陰陽・気象予報士のイロノアン・スターのブログ

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読書の記録

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タイトル: 「おたく」の精神史 一九八〇年代論
帯の文: アイドル、恋愛、身体、そして「私」。何かが起こり、終わり損ね、今日に至っている---現代文化のはじまりを探査する。
筆者: 大塚英志
出版社: 朝日文庫
第一刷: 2007/03/30

キーワード: おたく, エロ本業界, 差異化, 宮崎勤, 性的メディア, 「なんとなく、クリスタル」, ロリコンまんが, オウム真理教, エヴァンゲリオン, 情報化, ディズニーランド, 記号的価値, 通過儀礼, 自意識, 自己実現への欲望
面白い節:
記号絵のエロティシズム(p.48),
身体の記号化を求められる少女たち(p.52),
言葉の貧しさ(p.113),
「フェミニズムのようなもの」(p.148),
八〇年代消費社会の思想(p.152),
「女」と「少女」の共生(p.173),
仮想現実の商品化(p.180),
サンリオの奇跡(p.196),
物語消費(p.198),
都市伝説化するジャーナリズム(p.216),
物語マーケティング(p.244),
八〇年代からの逃亡(p.285),
オウムと戦後民主主義(p.308),
「心が壊れている」(p.320),
サブカルチャー化するナショナリズムとは(p.333),
「私」であることへの渇望(p.349),

コメント: 安部某首相が精神を病んで日本のトップを降りてから世相が変わってい
っているような気がするのはわたしだけだろうか。それまでの雰囲気ではどことす
るのかわ分からないが合法的はヒトとヒトの惨殺祭りすなわち戦争がわたしたちの
未来に横たわっている気がして不気味でならなかったが、そのような方向性からは
多少開放された感があるような気がするのはわたしだけなのであろうか。それは単
に政治的空白によってもたらされている歴史的モラトリアムに過ぎないのかもしれ
ない。

さて、日本国の首相がおたくがなるのはいつの日だろうか。防衛省の幹部がおた
くがなる日はいつだろうか。そう遠くない将来においておたくが首相になったりす
ることが実現する可能性をわたしは否定できないと思う。政治界の麻布氏がまんが
を読むことでたまに話題になっているが、麻布氏が首相になっていたら、わたしの
ようなおたくな人にとって何か良いことがあるのだろうかとも思ったりする。

『本書は自分を「普通の人々」であると自己規定する読者に、なるほど「おたく
」なる人々や「おたく」文化は...(略)...自分たちと関係のない特殊なものである、
と安堵せしめることを全く目的としていない。(「おたく」の精神史 一九八〇年代
論, 朝日文庫, 大塚英志)』とあるように、わたしは日本は全体として「おたく」
化していると思う。おたくの聖地秋葉原には中国などのアジア圏からだけではなく
フランスなどの西洋の国からも観光客がきているということだから、実は世界中が
「おたく」化しているのが現状であったりするのではないだろうか。

今日の Yahoo! ニュース トピックスなどをみると『麻布氏 「2 ちゃんねる時々
書く」』とあったりするので、多少なりともおたくな首相の誕生は間近だったと言
える。もちろんこの文脈では 2 ちゃんねらイコールおたくという強引な前提がある
ことを怒る方もいるだろうことにはあらかじめ謝りたい思いはある。

しかしおたくとは何なのだろうか。人間の意識の主要な部分はおそらく脳で作ら
れていて脳は多くの神経細胞ニューロンによって構成されていて、このニューロン
の興奮の具合の模様がある意識をもたらしているという大雑把な認識を元にすると、
人間はある脳内のニューロンの興奮の具合を記号化する生態になっており、この記
号を媒介して他のニンゲンの固体と脳のニューロンの興奮状態のマッピングを交換
することができるように進化してきてしまった。おそらくおたくとは記号化された
脳内のニューロン興奮パターンの伝達性能が高いニンゲンの種族をいうのではない
か。種というほどいままでのおたくでない通常の人間と分化は進んでいないと思わ
れるが、いまのところ後天的に記号化された脳内情報の再生能力に優位性のある固体を総称していうのではないだろうか。

