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誰も知らない世界と日本のまちがい[松岡正剛]春秋社 --- 読書の記録(1) ---
タイトル: 誰も知らない世界と日本のまちがい
サブタイトル: 自由と国家と資本主義
筆者: 松岡正剛
出版社: 春秋社
第一刷: 2007/12/20
帯の文: 禁断の世界史講義、開幕。世のはじめから隠されていた秘密が明らかになる・・・・・・。
キーワード: ネーション・ステート, マシーヌ(機械状), 資本主義, リヴァイアサン, 自由・平等・博愛, ナポレオン, 東インド会社, 明治日本, 共産党宣言, 弁証法的唯物史観, 『種の起源』, 社会進化論, ハイパー・オーガニゼーション, カフカ・フロイト・夏目漱石, ワイマール体制, ナチス, 世界恐慌, 経済ブロック政策, ムスリム, ザカート(喜捨), 新植民地主義, 代理の社会, ゲーム理論, ナッシュ均衡, 新自由主義, 夕張市の宿命, 反ケインズ政策, 小さな政府論, ネオコン(新保守主義), サッチャリズム, レーガノミクス, 合理的選択論, ロボット個人主義, レベッカの資本主義, 日本流, 編集
面白い節:
ネーションステートの謎 p.3
明治日本の戦争と文化 p.215
社会も国家も進化しつづける? p.255
資本と大衆の時代 p.383
コメント:
ダーウィンは『種の起源』で人間はサルから進化した、と云い、人間は神によって選ばれた種族であるという、神話に擁護された、地中海周辺一神教文明圏にける一神教系宗教による利権社会構造に衝撃を与えた。教科書的には『種の起源』は激烈は衝撃だった、ような印象を受けるように説明するけれども、(言い方を変えればテストに出やすい、すなわち重要)、当時の一神教文明圏に暮らす末端市民たちにとっても、神というものに対する価値観というものはそれほど大きなものであったのか、ということはわたしは疑問だと思っている。もっとも「敬虔な」という形容詞が着くような人々もいたであろうというのは、事実だと思う。その宗教というもの、神というものへの価値観の程度というのは、現代におけるドルや円に対する末端市民の価値観とさほどかわらないくらいのものであったろうと思うのである。つまり、「人生はお金じゃない」というような言葉が発せられる程度に、また、当時も「人生は宗教じゃない」というくらいの拝金主義ならず拝神主義であったのではないだろうか。「人生はお金じゃない」とは思うけど、実際はお金をもうけたほうが生活しやすい、あるいは生活できない。当時も「人生は宗教じゃない」とは思うけど、実際は宗教を大事にしているフリをしたほうが生活しやすい、あるいは生活できない、というような。
人類はサルから進化して幸せになったのか。サルは魚類から進化して幸せになったのか?と問えば、それはそうだろうというように単純なものではないだろう。魚類であれば、魚類なりの幸せがあり、サルであればサルなりの幸せがあるだろうから。
人類とサルとを比べて、特に顕著といえるかどうかはわからないけれども、たとえば魚にくらべれば人類の脳味噌の量はかなり多く、脳味噌とは神経細胞の塊のようなもので、その塊が大きいということは、たぶんその反応が複雑ということで、複雑ということはわけがわからないといういようなことだと思う。魚であればメシがあれば食えば良いということになるが、人間となればご馳走があっても食って良いかどうかはわからない。これには農薬が入っているかもしれないし、これを食うと 10 万円という対価が要求されてしまうかもしれないし、その対価としての厳しい嬉しい労働が待っているかもしれないからである。
つまり人類は魚類から進化することによって、どうやって生きたら良いのわからない特性を得てしまった。そこに登場したのが、どうやって生きたら良いのかの指針としての宗教であり、それが人類の文化の進化を経て、今幅をきかせているのが「資本主義」という新興宗教なのである。資本主義も昔は「米」とか農作物信仰だったが、それがときを経て、「金(きん)」信仰になり、今は金信仰も下火となり、それなりの機関が発行する「ドル」とか「ユーロ」とか地域通貨としての「エン」とかという符号通貨信仰になっている。
しかし、この符号通貨信仰が人類の生き方についてかなりの程度において秩序をもたらしていることも否定できないことだと思う。もっとも氏の引用するところによると、この信仰の副作用についても次のように紹介されている。
『ドゥールズとガタリは、資本主義というものは「欲望を内部に溜めこんで人間の精神を犯す機械」だという主張をしているんです。...技術と欲望が不即不離になっている...。...。つまり「精神病の原因は資本主義が作った」というんです。(誰も知らない世界と日本のまちがい[松岡正剛]春秋社, p.44)』つまり資本主義という人類の考え方、生き方、強制は副作用として精神病をもたらしているということだろう。
もともと病と健康の境目は微妙で、精神病に限ってみても、精神的に 365 日掛けることの生まれてこのかた今日までに地球が太陽のまわりを公転した回数(すなわち歳)において完璧に健康で正常であるという人間も超絶に珍しいとは思うが、たとえば不眠症といか睡眠障害とかも、今日は眠られん、とかいう日も自称精神健常者でもなる人もいるだろうけれども、最近フリーの情報誌に載っていたのだけれども、どうもそういう寝るべきときに眠れないのも、蛍光灯とか不自然は光が不自然な時すなわち暗いハズの夜にピカピカひかり、人間の脳がその光に犯されて体内時計が狂うことが原因らしいような話を目にしたが、そういったものもやはり蛍光灯が資本主義の商品であることを鑑みれば、不眠症も睡眠障害も資本主義のセイとコジツケルことも可能だと思われる。蛍光灯も蛍光灯の燃料の電気も、資本主義社会の、マシーヌの一部なのである。そんなことを考えると、なんだか恐ろしい気がしてくる。もちろん夜も太陽が欲しい、という欲望がわたしにないのか、と問えばそれは完璧に否定しなければならない。
脳が欲する事象と、その事象の実現がもたらす、脳(心という臓器)への副作用は、必ずしも、心が快いと思うものではないのである。
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