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4日間のキリシタンの旅も最終日を迎え、この日は昼食の後殉教者の
千人塚やクルスの丘公園、そして、最後に田平教会を訪ねました。
鳥居が立っていますがここは神社では無く、館浦白浜で処刑された
殉教者を島の人達がここに葬りました。
処刑された信者が余りにも多く、白浜は血で赤く染まったと 言われています。殉教者が多かったので千人塚と呼ばれました。
中江ノ島を望む黒瀬の辻に建つ十字架。
1558年、一斉改宗の時にこの地に十字架が建てられました。
ガスパル西はこのクルス(黒瀬)の辻で処刑されました。
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殉教者ガスパル様と幸四郎様のお墓で聖地とされています。
田平天主堂はド・ロ神父の許で指導を受けた、五島の大工だった
鉄川 与助の設計・施工で1918年(大正7年)に建てられた
煉瓦造りの傑作です。2階部のステンドグラスはドイツに発注し、
1階部はイタリア製で聖書の中の様々なシーンが、
美しい色彩で描かれています。
教会の傍らには信徒達の墓地があります。 |
キリシタンの旅
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旅の4日目の最終日は先ずはホテルを出て直ぐの、
オランダ塀に囲まれたオランダ坂を下った少し先のオランダ商館に
向いました。この日も6ヶ所程廻る予定です。
当時が偲ばれる趣のある坂道です。
このオランダ商館は復元された建物ですが、太い梁が使われていて
日本では調達出来ないため、カナダから取り寄せたとのことでした。
館内には当時の数多くの資料が展示されていますが、
今回はキリスト教信者を処刑した場面をアップしました。
斬首した首は並べて見せしめのため、さらしものにされています。
長崎の鈴田に首塚がありますが、当時311の斬首した首が
さらしものにされたそうです。
現在の聖堂が完成したのは1931年(昭和6年)で、
1971年(昭和46年)に聖堂脇に、ザビエル記念像が建立され、
近年、「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」から
「平戸ザビエル記念教会」と正式名称が改められました。
この日は残念ながら聖堂内に、入ることは出来ませんでした。
スペインの貴族の子として生まれたザビエルは、
成長してやがてイエスの言葉に心動かされ、富と地位、名誉を捨て、
同志と共にイエズス会を創設して、一介の伝道者になりました。
1549年、鹿児島に上陸し翌年に平戸に来て伝道を開始しました。
ザビエルの平戸での伝道により、信者が驚異的に増え1551年には、
平戸に日本最初の教会が建てられました。
然し、1587年、豊臣秀吉の禁教令発布で
平戸での殉教者も激増しました。
旅の最後となった昼食ですが、当地では何時もお刺身が付き物でした。
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ド・ロ神父が私財を投じて外海の地に建てた出津教会と、
ド・ロ神父記念館を見学した後、中浦ジュリアン記念公園に向いました。
中浦ジュリアンは1582年(天正10年)、天正遣欧少年使節の一員として、 九州のキリシタン三大名の名代として派遣され、
ローマ教皇に謁見した他ヨーロッパ諸国に日本を知らせると共に、
ヨーロッパの文化を日本に伝え、その功績が高く評価されています。
中浦ジュリアンは8年後に帰国しましが、禁教令が布告された後も
潜伏して布教を続けました。そのため小倉で捕えられ、
長崎の西坂で殉教しました。公園内の建物に教皇との謁見や、
逆さに吊るしなどの壁画があります。
中浦ジュリアンがイエズス会総長顧問ヌノ・マスカレニヤス神父に
宛てた自筆の書簡。
国際観光ホテル・旗松亭
夕食は豪華なご馳走に舌鼓を打ちましたが、
際立っていたのは鮃のお刺身でした。
朝食はホールでのバイキングでした。
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ド・ロ神父記念館には写真にあるような、ド・ロ神父が使った
多種多様な用具類が展示されています。
ド・ロ神父は外海に来て人々の貧しさに驚き、心だけで無く生活を
支えようと、女性達に現金収入を得る技術を身に付けさせるため、
救済院と授産場を設けて職業指導をしました。
授産場ではパン、マカロニ、そうめんが製造されました。
ド・ロ神父は医師でもあったので、医療に当たったり
建築の知識技術を生かして、会堂建築や大浦天主堂の大司教館の
改修に携わりました。更に、土地を取得して開墾し村人に
農業の指導をしました。その働きは多義に渉り、
キリストに現わされた神の愛を布教すると共に、
その愛を形に現わして仕え、その生涯を神と外海の人達に捧げました。
ド・ロ神父が保育所のために購入したと思われるハルモニュウム。 これは救済院や授産場で働く女性達のユニホームです。
女性達に鰯網の編み方が指導されましたが、
その作業場は地下にありました。
メリヤスの編み機により、技術指導かなされたようです。
地下足袋の型板と製品
ド・ロ神父が建築に使用した様々な道具です。 ド・ロ神父が使用した医療器具
ド・ロ診療所で使用された医療器
手術器具ですが、ド・ロ神父によって手術も行われたようです。
人体の内臓部の模型はフランスから取り寄せられたものと思われます。
医療に用いられた様々な容器類です。
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旅の3日目は五島・福江港から長崎港に戻り、
五島灘沿いの道を通り外海(そとめ)を経て平戸に向い、
出津(しつ)教会、ド・ロ神父記念館、大野教会を見学しました。
ド・ロ神父の働きの詳細について次回にご紹介します。
ド・ロ神父の設計・施工により1882年(明治15年)に完成した
出津(しつ)教会。1909年(明治42年)には正面の玄関部を建て増しし、
その上に鐘楼を建てその上に、ド・ロ神父がフランスから
取り寄せたマリア像が建っています。外海は海からの強風を
直接受けるため、出来るだけ屋根を低くし、内部は平たい天井で
ステンドグラスや花形の装飾も無く、ド・ロ神父にとっては
装飾などは二の次で、堅牢性と実用性を重視したものと見られます。
ド・ロ神父が女性の自立を支援するための作業所として建てた
救助院・授産場で、1階は作業場、2階は修道女の生活の場です。
作業場ではパン、マカロニ、そうめんが作られていました。
フランスの貴族の家に生まれたド・ロ神父は、28歳の時に
プティジャン神父と共に来日し、39歳で外海に赴任しましたが、
1914年(大正3年)74歳で亡くなる迄、この略伝にもあるように
驚くような数々の働きま成し遂げました。
ド・ロ神父が日本に行くと決めた時、父親は餞別として
24万フラン(今の金額にして2億6千万円)を渡したそうですが、
亡くなった時には預金通帳は無きに等しかったと言われています。
ド・ロ神父は遠くて出津教会のミサに来られない、
26戸の信徒達のために、大野教会と言う巡回教会を建てました。
大野教会の壁は海からの強風に耐える堅牢な壁で、
地元の玄武岩を不規則に積み、接着剤として赤土の泥水で
石灰と砂をこね合わせたものが使われ、
この独特の手法で作られた壁は、「ドロ壁」と呼ばれています。
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