サルにサル用のエロ本を見せて興奮するサルが居てもおかしくないが、イヌやネ
コ、あるいはゴキブリなどの脳という神経細胞の束が発達していない生物達が、興
奮しだしたら正直驚く、おそらくそういうことは起こらないだろう。人間に至っては、エロ写真ではなくより抽象度の高い漫画やエロ小説などの記号によっても、次の世代を残すための生物の生物たる所以の性的な行為中の脳内のニューロンの活性パターンを再現できるまでに大脳が発達してしまった。この現実の記号化、符号化の傾向はコンピュータ文化の普及、さらにコンピュータ同士のニューロン的ネットワー
クすなわちインターネットの普及によってますます強まるだろうから、おたくでないリアルにしか脳内のニューロンの活性不活性を左右できないニンゲンの固体よりは、おたくの方がよりこれからの世界のあり様に適用しているのではないだろうかとさえ思う。しかし現時点での社会的地位は圧倒的に非おたくと認識している固体の方が上だ。ちかい将来この優位性は逆転するはずである。

ところで『「おたく」の精神史 一九八十年代論』でいうところの 1980 年代に
何があったと言っているのかというと、荒っぽく社会の記号化が進んだ、というこ
とだろう。記号化するニンゲンの体験を記号を解読しニンゲンが追体験することに
よって仮想現実がうまれ、記号化するニンゲンの体験さえもがただの空想の世界内
だけであったものは漫画やアニメといったものになる。現実をどんどん記号化して、
その記号化された世界に埋没してしまう日常においてその歪みたいなものが現れた
とえば宮崎勤氏のような事件があらわれ、人々は現実世界に帰属意識を記号を通し
てしか認識できなくなってきたので、現実世界に自らを刻み込むために、神戸の酒
鬼薔薇事件のようなものが起きてしまった、といった感じである。もちろん正確な
レビューではない。

大塚氏は酒鬼薔薇事件を通過儀礼と関連させて説明しているが、確かにそういう
面というのはあるのかもしれない。だが平均的なこの国の住人達はなるべく目立た
ないようにしようと生活しているもので、人工的に通過儀礼的な儀式を用意したら
どうか的なことが書かれていたような記憶があるが、わたしならばうざったいと思
う。わたしはむしろ通過儀礼未然で成立する社会システムの実現の方が夢があると
おもってしまうところがある。

猿の成人男性の男性器には骨があるが、猿の子供とおなじように人類の成人男性
の男性器には通常骨はない。つまり猿からニンゲンへの進化の過程は幼児化である、という本を読んだことがあって、たぶんそうだと思う。ニンゲン固体集団はその幼児化の方向に進化のベクトルがあると思っていて、そうだとすればより進化した社会のシステムの中では大人への階段を登らなくても良い社会システムの実現があると思う。大人への儀式たる通過儀礼はなんだか野蛮な感じがするのである。

人類の科学はどんどん進むでいて、このまま行けば老化を発動する遺伝子が発見
されたりして、逆に老化をする遺伝子を治療しちぇえば老化しないニンゲン固体が
できちゃったりする。その老化しない固体をニンゲンの成長のどの過程で止めるの
が理想か、どこで止めたいか。もしも赤子の段階でとめればニンゲンの赤ちゃんは
本当に無力で戦闘能力ゼロで可能性無限大のままの社会が実現してしまう。戦争を
起こそうとする赤ちゃんは存在するだろうか。いや、おそらくいない。となれば相
当に平和な社会が実現してしまうだろう。

