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仏教を伝へようとすると、どうしても言葉で伝へることが多くなります。しかしその言葉も厄介だなあと思ふことが多々あります。
そのひとつが他力と自力。教科書では浄土真宗の教へは他力本願、その他の宗派は自力であるといはれます。さうすると他力と自力が正反対の考へのやうに思はれます。そして世間でも他力、自力が誤用されて、自力が良くて、他力は甘へてゐるからダメだといふやうに捉へられてゐます。
自力は、親鸞聖人は「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」といはれ、他の聖教では自力の執心、自力の迷心などといふ言葉もあります。
仏教は仏になる教へです。仏は自覚した人、自分のこともよく分かるし他人のこともよく分かるといふこと。そして生老病死も自由自在に生きられることです。
生きることが、若さが、健康が、名誉、財産があることが価値があり、さうでないことは価値がないと、さういふ価値観が身に付いているのが私たちですが、そのやうな偏つた価値観から解放されることが人生の深さ広さを感じることだと思ふのです。
そのために、様々な修行が実践されてきました。さういうことでは仏教は自力なのですが、一面若くて健康だから修行生活に耐えられることもあり、我が身、わが心、我が力を頼りとしてしまいます。また修行を続けても見返りを求める心から解放されないといふこともあります。スタートがあれば、到達点を設定して、目標と計画を立てるのが人間でせう。悟りや理想的人間になるという見返りを期待します。自力の執心、迷心でせう。
勿論仕事や社会生活では到達点に向かつて、目標や計画を立てることは必要です。しかし人生全体、人間全体の価値としてはどうでせう。いつまでも仕事に生きられるわけでもないし、社会状況や経済状況、災害、病気などで生活全体が変はることもあります。今までの姿勢、価値観が通用しなくなることもあります。
自力は大切ですが、その自力の執着を超えたところに、生命の輝き、純粋な心が見出されるので、そこに他力と響き合ふこともあることでせう。
禅宗の老師がたでも、親鸞聖人のお心、他力が分かるとおっしゃる方も大勢ゐます。
他力は他人任せではありません。他力は本願力です。輝きある生命の願い、純粋な心です。しかし、悲しいかな人として成長してゆくとエゴやイデオロギーなどで曇つてゆきます。本来一人ひとり純粋な心を持ち合はせてゐながら、なかなか気づけない、しかし教えを聞くことで気づかされることがあります。さういふ時、自分でありながら自分を超えてゐるので阿弥陀仏といふ仏の名で表すのです。阿弥陀仏とか本願とか対象的に求めることではないと思ひます。
お寺の生活は禅宗でも真宗でも清掃は毎日することでせう。一般の家庭でもさうです。私も庭木の剪定や草取りもします。そういふ時、私などはご門徒さんから評価されたいといふ気持ちに執はれてしまいますし、心が綺麗になるように願ったりします。不純粋です。かういふことを自力の執心、自力の迷心といふのでせう。しかしさういふ心から離れて、大地や草木、虫や私が一つになれば、深い生命が輝きだすのでせう。もしかしたらお寺に住んでゐない人の方が純粋かもしれません。
自力、他力と対立すること、正反対のこととして捉えることに気をつけたいと思います。また他力は深いし難しい。私が書いてゐることも所詮理屈にすぎないのかもしれません。
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本願力と云えば誤解も減るでしょうに…他力と云うから、自力と対比せざるを得ない???
なにかしらの意図があるから自力と呼んでいるのでしょうけど?分かりません💦
2018/7/28(土) 午後 9:20 [ 竹光侍2008 ]
コメントありがたうございます。人間のエゴが混じると自力なのでせう。しかし初めから本願力が分かるかといふとさうはいかないし。微妙で厄介ですね。禅宗の老師かたのお話を聞いてゐると自力は自然力といふニュアンスのやうです。さうすると禅宗の方では自力も他力もないのかもしれません。
2018/7/28(土) 午後 11:13 [ 真宗大谷派道浄寺(酒井誠) ]