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ブログの検索ワードに、最近、文類偈とは、と出てきます。
真宗のお勤めで用いられる偈文(漢文の詩のようなもの)のうち、親鸞聖人が著されたものは正信偈(正信念仏偈)と文類偈(念仏正信偈)があります。
どちらも真宗各派で用いられますが、蓮如上人に縁のある本願寺教団(本願寺派・大谷派)では、蓮如上人が、正信偈・三帖和讃を開版され、日常の勤行に定められたため、文類偈は重要な儀式の折に称えられるようです。
それ以外の、たとえば高田派では日常的なご門徒さんのお勤めでも文類偈が読まれるようです。
正信偈は、どの勤行本にも載せてありますが、「帰命無量寿如来」から始まるものです。親鸞聖人が著された『教行信証』(顕浄土真実教行証文類)の行巻に出てきます。
文類偈は親鸞聖人が書かれた『浄土文類聚鈔』に出てきます。
どちらも内容的には同じことが書かれてありますが、『教行信証』と『浄土文類聚鈔』では大きな違いがあります。
教行信証が教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身土巻と6巻であるのに対し、浄土文類聚鈔は1巻であるという表面上の違いもあります。
しかしそれよりも、教行信証が本願文を示すのに対し、浄土文類聚鈔では本願成就文のみが示されてあります。そのことに大きな意味がありそうです。
そのことがどのような意味があるのでしょうか。衆生の上に本願が成就している。一人ひとりの身の上に本願が成就しているとはどのようなことか。念仏の救い、本願の救いとはどういうことなのか。
そういう問いを大切にしながら教えに聞いてゆきたいと思うのです。 |
お給仕
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日々のお内仏のお給仕は、信心の表れだと教えられます。信心があれば自ずからお給仕から始まる生活になるのだと。
では信心はどのように身につけるのかといわれると、聞法と日々のお給仕だということになります。形から入るのも大切なことだと思います。
信心は大切なのはわかるが、ではその信心というのは何か?
親鸞聖人の和讃に
「罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき」
親鸞は人間の悪を徹底して見つめられました。しかし悪の自覚は、それを超えたものが見出されなければ自覚できません。
様々な妄想執着によって、人間は自分のいのち、自分の心のみならず、他人を傷つけずにはおれない愚かな存在です。
しかしその中にあっても、心性はもともと純粋なものであったのです。自分のいのちそのものは、赤ちゃんが純粋無垢であるように、もとより罪業などないのです。
この和讃、一読するとこの世にはまことの人がいないと嘆いているように思います。しかし決してそれだけの意味ではないと思うのです。一連の和讃は「愚禿悲歎述懐」というものですが、その冒頭は「浄土真宗に帰すれども」で始まります。我が身を自覚せしめた本願念仏の教え、浄土真宗に立ち返るものです。
現代では良心といいます。人と生まれて、多くの人と関わり育てられて全く良心を持たない人はいないと思うのです。その良心を浄土教では本願と呼ぶのでしょう。純粋な、すべてのいのちあるものを愛してやまない、暖かい心、いのちそのもののような、奥深くにある心です。
その良心に触れればこそ、自身の罪業も自覚できることであります。
その心、本当の良心、純粋ないのちそのもののような心。それを信ずるのが信心であると、一つ押さえておかないといけないと思います。
その上で、親鸞はまた、如来よりたまわりたる信心といいます。もとから信心は自分にはないではないかとの意見もあります。
信心をおこす、得るといっても、おこしたときは得た時は自分の心を超えているのでしょう。そこに驚きと喜びがあるのです。
南無阿弥陀仏の意味も、言葉の説明も必要かもしれませんが、自分の心を超えて聞くことができた、純粋ないのちの祈りの声。それに出遇った感動です。
信心は、自分の外に仏様や本願を探すのではありません。かといって自分の中にあるからと油断していると人生を空費してしまいます。信心の再点検も必要でしょう。それが聞法生活なのです。
信心は、心を澄浄にすることと説かれます。自分の心は汚れますが、その奥底にある清らかな良心、それを磨いてゆくのです。
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お給仕について、お仏飯をお供えすることを書きました。
では、その意味はなんでしょうか?
仏さま、ご先祖さまに召し上がっていただくため。そのように一般的には考えられています。
真宗大谷派の食前の言葉は
「み光のもと
われ今さいわいに
この浄き(きよき)食をうく
いただきます」
食後の言葉は
「われ今
この浄き食を終わりて
心ゆたかに力身にみつ
ごちそうさま」
です。
浄き食とはなんでしょうか?