この本には考えさせられることがたくさんあったので、また続きを書くかもしれません。

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2007 年 7 月 16 日 9 時 59 分 20 秒に JR 飯田橋駅に居たわたしは、高田馬場
から西武新宿線に乗り、同年同月同日 10 時 47 分 25 秒には、西武新宿線は「
花小金井」駅に降り立ってまもなくの頃だった。そこから西武バスにのり、下の写
真の「滝山団地」のバス停の写真を取ったのは、同年同月同日 11 時 11 分 14 秒
であった。最近のデジタルカメラはパソコンと時間を同期し、パソコンは NTP(ネッ
トワーク・タイム・プロトコル)を用いて世界標準時と同期を取るので、おそらく
時間はそんなにずれていないハズだ。わたしが通ったルートは最短ルートではない
だろうが、はじめて行く土地で、迷いながら行っても、1 時間と 11 分と 54 秒で
移動することができた。
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『二〇〇四年九月、私は西武新宿線の花小金井駅から、滝山団地ゆきの西武バスに
乗った。平日の午後のせいか、混んではいなかった。(滝山コミューン一九七四
[原武史]講談社, p.6)』と原氏は書いたが、わたしが書くなら、二〇〇七年七月、
私は西武新宿線の花小金井駅から、滝山団地ゆきの西武バスに乗った。台風マニィ
が過ぎ去った祝日(海の日)の午後のせいか、混んではいなかった、となるだろう。
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『それにしても、この静けさはいったいどうしたことか。通りに人の姿が全く見え
ない。商店街は昔のままなのに、まるで活気がない。(滝山コミューン一九七四[原
武史]講談社, p.8)』と氏は書くが、祝日のせいか、それなりの活気があるような
感じがした。町はたしかに年配者の姿が多かったが、子供の姿もちらほらとあり、
高校生や、主婦のママさんたちが頻繁に自転車で行き交う光景が目についた。台風
明けのせいか、団地に降り注ぐ太陽の光は、きらきらとして美しかったようだ。

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実は、氏の直前に引用した文を読んで、わたしは故郷の北海道のかつては人口 10
万人くらいの町、室蘭市を思い出したのであった。故郷に比べれば、滝山団地など
活気ありスギのように思われた。室蘭ではなくても、人口減少が激しい、夕張市
とかの風景を見たら、滝山団地程度で、これだけノスタルジックな表現を使えると
は、わたしには到底できはしないと思った。繰り返し書くが、滝山団地は、活気が
なくなったと言えるようなレベルにはないと思う。バブル崩壊後の失われた 10 年
とか 20 年とかで、地方の町がなくしていった、なくしていっている活気にくらべ
れば、こんなものはたいした問題ではないと思われる結論に達してしまった。

下は氏が通っていたという小学校。ここで 1974 年、いまから 30 年前に『追求』
などという、民主主義ごっこを装い、社会主義ごっこ、全体主義ごっこが行われて
いた。そういうごっこをして育った今の大人達がいまの日本国社会を作っている、
ということなのだろう。たしかにそうかもしれなくて、もしもそうだとするならば、
すこし怖い感じもすると思いませんか(本書から学んだ共感を強める効果を得られ
る言い回しを応用)。

でも、行ったときは校庭で野球をしていました。今はおそらく、つくづく平和のよう
に見うけられます。どんなに平和に見える他人の家庭でも、実は深刻な問題が 2,
3 はあるように、なにかかにか問題はあるのでしょうが。それは人があつまるとこ
ろですから、学校というところは。
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下は、滝山団地入り口というバス停前。都内と比べて、圧倒的に自転車が多いです。

しかし、この程度で活気がなくなった、という認識が発生するとは、
これは、東京の郊外で育った方々に特有の感慨ではなく、やはり全国的規模で
活気がなくなったという感慨が発生しているのではないでしょうか。
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最後に、本のなかで、次のようなコメントがあることを記録して、読書の記録を終
わろうと思います。脈略はなくなるのですが。

『二〇〇六年十二月に教育基本法が改正される根拠となったのは、GHQ(連合国軍総
司令部)の干渉を受けて制定されたために「個人の尊厳」を強調しすぎた結果、個人
と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史
観であった。だが果たして、旧教育基本法のもとで「個人の尊厳」は強調されてき
たのか。問い直されるべきなのは、旧教育基本法の中身よりも、むしろこのような
歴史観そのものではなかったか。(滝山コミューン一九七四[原武史]講談社, p.279)』

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タイトル: 滝山コミューン一九七四
帯の文: マンモス団地の小学校を舞台に静かに深く進行した戦後日本の大転換点。たった一人の少年だけが気づいた矛盾と欺瞞の事実が、30 年を経て今、明かされる。著者渾身のドキュメンタリー
筆者:原武史
出版社: 講談社
第一刷: 2007/05/20

キーワード: 民主主義, 西武新宿線, 滝山団地, 東久留米, PTA, 学級集団づくり, 全生研, 社会主義, 班, ボロ班, 受験戦争, 林間学校, 追求, パルコ, 慶応義塾, 憲法

