酒井 誠(真宗大谷派 道浄寺)

真宗の宗祖、親鸞聖人の教えと、大谷派のお給仕などについて、不定期に書いています。

つぶやき

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全12ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

後生の一大事

道浄寺では、中陰のお参りに蓮如上人の「白骨の御文」を拝読してゐます。
御文は、住職が読み、ご門徒さんは頭を低くして聞くことが慣はしとなつてゐます。しかし、御文の言葉も一般的ではないので、うちでは勤行本を見ながら、ご門徒さんと一緒に拝読するやうにしてゐます。

中陰のお参りの折、「白骨の御文ってどんなことが書いてあるのですか?」と質問が出ました。

白骨の御文は前半は人間の命の儚さが表現されていてわかりやすいのですが、後半は「されば人間のはかなき事は、老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏とふかくたのみまいらせて、念仏まうすべきものなり」。と一転念仏を勧めることがわかりにくいと思ひます。

人間の一番の苦しみ、不安はやはり死です。生まれたことと死ぬこと、これ以上の矛盾はありません。その中で人間は救ひを求めてきました。浄土を見出し、そこで仏になる。仏になったらそれで終はりではない。人々を救う働きをしてくださいます。

私たちが、仏様に手を合はせたり、仏法を聞くごとも仏様となられた亡き人のおかげであります。
また私たちの良心も、両親はじめ家族や先生、先輩など多くの方の純粋さに触れて身につけてきたことです。

さう思ふと、私たちが救はれたいといふことは、自分ひとり楽になることだけではありません。縁のある人々に純粋な人間性を伝へる大切な仕事があると思ふのです。

浄土という言葉がわかりにくければ純粋ないのちの世界です。どのような人にも通じる、温かい愛情に満ちた、ずべてのいのちを愛してやまない、普遍的ないのちの世界です。実はさういふ世界を私たちは心の深いところで求めているのではないでしょうか。

その世界を私たちの生きるよりどころとすることは、純粋な人間性を自覚することです。あらゆる人と民族文化を超えて出会へるやうな、いのちそのもののやうな純粋な心を回復することです。
同時にそのことは、「私」といふ狭さ、差別性を自覚してゆくこととも重なります。

後生の一大事の響きに、浄土に救はれてゆくことと、浄土から照らされた時の自分の仕事、使命を見つめ直す日暮しを思ひながら、お念仏称へてをります。

寝るのも修行

よくご法事などお参りに伺ふと、「住職は厳しい修行を積んできたのだから失礼のないやうに」、と仰る方がゐます。さういふことを言はれる方も大分お歳をとられました。
昔は、NHK特集で、確かシリーズ行、と言ひましたか、番組がありまして、天台宗の千日回峰行や、高野山、永平寺などの行が取り上げられてゐました。
さういうことから、修行は厳しいと言はれるのかもしれません。

それに対して若い世代は、「えっ、僧侶って研修受ければなれるんぢやないんですか?修行って古くないですか?」、と言はれる。

これにはこちらも驚いて、「宗派によつて加行とか修練とか言ひ方は違うけど、入浴も睡眠も行、研修といへば研修だな」と答へたら、「通いぢやないんですね。そんなのヤダ」と言はれる。

最近の世代では食事、入浴、睡眠が仕事の一環だといふ感覚はないから無理もないのかもしれません。

では、どうして、修行や修練は泊りがけで共同生活を送るのか?
修行を終えてそれぞれのお寺に帰り生活をすると、そこでは修練のやうな日々を毎日送らなければならないといふ決まりはありません。食事も好きなものをいただいたり、お酒を飲むこともある。趣味に時間を費やすこともある。朝も早朝に起きなくても良いかもしれない。
さういふ生活で惰眠を貪つたり、食事をいただく心が見失われたりすることも多々あります。だうしてそれが良くないのかといふと、自己を見失うからです。

