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朝、ひどい頭痛に襲われる。起き上がるのもつらい。
ここは、、おばさんの仮設住宅か。そうだ、一泊させてもらったんだった。。
昨日の夜中の撮影で雨に当たってしまったのがいけなかったのか。
おばさんは昼頃に起きて昼食を作ってくれた。
別のおばさんが僕のためにと買ってきてくれた刺身が食卓に並ぶ。
狭い車の中で寝込まなくて本当によかった。
石巻の薬局で念のためにと買っておいた薬を胃に流し込む。
普段は薬など滅多に飲まないので、困ったときに飲む薬は抜群の効き目を発揮し、
2時間ほどですっかり回復してしまった ←単純w
おじさんはもう一泊していきなさいと言ってくれたが、
いつまでも甘えるわけにはいかなかった。自分の旅を先に進めないと。
仮設住宅の皆さんに別れを告げてさらに北へと車を走らせる。
気仙沼
陸前高田
三陸
釜石
大鎚町
東京から片道600キロ、本当に来てしまった。
当初の目的地、大鎚町まで辿り着く。
志津川から大槌町までは写真を一枚ずつ載せただけになるが、
どの場所も津波の被害を受けた場所は未だに復旧には程遠い状態。
志津川を出てからは撮影というよりも、現状を知るための旅といった感じであまり撮影はできなかった。
また、夜の撮影も陸前高田での撮影でとても怖い思いをしてとても撮る気になれなかった(トラウマ)
この旅での一番のハイライトはやはり、仮設住宅に住む皆さんとの触れ合いだった。
旅は人との出会いで印象がガラッと変わる。志津川のあのこじんまりした町の感じも好きだったな。
津波に遭う前の志津川はどんな様子だったのだろう。今は知りようもないその風景を頭に描く。
行きたかった場所を全て自分の足で歩いてみて、被災地の現状が少しだけれど分かったし、ニュースや雑誌で取り上げられる現地の話題を自分の見てきた記憶と照らし合わせて理解することが出来るようになった。
このことが旅で得た一番の収穫だった。
陸続きの日本、東北は遠いようで近い。
沖縄の離島や海外まで行くことを考えれば東北なんて一瞬で行ける。
今回訪れることがなかった場所はまた次回、行ってみようと思う。
この車で寝泊まりした。
フロントガラスは二重の断熱材を置く。
窓を全部覆うとアルミの輻射熱で結構温かくなる。。
、、いや、温かくはならない。結構寒い(笑)
ガラスを全部覆うと不審車に早変わりするので、
いちお、ボランティアに来ましたよ的な感じを出すために頑張ろう東北の手ぬぐいを置いてアピール。
が、三陸の道の駅で朝、車から降りると10台くらいのパトカーに囲まれていた時は
どうしようかと思った。僕は全然関係なかったんだけどね笑
やり過ぎ?
いやいや、、東北の朝とか、めっちゃ寒くて〜
皮膚が出てるところが寒いと言うか痛いの。
趣味で防寒具を色々持っていてホントよかった。
地元に帰ると、ちょうど山の向こうに日が暮れるところだった。
いつものお気に入りの河川敷からの風景。
今回の旅は地元からいきなり石巻の沿岸部。
そこから津波で被害のあった場所しか見ていないので、
地元の損傷していない住宅が建ち並ぶ風景を見た時にほっと安堵した。
この町が津波に教われたら、、考えたくはないが、川に近いこの町にはその可能性がある。
旅を経て、美しいこの街と風景を、もっともっと好きになった。
ise
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2012
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おばさんとの会話を終え、志津川の夜を撮影しに行く。
やはり、光ある昼の風景とは違って夜の風景の見え方は全然違う。
街灯も未だ復旧していない夜の志津川は真っ暗で、
反射率の高い物質だけが僅かな月明かりで青い光を放っている。
ヘッドライトを装着して足場の悪い道を進んでいく。
いくつかの場所では信号が復旧している。
信号の光に誘われるように歩みを進めた。
暗いこの場所では最新のLED灯は眩し過ぎる。
港近くで工事の照明も点灯していた。
あの場所は昼夜問わず24時間工事してくれている。
工事は進んでいないという声は上がっているものの
どの場所も工事に携わる人は頑張っていたよ。