面白い節:
序(p.6),
改革(p.23),
二つの自己(p.68),
代表児童委員会(p.88),
林間学校(p.217),
追求(p.237),
コミューンの崩壊(p.261)

コメント: 1974 年は、わたしはまだこの世に生を受けていない、が、翌年には、
北海道は室蘭市に生を受けることから、その命のカケラが形成されてゆく過程に
あったのだろう。原氏は『私はここで、国家権力からの自立と、児童を主権者と
する民主的な学園の確立を目指したその地域共同体を、いささかの思い入れを込
めて「滝山コミューン」と呼ぶことにする。』
(滝山コミューン一九七四[原武史]講談社, p.19)と滝山コミューンなるものを定
義している。コミューンという言葉に、わたしはなじみがないし、辞書で引いた
りもしていないので正確な意味はわからないままとしておくが、政治的には共産
党のにおいがするし、旧ソビエト連邦のような匂いがしてくるイメージがある。

「滝山コミューン」というのは氏によれば、1974 年に氏が東京都東久留米市の
滝山団地なるところで、滝山第七なる小学校を卒業するまでに氏が影響を受けた、
思想集団のようなものか。『滝山団地は、日本住宅公団が 1966 年から久留米町
の南西部に広がる無居住地区の雑木林を伐採して土地区画整理を行い、1968 年
から 70年にかけて建てられた。』
(滝山コミューン一九七四[原武史]講談社, p.10)らしい。

「コミューン」をネットの辞書で引けば、commune 最初の意味に『11 〜 13 世紀
の中世ヨーロッパで、王や領主から特許状により一定の自治権を認められていた
都市』と出てくる。また、『フランスにおける基礎自治体、すなわち地方自治体
の最小単位』とも出てくる。氏の本の文脈からは共産主義的な意味合いが強いよ
うな感じを受けるが、必ずしも共産主義というわけでもないのだろうか。しかし、
ソ連が崩壊した今、右も左もないと思われる今日において、東西、民主主義また
は共産主義の別を議論してもしょうがないとも思う。あるのは上下、と南北、国
内では上流と下流、グローバルには貧しい国と富める国の違いであるようにも思
う。

それにしても、原氏は随分とはやく自分という自我に目覚めていたものだとも思
う。自分だったら中学くらいまで、学校の先生のイイ子だった記憶があるのだか
ら。キッと氏と一緒に滝山第七小学校に通っていたら教師の良い子機関である、
実行・運営委員会が指導する「わんぱくマーチ」なる歌を、力いっぱい歌って集
団的自慰行為の悦にはまっていたかもしれないので恐ろしい。しかしながら概ね
10 年と 1000 km の時間と距離を離れても、班競争や生徒会といったようなこと
はわたしもやっていた記憶がある。おそらく個性として集団行動が好きな人と、
個人行動が好きな人がいるのは、普通のことで、個人主義だけを良いと考えたり、
集団主義だけを良いと考えたりする極度に偏向したコミュニティでは、息苦しい
社会となってしまうのだろう。たぶん個人重視か集団重視かは、そのバランスが
とれていることの方が望ましい。わたし自身は個人重視な傾向のある人間である。
外国はしらないけれど日本国における社会は、どちらかというと集団重視的な傾
向が強いように思われ、たまにストレスにもなるのだけれども、それが良い面も
あって普段は多少気おつけていたりしております。

だけれども「空気を読め」とかという発言は、違和感を覚えます。空気よめっ、
て、原氏の本に出てくる『追求』に近いですね。現代におけるおぞましい子供の
自殺現象にも、キッとこの『個』と『集団』の問題が根ざしていて、そしてまた
それは大人社会においても深刻に現在でも根ざしていると思われる(自殺の原因)。

『個』と『集団』の優越の問題は難しいですね。軍隊ならば絶対に『集団』重視
でなければ成立しないし、テロならおそらく『個』が重視なのであろう。国とか
自治体とかという規模ではなく、まぁそういう大きな規模で考えても良いのだけ
れど、いきなり恐竜とかがいる原始時代に 10 人くらいでタイムスリップして、
『個』重視のコミュニティを作るか、『集団』重視のコミュニティを作るか、と
いう問題はその後の 10 人の生存確立に影響が出てきて、おそらく個々人が優秀
であれば『個』重視の方が生存確立は高いが、個々人の優劣のバラツキが大きい
ならば『集団』重視の方がその後の 10 人の生存確立は高いだろう。ただ、『集
団』重視だと 1 年後の生存確立は 0 or 10 である。全球的な視点で見た場合、
日本における個々人の生きる力のレベルはどうなんだろう?と考えたとき、おそ
らくそんなに悪くないハズなので、もっと『個』を重視する社会となっても良い
ようにも思われるのであるが。

