2012

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撮影の後、石巻の道の駅へと戻った。
ここの素晴らしいところは道の駅に温泉施設が併設されているところ。
コンビニやガソリンスタンドもあるし、高速の入り口も近い。
震災後しばらくは自衛隊やボランティアの活動の拠点にもなったらしい。

21時に温泉は閉まってしまうので、タオルだけ持参して急いでお風呂へ。
家ではほとんどシャワーで済ませてしまうので、広い湯船で久しぶりにゆっくりお風呂に浸かる。
身体の芯までとろけるような快感を得られるお風呂って素晴らしいね笑
晩ご飯はコンビニ弁当。今日も車内泊だが、撮影で疲れていたので早々に寝つけた。





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旅、三日目。
石巻市から隣の東松島市へ。
東松島市と言うと、航空自衛隊の松島基地がある。
救助、給水・炊き出し、不明者捜索。。
震災発生以降、隊員は被災者支援に全力を注ぎ、基地の修復は後回しにした。
津波が引いた後、基地はどこもゴミや泥だらけで見る影もなかったという。
基地に駐機していた戦闘機18機、救難ヘリコプター5機、軍用車両100台以上と大量の軍用物資すべてが被害にあった。
震災発生からまもなく1年になるが、松島基地はまだもとの姿に戻っていないという。
基地の一角に廃棄された大量の車両と航空機が山積みされていた。





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基地横の大曲地区へ
彼方まで田畑が続く典型的な田園風景だ。




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森に守られ消失を免れた家。
自然は全てを奪うこともあれば、
僕らを守ってくれることもある。




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誰かが植えたのか、白菜が寒さに負けずに生えていた。
一帯の農地は大掛かりな塩抜き工事をしなければ再び農地として使うことは出来ないという。





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北上運河を越え太平洋沿岸に出ると様子は一変する。
そこにあったはずの住宅街はなく、あるのは大量の海水とそこに浮かぶバラバラになった家の破片。
沼のようになった場所には放置された乗用車が沈んでいる。
眼前に広がる地震発生から一年を経たその光景は、
自然の猛威という言葉で表すにはあまりにも凄惨なものだった。




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何キロにもわたり続く破壊された沿岸線を歩く。
ある家の前を通り過ぎようとした時、ふと倒れた電柱に目をやると



「がんばれ。きみはひとりじゃない。」



民家を直撃して倒れた電柱に残されたメッセージを前に
僕は何も言葉が出てこず、しばらくこの場所から動くことができなかった。
この場所で何があったのだろう、、一年経った今では知る術がなかった。




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ここには二隻の船が打ち揚げられてしまった。
一隻の船は海へと帰ったが、もう一隻は未だに帰れないでいる。
乗り上げた部分のコンクリートを削り、海に還す工事の真っ最中だ。





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大きな資本を持った企業は復興をはたしているが、
今回の津波の深刻な被害は個人レベルでは復興のしようがないほど甚大だ。
湾を隔てた工場地帯とこの場所との対比が、僕に何かを語りかけてくる。
もっと色々な風景を見なければ。。大曲地区を後にした。








ise



被災地を巡る旅 夜




大川小学校、南浜町地区と見てまわったところで
日が暮れてしまったので、今日の宿泊ポイントの道の駅に戻ろうと考えていた。
石巻湾沿いの真っ暗な道を車で走っていると、眩しい光を放つ工場が目に入った。
急いで路肩に車を停め、カメラと取り出した。






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いつもなら煙突を見てもネガティブな印象しか持たないが、
廃墟の地区のなかで早期に操業再開した工場から力強く吐き出される煙を見ていると
頑張れ、工場!と応援したい気持ちでいっぱいになった。







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僕は工場を見ても萌えるタイプではないが、
この風景見ると萌えちゃう男性方の気持ち、分かる気がするなぁ。
カッコいいよね、工場って。








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なんて思ってふと横を見ると断線した電線がぶら下がっていた。
かつてこの地域一帯を照らしていた電力は未だ復旧していなかった。







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工場の撮影を終え、真っ暗な道を恐る恐る魚市場の方へと車を走らせる。
目の間に突然、奇妙な形にへしゃげたタンクが姿を表した。
佃煮を保存していたタンクだろうか、、
震災から一年経つ今でもこんな風景が未だあちこち残っている。







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漁港近くの地区は海に面していて、津波で甚大な被害を受けた。
全ての住民は家に帰ることが出来ず仮設住宅で暮らしている。
これだけ大きな集落なのに、夜中に明かりが付いている家は一軒もなかった。







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前の写真、左側部分に写る工場。
建物の3階部分にまで津波が押し寄せている。







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もはや何の看板かも分からない。
向こうには大量のがれきの山。
魚の腐ったような鼻を突くにおいが一面を漂っていた。
震災直後に現地に行ったボランティアの人が言っていた臭いってこのことだったんだ。。
気になったのは最初だけで、不思議と嫌な感じはしなかった。