廃車置き場。
その一台一台に物語がある。
こんな形になっても車は貴重なもの。
盗難防止の為か、入り口でパトカーが警戒をしていた。
昼に見た防災センター前の海水はすっかり引いていて
海辺まで歩いて行けそうだった。今は干潮の時間なのか。
海辺の風景を撮るにあたって、潮の満ち引きも考えなければいけないな。
堤防はもうめちゃくちゃ。
分厚いコンクリートの壁は、本来の役割を忘れたかのように傾き、倒れてしまった。
堤防というのは波を防いでくれるのが目的だが、一度乗り越えられてしまうと、
浸水した海水は堤防によってなかなか海に戻ることができない。
階段に取り付けられた手すりは、津波の強烈な力によってその形を変え 先端部分は鋭利な刃物のようになっていた。
この階段を上がる時に洋服に引っ掛けてしまい切ってしまった。
堤防の上から撮影。
ここから見た風景の一面が海の中に沈んだのか。。
三階建てのビルですら水没してしまっている。
逃げる場所なんてどこにもないじゃないか。
ケーブルは切断されなかったのか、壊れてもなお光り続ける灯台。
ボロボロになっても本来の目的を全うしようとするその姿に胸が熱くなった。
堤防の高さと被災したビルの高さとの対比。
防ぎようがなかったんだね。。
歩みは遅くても志津川の町は確実に復興、、いや、復旧している。
どんな形であっても、あのおばさんに出会った町、小さな港町が僕は好きだ。
また撮影に来よう、、22時を回ったのでおばさんの仮設住宅に帰ることにした。
入り口に鍵がかかっていて二人は寝ていた。
警察が見回りに来て、しっかり鍵を閉めなさいと注意されたらしい。
毎日23時頃までテレビを見ているって言ってたものだから、、すみません。
顔も洗わずに寝袋に潜り込んだ。
ise
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津波によって甚大な被害を受けた宮城県の南三陸町。
気仙沼市と隣接するこの町では人口約1万8千人のうち半数が死亡もしくは安否不明、
残り半数が避難生活を余儀なくされている状況だそうです。
志津川町に辿り着いたのは旅の四日目のことだった。
東浜街道を気仙沼へ向けて車を走らせていると、志津川町の市街地へと出た。
市街地と言ってもそれは東浜街道沿いにある一角だけで、それも津波の被害で荒れ果てていた。
思わず近くに車を停め、様子を見に行く。
住民の憩いの場だったスーパーマーケット。商店街。病院。。
どれも高さ14メートルもの津波をもろに受け、ぼろぼろになっていた。
一年経った今でも壊れた防波堤の隙間から海水が押し寄せ、
市街地を浸水する。地盤が1メートルほど沈下したことも影響しているのだろう。
三階建てのこのビルも屋上まで水に浸かり、避難した多くの方が亡くなった。
町の一角で、ボロボロになったガソリンスタンドが建物はそのままに営業を再開していた。
そこで必死に働く若い女性のアルバイトの子を見た時、
その笑顔・元気はなんとも考えさせられるものがあり胸にこみ上げる熱いものを感じた。
彼女にとっては何があってもここは故郷であり、生きていく為の場所なんだ、と。
市内を見た帰りに、再びそのガソリンスタンドを訪れると、
知らないカメラマンがその女性を呼び、瓦礫をバックに写真を撮っていた。
、、あぁ、、あれは確実にいい写真だろうな。。
同じカメラマンとして僕は悔しかった。
ここまで見たものと言えば津波で被害を受けた場所であり、建物だけであった。
「津波の被害は確かにひどいけど、そこで暮らしている私たちにも目を向けて欲しい」。
とテレビで言っていた地元の方の台詞が頭をよぎる。
名も知らぬあのカメラマンとは語ることは無かったが、撮るという行為で僕に大事なことを教えてくれた。
大事なことに気付いた僕だったが、そのカメラマンと同じ写真を撮るわけにはいかない。
僕は僕しか撮れない現地の方の写真を撮りたかった。
町のはじっこ、小学校まで足を伸ばし、再び市街地まで戻ろうとしたとき、
廃車置き場前できれいな夕日に出会う。
ここで現地の方を撮影したいな、そう思った時だった。
さきほど、市街地ですれ違った年配のふたりがこちらに向かってやってくる。
僕は思わず声をかけ、撮影をお願いする。
最初は少し不審がられたものの、
さっき橋のところですれ違いましたよね?