原氏は現職は教授?とのことで、もともと優秀である可能性が高いので、『集団』
重視の生活様式に疑問を感じたのだろうと思う。『集団』重視で得をする人もい
るので難しい問題なのである。やっぱりこういう問題はバランスが大事です。特に
現在のような多様化激しい時代においては、いろいろな考え方をバランス良く育て
る教育が大変望ましいとわたしは考える。

次回、は別のキーワード「団地」というものに焦点を当てて読書の記録を書いて
みようと思っている。


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タイトル: 大川周明
筆者: 松本 健一
出版社: 岩波現代文庫
第一刷: 2004/10/15

キーワード: アジア, アジア主義, 東西対抗史観, 大東亜戦争(太平洋戦争), 米英東亜侵略史, 日本精神, 日本二千六百年史, 大東亜圏, 大東亜秩序建設, ノモスの理論

面白い節:
東西対抗史観 (p.17),
負性としての「アジア」 (p.29),
日本への回帰 (p.71),
師としてのマルクス (p.76)
坂口安吾の「合理の精神」(p.106),
徹底した経済史観 (p.142),
「アジアの本質」 (p.321),
「大東亜圏」とは (p.350),
「亜細亜的なるもの」 (p.356),
最後の譲位戦争 (p.362),
大川にとっての「イスラム」の文明史的な意味 (p.478)

コメント:
「国の借金834兆3786億円」そんなニュースがありました。
こんな国はどこの国でしょう。なんとこの国、日本国なのです。
大川周明がもし生きていたら何というか。氏は A 級戦犯の東条英機
の頭を、大東亜戦争に負けたという理由で、あの東京裁判で叩き、
精神病院送りになったそうです。しかし精神病院送りとはいえ、本を
読む限り、かなりしっかりと日本そして亜細亜について良く考えてい
た人なのではないかと推察されます。

大川氏の生きた時代は、産業革命の余波の時代だと思います。産業
革命によって、"地主"王国が世界的に崩れ、ナショナリズム(国、民族
国家)が勃興し、行き過ぎたナショナリズムにより第二次世界大戦が
発生した。このときは、日本は亜細亜の中でとりわけ上手に西欧化に
成功し、亜細亜のなかではかなり覇権を持ちつつあった時代だったの
でしょう。そこでいい気になったのがたぶん良くなかった。まるで、
バブル期のどこかの国のようだったのでしょう。

では今は。IT 革命によって、国家が崩壊し、国をまたがる共同体
が発生しつつある過程ではないかと思います。そのとき借金大国日本
はどうなるか。日本が亜細亜の中心になることはなさそうです。なんと
なく雰囲気的に。大いなる黄昏の時代に入っているように思います。
それに、そもそも日本という国は、所詮、島国なのです。
となるとやはり中国でしょう。IT 革命の時代の大東亜覇権国家は、
中国になると思うのです。そのとき今の世界の覇権国家はどうするか。
ここが物騒なところだと思うのです。平和憲法改正の真の目的は、
たぶんこの辺なんでしょうか。

人類の歴史として、時代が進む毎に、つまり人類の叡智が進む毎に、
その人類の帰属意識を持つ共同体の規模が大きくなるのは、致し方ない
ことだと思います。これはたぶん人類としての人類の最適化なのです。

この国の場合、まず、市町村の単位が崩壊し、次に都道府県の単位が
崩壊します。もっと大きい単位に集約されるのです。その次が国で
しょう。国などという単位ではなくて、もっと大きな単位での、人類の
再組織化が IT 技術, 高速交通技術の進化によって可能となっているの
です。