仏様からいただく食事です。仏様から、私たちの本来のいのち、仏様のいのちを養うために頂くものだかrです。
そのお米はご門徒さんがお供えしてくださるものです。幸に田舎で農業を営んでいるご門徒さんも多く9月には新米もいただきます。
そういう生活で感じることは、私ひとりのために、農家の方はご苦労されて、お米を作ってくださるのだ、ということです。
常識的にはそんなことはないでしょう。農家の方は大勢の人に食べてもらうために作っているのだということが常識です。
では、そのお米を頂く時、数百分の一の感謝しかしていないのかというと、そんなことはない。私ひとりのためにご苦労してくださったのだと思えます。
だから、昔からご飯粒を残すな、食べ物を粗末にするなと、両親や祖父母から教え込まれます。
お米だけではない。野菜も、お肉も、お魚もそうでしょう。人に食べられるために動物や魚は生まれてきたわけではありません。しかし仏様からいただいたいのちを養うために頂く尊い食事です。
もっといえば、お米一粒にも野菜にも、肉にも魚にも仏様が宿っています。仏様という言い方でなければ、ご先祖が伝えてきた農業漁業と、そこに流れている純粋な祈りです。
農家も漁師もただ、自分の儲けのためだけに働いているわけではないでしょう。少しでも美味しいものを、口にした人が喜んでくれることを望んでいると思うのです。
そういうことを、お仏飯ということで表しているのではないでしょうか。
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真宗門徒の生活はお内仏の合掌礼拝、できれば正信偈のお勤めをして、御仏飯をお供へすることから始めます。
しかし最近は、お勤めも、御仏飯を朝にお供へし、正午に下げることも難しいと思ひます。その場合は適宜考へてよろしいと思ひます。
ただ大事なことは、せめて朝のひと時、お内仏の前に座つてしばし合掌礼拝し念仏申すことです。
真宗門徒の生活はその合掌から1日を、また人生を始めてきました。そして人生を終へる時も合掌で終へます。
子どもが誕生すると、家に帰つてきたらお内仏に手を合わせました。もちろん赤ちゃんは合掌できませんから、家族揃つて、赤ちゃんを抱いて手を合わせました。
家族が結婚をしたらお内仏に手を合わせました。
人が亡くなれば、お内仏の前に寝かせて家族揃つて手を合わせます。
真宗門徒はご不幸ごとがあつてもお内仏の扉を閉めたりはしません。
仏様は、神様との区別なく、その家庭の守り神のやうに思はれています。日本では昔から神仏一体といふ信仰がありました。さういふことでは純粋さ、清浄さといふのが神仏の根本なのでせう。
お内仏、仏様も純粋ないのちの祈りです。私たちが誕生した時、親は我が子を決して見捨てないと良心に誓うことでせう。また私たちも子どもを授かつた時さう思つたことでせう。もちろん親ですから親のエゴもありますが、いのちの誕生を喜び、子どものいのちと一つになろうと思ふことでせう。子どもが泣けば自然と乳をあげ、その時に乳を飲ませてやってるとは思はない。母は乳をあげることに喜びを感じ、子は飲むことに喜びを感じる。さういふところに、いのちに分け隔ての気持ちを挟まない、純粋ないのちが脈打つてゐます。
ただ、お内仏が、ご先祖を祀ることのやうに思はれると、私はこの家の先祖と関係ないからどうでもいいといふ気持ちにもなるかもしれません。
しかし、お内仏といふ言ひ方で伝統されてきたことは、血の繋がりがあるとかないといふ話ではない、いのちそのものは自分も他人もない、もつと深いいのちの平等さ、普遍性、純粋性に目覚める場所といふ意味があると感じるのです。
いのちは、家庭だけのことではありません。一歩外に出れば多くの人々、動物、植物などのいのちと出会います。
そのことを思ひつつ、お内仏に手を合わせることから1日を始めましょう。そして頂く食事も動物植物のいのちをいただきます。日常ではできなくても気がついたら手を合わせて頂きたいと思ひます。
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前回は、主にご葬儀、ご法事の際の僧侶のお布施について書きました。
御経料ではなく、御布施と書くこと。お布施は料金、代金ではなく施しを布く行であることを書きました。
お寺のことというとお葬式や年忌など悲しみの仏事といふイメージが強いと思ひます。
しかし、お寺でもお祝いの行事もあります。ではその時はどのやうにしたら良いのでせうか。
お寺のお祝いといふと境内建物の落慶法要、住職の継職、仏前結婚式などがあります。その場合は、御祝は、一般的な紅白の熨斗袋か白い和紙に御祝などと書きます。御布施でも間違いとは言ひきれませんが、御祝が多いやうです。
また、礼服のネクタイの色ですが、お寺に行く時は黒ネクタイと思ひ込んで落慶法要にも黒で見える方もいるさうです。しかし御祝の法要ですからそれに相応しい色が良いでせう。
ただし、念珠は慶事、弔事問わず手にします。また肩衣がある場合も慶事、弔事問わず身につけます。これは御本尊にお参りする際の作法です。必ずお持ちください。
さて、ご門徒さんがとまどふのが、自宅のお内仏を新しくした時のお布施です。入仏自体は弔事ではありません。ですので慶事用の熨斗袋で構はないと聞いてをります。しかし実際は弔事に続いてお内仏をお迎えすることが多いですから、その場合は白い半紙、和紙などを用います。
また慶事としてのお内仏の入仏に招かれた時のご仏前は、白、もしくは慶事用の熨斗袋を用います。
ご仏前ですが、真宗は御霊前は用いません。お通夜、葬儀に参列の場合も御仏前です、または御香資とします。そして御仏前は弔事以外でも広く用います。
それは、慶事であれ弔事であれ、御本尊を中心に、常に教えを聞く喜びの中で日暮らしをする真宗門徒の生活が流れてゐるからです。
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