どこから来たの?
あれ、ずいぶん遠いところからきて〜
しばらく話をすると、心良く撮影させてもらえることになった。
現地の方と交流できたこと、僕はとても嬉しかった。
写真は帰ったらすぐに必ず贈ります。
住所と名前を聞いてふたりと別れようとしたけど、
せっかくの出会いをこれで終わりにしたくなかった。
しばらく話をしていると、
「せっかくだから仮設の住宅も見ていきなさい」。
と一緒に仮設住宅までの道を歩くことに。
そこは急な坂を5分ほど登った小学校の校庭端にあった。
プロの人が来たんだから、みんな呼んで写真撮ってもらおうかしら
最近は取材にも全然来ないからね〜
久しぶりの新たな出会いにおばさんたちも嬉しそうにしていた。
おばさんは携帯電話を駆使し、次々に電話をしていた。
僕は撮影のための準備をし、これで全員集まったかなと思っていると
次から次へと住民が次々に集まってくる。
あらー、カメラマンさんなの?
わたし、エプロンかけたままできちゃったわ
髪をとかしてくればよかったわ〜
おめかしもしないまま〜
きれいに撮ってくれる?
なっ、何人集まるんだろう、、日が暮れちゃうな、、
結局15分以上待機し、日も落ちてしまったのでストロボを焚いて撮影することにした。
本日は集まって頂いてありがとうございます。
突然の撮影会ですが、素敵な瞬間を形に残したいので皆さんご協力お願いします。
そう伝えると緊張も解け、みんないい笑顔になった。
仮設住宅は入居から2年すれば出なくてはならず、ここで仲良くなった皆とも離ればなれ。
今しかないこの瞬間を、残すことができてよかった。 高台から町をバックに写真を撮りたい。
僕はそう伝えると残った数名の方が撮影に応じてくれた。
人が集まるまでの間、みんなで町を見下ろす。
みんなここで生まれ育った方たち。
どんな気持ちで毎日街を見ているのだろうな。
撮影後、それぞれの撮影の希望を叶えていくことに。 この方は犬と一緒に写真を撮って欲しいと言うので、家の前にお邪魔した。
愛犬を見るその表情はとても柔らかくて、家族同然、とても愛おしいのだろうなと思った。
足が悪くて撮影に参加できなかった夫と一緒に撮影して欲しいというこの方は
家にお邪魔して撮影することに。みんな誰かの大切な人なんだよね。
撮影の後、これから私たちは晩ご飯でせっかくなのだから一緒に食べていきなさいと言ってもらう。
朝ご飯以降、何も食べていなかったのでお言葉に甘えることに。
毎日コンビニ弁当ばかり食べていたので、家庭の味が心にしみた。
撮影に来た事情を話し、毎日車の中で寝泊まりしているんですと話すと、
不憫に思ったのか、今晩ここに泊まっていきなさいと言って頂く。
さすがにそれは悪いと思ったが、もう断れるような雰囲気ではなくなっていたし
せっかくのご好意に甘えることに。
晩ご飯から夜の撮影に出かけるまでの間、
震災当日の話、避難所生活の話、町の現状など、現地の生の話をたくさん聞くことができた。
地震の時は自宅にいました。立っていられないほどの揺れでした。
チリ地震の津波も、その後に起こった大きな津波も経験しているので、
これは大きな津波が来るなと思い、揺れが収まった後は津波から逃げる準備をしました。
着の身着のまま、足の悪い夫の運転で高台にある志津川小学校に急ぎ、午後3時すぎには避難を終えました。
それから約20分。津波が砂煙を上げゴーゴーと近づいてきて、気付いたら眼下一面が海でした。
津波は上からザブンと来るのではなく、海面がガーと一気に膨れ上がるんですね。
津波は優に10メートルを超え、JR気仙沼線にぶつかり、家をメリメリ壊し、丘に漁船を運び、渦も巻いていました。雪の中でその光景を眺めながら、「もう終わりだ」と思いました。
小学校には生徒ら約400人が避難していました。おかゆをもらい寒い夜をしのぎました。
