|
一昨日、大阪で開催された憲法施行記念式の挨拶で橋下知事が首相公選制に言及した。曰く、「我が日本国
では一度、国会議員を国民が選べば、一国のリーダーは国会議員がフリーハンドで選ぶ。」、「だからこそ、
国民の意識と一国のリーダーの意識、有権者と永田町の意識が乖離するのではないか。此処にこそ、日本の
政治の最大の欠陥が有る。」、「日本国民が自分達のリーダーは自分達で選ぶという権限を、国会議員から
奪っていかなければならない。」、「憲法記念日を機として、しっかりと議論した上で国会議員から内閣総理
大臣を選ぶ権限を国民の元に取り戻す運動が、今の我が国に最も必要な政治運動だ。」等々、新しい改憲の
論点を提示したと言えよう。
近年、民主党と自民党の二大政党制が確立し始めて、国民は政権選択選挙により衆議院議員を選ぶと共に、
総理を選んでいると思える事も有る様に成った。しかし民主党で言えば、鳩山前総理は国民が選んだ総理
だが、菅現総理は国民が選んだ総理では無い。しかも就任して3ヵ月で党代表の任期満了に伴う代表選が
開催され、総理が民主党という一政党内の制度で交代する事も有り得る事が露見した。遡って自民党で言えば
小泉元総理は自民党の総裁選で選ばれ総理の座に就いたものの、国政選挙で国民の信任は得た格好には
成っている。が小泉氏は自民党の総裁任期に従い退陣し、その後の安倍元総理、福田元総理、麻生元総理と
いずれも国民の信任を事後でも得ていない形で就任し、そして退任した。やはり国民としては自らが選んだ
という感覚には程遠いだろうし、一政党の内規で公職の者が職を辞するのは理解が得られないかもしれない。
最初に首相公選制を言い出したのは1961年、後に総理となる中曽根康弘氏だ。当時、彼は河野一郎氏率いる
河野派に所属していたが、岸氏、池田氏、佐藤氏が率いる派閥の比べると小規模感は否定出来ず、総理の
道は遠いと感じたのだろう。その後は自らの派閥を率いるが依然として小派閥に留まる中、自民党は最盛期の
三角大福中時代迎える。角福戦争と称されるこの時期の政争では凄まじいまでの派閥工作で多数派が形成
される中、1978年には総裁選に立候補するも大平氏に敗れ、最終的には大派閥を率いる田中角栄氏の支持を
得て1982年にようやく総理の座に就いた。また小泉元総理も在任中に「首相公選制を考える懇談会」を開催して
制度導入を模索していた。彼もまた若かりし頃、福田派の一員として角福戦争を経験し、その後も事有る事に
田中派、竹下派と対峙して来た。1995年には総裁選に出馬するも、小渕派の橋本龍太郎氏に敗れている。
その後の1998年の総裁選でも小渕派の小渕恵三氏に敗れたが、2001年の総裁選に出馬し、永田町の下馬評
では大派閥の橋本氏有利だったが、一般党員を対象とする予備選で小泉旋風を巻き起こし、本選挙でも
圧勝して総理の座をようやく得る事が出来た。東京都知事の石原慎太郎氏もまた首相公選制賛成派だったり
する。彼は国民の圧倒的人気を受け1968年の参議院選挙全国区で301万票をも得て初当選する。1989年には
総裁選に出馬するが、竹下派の推す海部俊樹氏に敗れ、1995年の議員勤続25年の表彰で辞職を表明し、
国政の場を去った。三人に共通するのは田中派に代表される大派閥に阻まれ、総理の座に就くのにかなりの
苦労を強いられた、もしくは就けなかったというものだ。中曽根氏は微妙だが、小泉氏は国民からの支持が
高かったからこそ総理に就けたとも言え、石原氏も環境さえ整えば国民の支持を背景に総理の座に就く事が
出来たろう。少なくとも小泉氏、石原氏の両名は首相公選制であれば、もっと早く楽に総理の座に就けたに
違いない。
さて橋下大阪府知事は何故にこの様な首相公選制発言を行ったのだろうか。大阪都知事の次は日本国
総理の座を思い描いているのだろうか。ならば少し気が早い様な気がするのだが。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年05月11日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]