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夜をゆっくり ゆっくりと写真に定着させてゆく。
僕にしか出来ない方法で、被災地を撮影したい。













ise










大川小学校から再び石巻市内に向かう。
石巻市でも被害が大きかった場所のひとつ、南浜町地区へ。




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南浜町地区は、廃虚と化していた。
かつては約1700世帯が住んでいた住宅街。
大津波の襲来に、大規模な火災が追い打ちを掛けた。
粉々に砕け散った家、焼け焦げてひしゃげた車…。
今は確かにあった暮らしの残骸が、むごたらしく積み重なる。
震災直後、この地区では生死が隣り合わせとなった惨劇が繰り広げられていた。



南浜町地区で津波に遭った人の証言をまとめた。


3月11日は自宅近くで、2階以上の高さがある津波を目撃した後、激しい流れにのみ込まれました。
水中でもがきながら、何度も水を飲み、ようやく水面に顔を出したところで、近くの住宅の2階にいた男性が引き上げてくれました。しばらくして周囲の家や車から炎が上がりました。ほかの家の屋根を伝って逃げましたが、火の勢いは強くなる一方で、我慢できないほどの熱さでした。
コンクリートの建物が見えたので、炎から逃れようと、水の中に飛び込みました。
建物に向かって、必死に手足を動かしましたが、波に戻され、思うように進むことはできませんでした。
泳ぎ疲れて体が重くなったころ、たまたま流れてきたがれきにしがみつきました。
そのまま数百メートルほど流された後でした。日和山の方向に懐中電灯の明かりを見つけました。
消防団でした。「助けてくれー」。全身の力を振り絞って叫びました。私の声に気付いた消防団は、はしごを渡して、救助してくれました。


その瞬間、背後で「ゴーッ」という大きな音。
振り返ると、2階以上の「白い壁」が見えた。すぐ、津波にのみ込まれた。
背中のお年寄りは、いつの間にか流されていた。午後3時40分ごろのことだ。

窓から外を見ると、海の方から黒い水が、すごい勢いで道路をさかのぼってきました。
あっという間に脇道や住宅の敷地に流れ込み、渋滞中の車や駐車場に止めてあった車が次々にのまれました。
がれきに乗って漂流していると、「ボン」という破裂音が聞こえ、辺りに赤い光が見え始めた。
家やがれき、車が燃えながら迫ってくる。「焼け死にたくない」と濁流に飛び込んだ。
流されている家財道具にしがみついたが、何度も振り落とされた。
火の手があちこちで上がる中、消防団に救助された。

辺りはもう夜のとばりが降りていた。高台に上がると、ごう音を立てて燃える建物が近くに見えた。
南浜町地区一帯はすっかり炎に包まれ、13日午後6時ごろまで燃え続けた。

家や車の隙間に見えた水はどす黒く、いつもの海の色と違いました。
流れてきた家に火が付き、次々と校舎にぶつかりました。
消防団の班長が「津波が来るから逃げろ」と大きな声を出して、やってきました。
すぐに、真っ黒い津波が防波堤を乗り越えてきました。
防波堤にあった高さ10メートルの赤い灯台が水にのまれ、倒れるのが見えました。
波は漁港の南側に押し寄せて、漁協の3階建ての建物などを沈めた後、北側に跳ね返り、
漁港の中ではいくつも大きな渦が巻いていました。
いかりで固定していた2トン級の漁船は、逆立ちしたような状態で水中にのみ込まれました。
漁港を囲むように立っていた民家は次々と流され、互いにぶつかりながらビリビリと音を立てて壊れました。信じられない光景に誰も声を出すことができませんでした。
私ら10人は、水没を免れた住宅の2階に避難し、3日間過ごしました。
妻と再会したのは、水が引いた4日目。
自宅を見に行くと、建物はもちろん土台すらありませんでした。





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もともとは住宅が密集していた場所。
今では瓦礫は町の数カ所にまとめられ、大地には建物の基礎のみが残る。





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ここには生活があった。
今やこの地区には住んでいる人が一人もいない。





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描いたのは住民だろうか、ボランティアだろうか。
廃墟の町に咲いた、カラフルな花。
傷ついた人の心を癒せるのもまた、人なんだよな。





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写真に収まりきらないほど大量のがれきの山。
瓦礫の受け入れを拒否する県もあるみたいだけど。
たとえ全県が瓦礫の受け入れをしたとしても、
こんな膨大のがれきを本当に処理できるのだろうか。




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たくさんの人の命を奪った海を見たかった。
防波堤から身を乗り出すと、そこにはいつもの穏やかな海があった。




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何もない被災地に灯る、停止信号。




被災地を巡る旅、二日目。



寒くて目が覚めた。
目の前には青くて低い天井があった。
ワゴンではなく普通の車を無理矢理フラットにして寝ているので車内はとても狭い。
窓の隙間から外を見ると昨日あれだけ積もっていた雪はかなり解けていた。
パーキングエリアの食堂で簡単に食事だけ済ませて併設の道路状況が映されるモニターを見に行く。
ここ以降のチェーン規制は解けていなかった。
バンバン車も走っているし、道路の雪はかなり解けているのになぁ。。
この場所で無駄に時間を過ごしても仕方ない。
重い腰を上げ車に戻り、ジャッキで車体を上げ前輪にチェーンを巻く。
なかなかの肉体労働で全身汗だくになってしまった。