それからは灯油を巡って喧嘩が起きました。脚の悪い夫もいて、あんな狭い場所にいられないと
乗ってきた車の中でエンジンをかけて数日は過ごしました。
「地震が来たら津波!」とたたき込まれて育ちました。教えを守って逃げたから、今があると思っています。
散歩には毎日必ず行きます。途中に神社があるので、家族の健康をお祈りしていくようにしています。
今回、脚が悪い夫と生き延びられたのも毎日のお祈りがあったからだと思っています。
今日はいつもよりだいぶ早く散歩に行った。
近所の人たちにも今日の散歩は随分早いんだねぇと言われていた。
早く出た理由は分からない。そうしたらあの場所であなたと会った。
僕もこの場所で撮影をしたいけど、そろそろこの町を出なくてはと思っていたところにおばさんと会った。
これは必然の出会いなんだろうねきっと、と不思議な出会いについて話をした。
撮った写真は帰宅後、すぐに大きくプリントして額装したものを人数分贈った。
写真が全て流されてしまったと言っていたあの人たちに、
今を生きている証の写真たちを早く届けたかったのだ。
数日後、写真が届いたことを嬉しそうに伝える電話があった。
お金のことを心配していたが、そんなものもちろん要らなかった。
あの時、みんなが見せてくれた笑顔から感じられたことがたくさんある。
誰かに与えているようで、色々もらったのはむしろ僕の方だった。
写真家としてまだまだ未熟な僕でも、写真を通して直接誰かの役に立てることもあるんだと思った。
来月末にもまた行きますと言うと、美味しいタコをごちそうしてあげると嬉しそうに話してくれた。
ise
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女川町の撮影を終え、津波が来た時に住民が避難した高台の階段から
眼下に広がる風景をしばらく眺めていた。
iPhoneに入った動画で同じ場所から撮影された動画を見る。
この場所のすぐ目前まで津波が来たなんて、、
とても信じられなかった。
日も暮れて、再び東松島市の大曲地区へ。
この場所でどうしても夜に撮りたい写真があった。
激しい雨が降ってきて足下の泥は体積を増しぬかるむ。
壊れた家の中からガンガンと強風にあおられた何かが音を鳴らす。
真っ暗な廃墟な中、僕の心は折れそうだった。
一枚だけ写真を撮って、その場所から逃げるように道の駅へと戻る。
今日もコンビニ弁当で夕食を済ませ、寝袋に潜り込む。
色んな風景を見過ぎてゆっくり眠れそうもなかった。
旅の四日目。
石巻の道の駅を離れて北上を決めた。
山をいくつか越えて気仙沼市街を目指す。
暫く車を走らせていると、いつかテレビで見た風景に出会う。
ここは気仙沼線の線路が敷かれていた場所だったが、津波で駅と線路は消失した。
気仙沼(気仙沼市)−前谷地(石巻市)間を走る気仙沼線は、全23駅のうち9駅が津波によって流失。
レールもいたるところで押し流されたりがれきに埋もれたりしている。
復旧にあたり一部区間について鉄道ではなく「バス高速輸送システムBRT」を検討しているようだ。
写真の場所もバス用の専用道路として整備されるのだろう。
BRTの導入を考えているのは気仙沼市や南三陸町などを走る柳津−気仙沼の55・3キロ。
軌道全体の6割強の区間を舗装してバス専用道とし、残りは一般道を利用するという。
これまでの駅だけでなく、一般道に出て仮設住宅などに立ち寄ることも検討している。
鉄車輪かタイヤか、鉄軌道かアスファルトかなんて、利用者にとってはあまり関係ないのではないかと思う。
狭い路地までくまなく走れるバスの方が利便性が高く利用者には優しいのかなぁ、、
まぁ、あくまでも何も知らない外からの意見ですが。
地元はあくまでも鉄道での復旧を、という立場は崩していないが、
僕の見てまわった限りでは鉄道での復旧は難しいのではないかと思う。
線路が敷かれていた場所やいくつかの駅は海のすぐ横を走っていて、