そのやうなあり方を反省した時、姿勢と生活を調へる時に、修練の生活は意味を持つと思ふのです。寝るときも一生懸命に寝て起きるときも一生懸命に起きる。勤行も勉強も掃除も洗面も一生懸命、時間を大事にする生活です。
それともう一つ大きな意味は尊敬できる人と出会ふ、良き仲間と出会ふことです。
現代は尊敬できる人が見つけられない時代かもしれません。さういふ時代だからこそ師友を見出すことは大事でせう。

行の内容は宗派によつて異なりますが、共通してゐることは、当たり前の日常生活を手抜きしないことです。このことが、やらされてゐるといふ愚痴を越えて、自然に喜んでできるやうになれれば良いのですが難しいことです。

私自身も恥づかしいことですが、初心に帰りたいと思ふのです。

8月の法語

イメージ 1

よく、「〜しなければ救はれないのですか」と尋ねられることがあります。

〜しなければ、は念仏や坐禅などの行や、世間的な善行などです。善根を積み重ねて人格的に向上して救われる。或いは亡き人の供養に、こちらが善根を積み重ねないといけないと考へる、かういふことは素朴な思ひで、よくわかります。

この法語は、さういふことを否定するものではありません。ただ私たちの思ひ、行為に先立つて、すでにこの身に恵まれてゐることがあることを教へてくださつてゐます。

私が死んだら何処へ行くのか、死んだあの人は何処へ行ったのか、救はれるにはどうしたらよいのか。何処へ何処へと拝むものが遠くにあるやうに錯覚してゐますが、実はこの身に名前をつけてもらひ、名前で呼ばれ、お父さんお母さんと呼んでゆく。
何気ないそこに、豊かな世界が広がつてゐると思ふのです。

他力と自力

仏教を伝へようとすると、どうしても言葉で伝へることが多くなります。しかしその言葉も厄介だなあと思ふことが多々あります。

そのひとつが他力と自力。教科書では浄土真宗の教へは他力本願、その他の宗派は自力であるといはれます。さうすると他力と自力が正反対の考へのやうに思はれます。そして世間でも他力、自力が誤用されて、自力が良くて、他力は甘へてゐるからダメだといふやうに捉へられてゐます。

自力は、親鸞聖人は「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」といはれ、他の聖教では自力の執心、自力の迷心などといふ言葉もあります。

仏教は仏になる教へです。仏は自覚した人、自分のこともよく分かるし他人のこともよく分かるといふこと。そして生老病死も自由自在に生きられることです。

生きることが、若さが、健康が、名誉、財産があることが価値があり、さうでないことは価値がないと、さういふ価値観が身に付いているのが私たちですが、そのやうな偏つた価値観から解放されることが人生の深さ広さを感じることだと思ふのです。

そのために、様々な修行が実践されてきました。さういうことでは仏教は自力なのですが、一面若くて健康だから修行生活に耐えられることもあり、我が身、わが心、我が力を頼りとしてしまいます。また修行を続けても見返りを求める心から解放されないといふこともあります。スタートがあれば、到達点を設定して、目標と計画を立てるのが人間でせう。悟りや理想的人間になるという見返りを期待します。自力の執心、迷心でせう。

勿論仕事や社会生活では到達点に向かつて、目標や計画を立てることは必要です。しかし人生全体、人間全体の価値としてはどうでせう。いつまでも仕事に生きられるわけでもないし、社会状況や経済状況、災害、病気などで生活全体が変はることもあります。今までの姿勢、価値観が通用しなくなることもあります。

自力は大切ですが、その自力の執着を超えたところに、生命の輝き、純粋な心が見出されるので、そこに他力と響き合ふこともあることでせう。

禅宗の老師がたでも、親鸞聖人のお心、他力が分かるとおっしゃる方も大勢ゐます。

他力は他人任せではありません。他力は本願力です。輝きある生命の願い、純粋な心です。しかし、悲しいかな人として成長してゆくとエゴやイデオロギーなどで曇つてゆきます。本来一人ひとり純粋な心を持ち合はせてゐながら、なかなか気づけない、しかし教えを聞くことで気づかされることがあります。さういふ時、自分でありながら自分を超えてゐるので阿弥陀仏といふ仏の名で表すのです。阿弥陀仏とか本願とか対象的に求めることではないと思ひます。

