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[3月の法語]
「この私にも」のひと言に、多くの内容をもっているようです。
「私」は私の考えに執着し、自分と他人を比較する。私だけが大事だと思う。自分と他人は違うと思っている。
そういう「私」にも、その根底には、あらゆるいのちを平等に見てゆく、あらゆるいのちを愛さずにはおれない、そのことに目覚めてほしいという深い本願が支えています。
本願との出遇いが、民族、国籍、境遇を超え、人を平等に見て尊敬してゆく、明るい広い道に立たしめられることでしょう。
「この私にも」に驚きと感動、かたじけなさ、ありがたさを感じます。 |
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[2月の法語]
今日という日は二度とこないと分かっている、でもいつのまにか一日無感動。マンネリ化した毎日と感じている人も少なくないようです。
しかし落ち着いてみると季節や景色の変化。自分にとって良いことや、病気や失敗など自分にとってよくないと思えることも初事だったりします。
ただ、ここで和田先生がいわれることは単なる経験だけではないのでしょう。経験の底にある「本当の自分と遇う」ことが開かれることです。
思うに私たちは過去や先のことに心奪われる、いわゆる妄想執着で「今」という「時」を見失ってはいないでしょうか。とともに「時」と自己は別ではありません。
「今」という「時」が開かれる、ここに初事という深さがあるように感じます。
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2019年頭挨拶
皆さま、新年明けましておめでとうございます。昨年は皆様には大変お世話になりましてありがとうございました。また本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今日、お参りに見えている方の多くは、道浄寺という寺の名前と、宗派は浄土真宗である、真宗大谷派である、ということはご存知であることでしょう。知らなかったという方はこの機会に覚えていただきたいと思います。
先日もある方から、「住職さん。うちのお寺はどこどこにあるお寺なんだけど、知らないかな?」と尋ねられました。地名だけ言われてもわからないので、「宗派は?」と聞くと、婆さんに任せっきりだから分からないと言います。法名や御本尊など話を聞いてようやく1〜2候補が上がってきて、あとは検索してみたらということになりました。
こういうケースは珍しくないと思うのです。
何故、こういうことを申し上げたかと言いますと。宗派の名前は、私たちのよりどころとなるからです。禅宗ならば坐禅を拠り所となるでしょうし、真言宗なら真言でしょう。
では、私ともの浄土真宗は、真宗は何を拠り所とするのか。浄土ですが、その浄土ということが曖昧になっていると思います。
金子大榮という先生は「浄土は死の帰するところでありつつ、それが生のよる処となる」。と言われました。
浄土はこの世のいのちが終わって帰るところ。道浄寺の前々住職も前々坊守も浄土に帰りました。大切なご門徒さんも帰りました。私が得度した時の師僧も、お世話になった先生方も、友達も浄土に帰りました。そのほか直接のご縁がない人も大勢います。
そう思いますと、南無阿弥陀仏と手を合わせる時、すでに浄土に帰られた人たちから私は励まされていると思うのです。
南無阿弥陀仏は、まことの祈り、まことのいのち、とも教えられます。私たちはそういう祈り、いのちに支えられているのでしょう。
どのような状況、境遇であっても自分自身から離れることなく、自分自身を見捨てない確かな祈りがあることです。
浄土というと、何か死んで往っておしまいというイメージがあるようですが、それだけで終わってしまったら寂しいばかりです。浄土という時には、実は私ともを支えてくださる確かな願い、祈りがある。それは純粋なことであるから、自分にも他人にも通じる、分け隔てない、全ての命を愛さずにおれない温かい愛情のある祈りです。そういう豊かな世界が広がっています。
この一年、様々な仏事が営まれますが、一つ浄土ということを、ご門徒さんとのお付き合いの中で深めて参りたいと思うのです。
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