そういう次の時代に向けて、何ができるか。何をしたいか。です。
エリートの公務員達も、借金ばかり作っていないで、次の時代のために、
独立心をもってやっては如何かしらん。自殺している場合ではないのです。
次の時代のために、社会の仕組みをどうしていくのか。年金にしろ、
公務員制度にしろ、教育制度にしろ、国債問題にしろ、手ぬるいハズです、
もっともっと抜本的な改革が必要です。その抜本的な改革の中にこそ、
夢があり、生きる喜びがあるのではないでしょうか。

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タイトル: かごめ歌の暗号
サブタイトル: わらべ遊びに隠された古代史の闇
筆者: 関 裕二
出版社: 東京書籍
第一刷: 2007/03/22

キーワード: カゴメカゴメ(カゴメ歌), 天の羽衣伝承, 竹取物語, 天照大神, 浦島太郎, 日本書紀, 藤原氏, 天皇家

面白い節:
カゴメ歌と「竹取物語」の共通モチーフとは (p.19),
なぜ「あそび」が神事なのか (p.34),
なぜ子どもは神とみなされたのか (p.38),
あってはならない二人の太陽神(p.92),
浦島太郎は正史が認めた実在の人物だった(p.96),
おわりに(p.244)

「かーごめ、かごめ、かごの中の鳥は、いついつ出やる
夜明けの晩に、鶴と亀が、ツーべった、後ろの正面だぁあれ」

わたしも幼きころ、何度かは、この遊びをやったことが
あるような気がする。今の子供たちはするのだろうか?

こういう子供の遊びのルーツが実は、この本では、藤原氏
の時代、平安時代?794?年くらいまで遡るというのは、意外
や意外で、かなりクラシカルの物語なのだということろに
驚きを感じた。

でもこの手の話は、はっきりわかってしまうよりも、
謎がある、謎めいたルーツの方が、遊びとして
面白いのではないだろうか。いちいち子供が、遊びの裏の
大人の事情を気にしながらでは、さぞつまらなかろうという
気もする。

ところでこの本の主題ではないのであろうが、昔は子供を
神と見なしていた、という記述は一筆の価値があるだろう。

『なぜ子供が神の子なのか。その理由は、生きとし生けるもの、
すべてに神が宿るというアニミズムに隠されている。...』
(かごめ歌の暗号[関 裕二], 東京書籍, p.39)
『驚異的な生命力ですくすくと成長する子供は神であり、逆に
人間離れした長寿を勝ち取った翁も、また神とみなされたのである。』
(かごめ歌の暗号[関 裕二], 東京書籍, p.39)

子供や年老いたものを、神聖視するというのは、なかなか大事
なのではないだろうか。変に都市化し変に欧米化した現在の日本では
なにやら神聖視とは逆の観念さえ感じる。子供はじゃまであり、
老人もじゃまだ。子供は養育施設にぱっぱとあずけ、老人も
老人ホームへぱっぱと預ける、これが今流であろう。
私はこのような社会のあり方に疑問を感じずにはいられない。

今年1月の渋谷の歯科医家の妹バラバラ殺人と、つい最近の山形?の
母親バラバラ殺人には共通のものを感じる。それは人の体を極度に
物質視する、逆に言うならば神聖視しない点である。魂というものは
もはやオカルト扱いなのかもしれないが、人間の体には魂が宿るし、
人間の体ではなくても、あらゆるモノに魂が宿るのだ、という考えが
ない。まぁモノに魂が宿るという考えは、現在では、「そうなの?」
という疑問符が付くことは仕方ないとしても、せめて人体"ひとのからだ"
くらいには魂がやどるという発想くらいは捨ててもらってはわたしは
不安を感じることを禁じ得ない。

現代の猟奇的殺人事件、酒鬼薔薇氏に端を発するような、には
たぶんそういった人間は神聖なのだ、生物は神聖なのだ、モノにも
魂が宿るのだといった、古来からこの国に続く、アニミズム的な
伝統的価値観の断絶が原因で、その断絶は特に事件を起こす当事者
固有のものではなく、われわれ事件を傍観する者にとっても共通の
断絶なのであるとわたしは考える、ここが実に怖いところなのである。

いのち軽き時代の、いのちの物質視あるいは資本視。
合法なのが臓器移植、戦争であり、違法なのが猟奇殺人、テロである。

少し、「かごめかごめ」のルーツ時代を見直す価値もあるのではない
だろうか、そう思った。


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