お寺の生活は禅宗でも真宗でも清掃は毎日することでせう。一般の家庭でもさうです。私も庭木の剪定や草取りもします。そういふ時、私などはご門徒さんから評価されたいといふ気持ちに執はれてしまいますし、心が綺麗になるように願ったりします。不純粋です。かういふことを自力の執心、自力の迷心といふのでせう。しかしさういふ心から離れて、大地や草木、虫や私が一つになれば、深い生命が輝きだすのでせう。もしかしたらお寺に住んでゐない人の方が純粋かもしれません。

自力、他力と対立すること、正反対のこととして捉えることに気をつけたいと思います。また他力は深いし難しい。私が書いてゐることも所詮理屈にすぎないのかもしれません。




随身

前回「修行は厳しい」といふタイトルで書きました。今回はその続編。
と言ひましても「随身」と言ふ言葉はなじみがないと思ひます。要するに「住み込み」といふことです。寺族が寺に住むのは当たり前ですから、随身と言ふときは、自分の寺を離れ、別の寺で住み込みで働くことを言ひます。ただ、真宗ではあまり随身ということは言ひません。師僧の寺に住み込むといふことが少ないからです。現代では法務員と言ひ、通勤する人も多いと思ひます。

私はもともと寺の出身ではありません。18歳で得度して僧籍はいただきましたが、学校でてからはサラリーマンを少ししてゐました。
その後、思ふことがあつて仏教の勉強をしたくなつたことと、得度の時の師僧が病気になつたことなどで、随身させていたがくことになりました。10年その寺で過ごしました。
つまり、24歳で小僧に入り、34歳で結婚するまでお世話になりました。

得度の時の師ですから、ずいぶん前から知つてゐた方です。得度に向けて勉強に通つてゐた時は親切な方でした。しかし寺に入ると、その日から厳しい人でした。玄関への入り方、歩き方、掃除の仕方、電話の出方などなど叱られることばかりでした。叱られないやうにしようとしても、何かにつけて叱りつけられました。さういふ生活が長いこと続きました。
それとひたすら掃除の日々。境内に丘陵地の芝生墓地があり、そこの草刈りから枯れた墓地花の片づけなどあり、庭の手入れ、境内の桜が散つたあとは雨どいの掃除。腰痛を起こした時など、これ幸いと辞めてやろうかと考へてゐましたが、何とか過ごせたのも親しいご門徒さんに励まされてきたからだと感謝してゐます。
それと声明作法は、専門の先生のもとに通うようにしてくれたので、毎週木曜日は、外に出れる解放感もありました。
厳しくとも、気遣いしてくださったのだと今になると思ひます。

その師が常にいつてゐたことは、ご門徒さんに説教してはゐけない。ご門徒さんの話を黙つて聞けるひとになれといふことでした。今は道浄寺の住職になつて法話もしたりしてゐますが、そのことを師はどのやうに感じてゐるのかな。

さて、最近親しい住職に聞いたら最近の修練は法衣の畳み方、袈裟の付け方も親切に指導してくれるさうです。私の時は、そのやうなことは基本、修練前に身につけておくべきことといふ感じでした。

最近は、寺も世襲が増え、寺に住む親子であつても、いや親子ゆゑ基本を学ぶことが難しいのかもしれません。また寺の出身でない方は教えに触れて僧侶になる方が多いですが、作法を学ぶ場が少ないのかもしれません。これからの課題になることでせう。

私ができるとか自慢ではなくて、最近小僧生活が大事だつたんだと思ふと同時に、今の寺に入寺して、身につけてきた殻を破ることの大変さも感じてゐます。さういうことでは本当の自己を見出すことは簡単なことではないのですね。



全12ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事