歩んできたのであり、これは人類が滅亡するまでやり続けて行く宿命を背負っているのです。ちょっとつまづいたくらいが今の日本の状況で、このぐらいのことは過去 20 万年間にいくらでもあった。

『格差が固定します。』『非正規社員の不幸が固定化します。』んなことは知ったこちゃないのです。だめなら変えればよい、人類の 20 万年の歴史の中で、それこそ仏教思想的な「諸行無常」、「盛者必衰」の歴史だったと思います。固定なんてありません。常に流動です。

不動と思える陸地だった、動くのです。日本列島も昔はパンゲアという超大陸の一部だった。それが動いて日本列島に分離した。先の大地震はその脈々と続く地殻の大移動の一端にすぎないのですから。固定なんてものを怖れてはだめです。是非、動かしましょう。皆がよくなる方向へ。皆がよくなることなんてない。じゃ、また変えればよいじゃありませんか。人類の歴史なんてそんなこんなの繰り返しです。1 年周期の固定、3 年周期の固定、5 年周期の固定、10 年周期の固定、30 年周期の固定、50 年周期の固定、100 年周期の固定、このぐらいまではありますが、次の 300 年周期の固定ってありましたか?500 年周期の固定ってありましたか?1000 年周期の固定ってありましたか?ないです。

人類の歴史というものは、昔人類のものでなかったもの、人類の管理下になかった概念の人類による所有(俺のもの化)の歴史なんです。それらはみな神のものだった。人も神の子。雨も神の涙。森も大地も神の恵み。それを神から引き離して神を冒涜し、神から逃れてきた、それが人類の歴史です。幸せだった所詮おなじ道をたどるべきものなのです。神のものだった幸せという概念を、神から奪い、冒涜し、完璧な人間のものにしましょう。それが人間が歩むべき方向性なのです。それ以外の道を歩むものにホモサピエンスの種としての明日は一秒たりとも来ないのです。人間止めますか?それとも幸福の俺のものだ化を止めますか?ってな感じです。人間止めますか、それとも覚せい剤止めますか?と同じアナロジーです。

氏の書き方だと、文章読解能力の低い僕だと、おまえには幸せが永遠にこない!それが三千大千世界で未来永劫来ないと言われているようで非常に落胆し反感を抱いたものです。

『幸福のイメージは、時代とともに変わります(p.210 おわりに「青い鳥が去ったあと」[五木寛之](ポプラ社))』とのことです。イメージとは閾値のことですか?幸福のレベルが低くなるってことですか?僕はぜんぜん違うと思います。「神」のものであった「幸福」、その「人工化(人間のもの化)」は今後もっと進むべきものなのです。稲や鉄と同じです。今はまだ成功していないだけです。みんなでもっと改良しましょう。



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