潮高が2メートルも上がれば浸水してしまいそうな場所もあった。
(今回の地震の影響で沈下しているのかもしれないが)
山間の少ない土地に敷かれているので仕方ないことなのだろう。
津波の影響を避けて新設すれば新たに山を切り開らかなくてはいけないし、
赤字ローカル線となった気仙沼線にそこまでお金をかけてという思いもある。
震災から一部区間は再開し、地元の人たちは鉄道の開通を喜んだが、
みんなマイカーを持っているから、ほとんど乗ろうとはしない。
JR側にしても列車を一日五往復しか運転させないのでは、大いに利用しいてくださいとは言えない。
開通日のお祭も終わり、風光のよい三陸海岸の新線をわずかな客を乗せたディーゼルカーが淋しく走っていた。
線路だった場所を歩いていると、後ろから若いカップルが歩いてきた。
東京から被災地の現状を見に来たと。
無言で一緒にこの場所を歩き、僕らは別れた。
戸倉小学校と体育館。
体育館は小学校の悲願で3月1日に新設された。
わずか10日でこんな姿になるなんて誰が想像しただろう。
学校の校庭には瓦礫の山。
この瓦礫は宮城県内に受け入れ先が決まり
来年の4月をめどに処理される。
残った昔ながらの防波堤に思いを馳せる。
とてものどかな田舎町だったのだろうなぁ。
津波前の風景も見てみたかった。
沿岸部を見てまわって気付いたことがあって。
この地方の神社はそのほとんどが小高い高台にあって。
津波はどの場所も鳥居の前でその勢いを弱めていた。
昔の人はきっと知っていたんだね。
ise
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東松島市から石巻市女川町へ。
石巻の被害はひどかったが、女川の破壊ぶりはそれをさらに越えていた。
町の中心部はほぼ完全に破壊され尽くしている。震災からもうすぐ一年経つにもかかわらず、
未だに3階建ての鉄骨ビルが横倒しになったまま放置されている。
今回の震災では破壊があまりに広範囲に渡っているので、人出が絶対的に不足しているのだろう。
女川町は人口1万人。高齢化が進んでいる。
町の中心部にはかつて魚市場を中心とする観光施設がいくつかあった。
これを中心に町おこしをするつもりだったのだろう。
だがこの圧倒的な瓦礫を目の当たりにすると
「これからいったいどうしたらいいのだろうか?」
という呆然とした気持ちがわきおこってくる。
広大な風景のなかで重機をわずか2・3台しか見かけなかった。
海抜10メートルを超える高台に建てられて病院。
今回の津波ではこの場所にも津波が押し寄せ、建物の一階が浸水した。
人々はより高い場所を目指し、神社に続く階段に避難した。
住民は変わり果てた町を毎日どんな思いで見ているのだろう。
鉄筋コンクリート製のビルが根元から倒されてしまった。
左側の部分が屋上にあたる。
今年の一月にようやく東京都が女川の瓦礫の受け入れを表明した。 ダンプカーが次々に瓦礫を運び出していた。
女川町には特殊事情がある。
東北電力女川原子力発電所が立地しているのだ。
町は、そこから多額の立地交付金や固定資産税等をもらっている。
女川町はこれから膨大な復興資金が必要で、
以前と同じような町作りをするためには、原発からの収入は不可欠だと思う。
しかし、その原子力発電所も東京電力福島第一原発と同じクラスの津波に襲われ、
現在は稼働を停止している。(震災後の停電はなく、福島第一のような大きな被害はない)
原発や原発立地自治体には否定的な意見しか持っていなかったが、
実際に現地を訪れて実情を見てしまうと複雑な気持ちを抱いてしまう。
学ばなくては意見もできない。
このことについてもっと勉強しようと思った。
ise
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