準備万端、出発する前に念のためもう一度交通情報を見ようとモニターを見に行くと、
石巻までの道のチェーン規制は解除されていた。
、、あんなに頑張ってチェーンを巻いたのに、、もう笑うしかない。
車に戻り、再び車をジャッキアップ、チェーンを外して出発。
目標の石巻市まではおよそ一時間。






宮城県石巻市大川小学校は、地震で校庭に児童と教師が避難していた。
が、学校から少し離れた避難場所へ移動しようということになり、その最中津波に飲まれてしまった。
全校児童108人のうち、生存が確認されたのは34人。
教員も12人のうち、10人が亡くなっている。


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小学校は北上川河口から数キロ離れた川沿いにあったが、津波に飲まれてしまった。
内装やデザインを見ると比較的新しい小学校だったのだろうか。
しかし、新しかったその教室も津波が全てさらってしまった。




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津波の高さは10Mをゆうに超え、校舎の二階部分の天井付近まで達している。
屋上がないデザインの校舎のため、校内には逃げ場がなかった。



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校舎と体育館をつないでいた二階の渡り廊下もねじれるように落下していた。




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H型の強化鉄鋼が津波の力でねじ曲がっている。どれだけ強い力だったのだろう。。





助かった小学生の子どもの証言をまとめた。



▽被災までの行動

帰りの会が終わり「さよなら」を言っている最中に地震が来た。

保護者に贈る映像を作成するため、教室で歌を録音していた。

友達はパニックになった。先生が落ち着いて「校庭に避難しましょう」と言った。




▽被災時の様子

普段使わない教室の校庭側ドアから外に出た。

校庭で「山に登るの?」と聞いたら先生は「登れないんだよ。危ないからだめなんだ。」と言った。

学校の近くで大津波警報。高台に避難して。と鳴っていた。

高さ50センチから始まり、2m、5m、10m、狭いところはもっと高くなると聞こえ、
そこで放送はプツッっと切れてしまった。

友達に津波が来るかなと話しかけた。

教頭先生は山に逃げ込んだ方が良いと言っていたが、
地元の人はここまで津波は来ないから大丈夫だと言って、けんかみたいにもめていた。

校庭で吐いたり、泣いたりしている子がいた。

「大丈夫だぞ」「こんなところで死んでたまるか」と話していた。

放送機器が使用不能となり、校舎内を回り校庭へ避難を指示した。

校舎内に逃遅れた児童がいないことを確認した。
点呼をとっていたとき、防災無線で大津波警報を聞いた。




▽被災後の行動

風がびゅうと来て、津波に巻き込まれた。姉も祖父母もいなくなった。

高台に向かう途中、津波が見えたので山側へ走った。

津波に飲まれ左手に何かがぶつかった。

ヘルメットの中の空気が浮力になり、水面へ上がれた。

偶然にドアが外れた冷蔵庫に触れたので中に入った。船のようになった。

必死だったので急斜面の場所でも登れたが、雪も積もっていて低学年は登れなかった。

津波の勢いにボンッと高く跳ね上げられる友達を見た。

山に降りたら友達が半分埋まっていた。

右手で枝を掴みながら、左手で土を掘った。

二人で山の中腹に座り、「助けて」と言っていると
おじさんが来てみんなのいるところに連れていってくれた。

流れてきたカスタードクリームとみかんを食べた。

六年生から一列で山沿いに歩き、県道に登ろうとしたとき、前方左川から津波がきた。

前にいたので津波が見え、すぐに来た道を山側へ走った。そのうちに波に巻き込まれてしまった。

低学年の子たちは、何で高学年が走って戻ってきたのか分からないようだった。

波に押し上げられ、山の途中で土に埋まって動けなくなった。

友達が来て、土を掘り助けてくれた。




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裏山に逃げた数名の生徒は助かった。
川沿いの高台を目指したたくさんの生徒は亡くなってしまった。




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裏山の斜面はとても急で、地震当時このように雪も積もっていて登りにくかった。
僕も登ってみたけど、登れないことはないがかなり急で小さな子どもには大変な作業だと思った。




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校舎の上空には円を描くように海鳥と鴉が何十匹も飛んでいて。
その光景は、たくさんの生命が亡くなってしまった子どもたちを弔っているかのようで、
僕は涙が止まらなかった。




学校を出ようと思って歩みを進めると、きれいな夕日が空を染めていた。
何万カ所と被災した場所があるなか、僕が訪れた初めての被災地。
たった一カ所を訪れただけだが、思うことがたくさんあった。
まだ旅の二日目、たくさんの場所に行って被災地の現状をこの目で見なければ。
そう思って学校を後にした。











ise



一直線に被災地を目指すために車で東北道に入る。
昔よく行った佐野や宇都宮を今回は通過、那須高原のSAで昼休憩を取る。
この時点で既に午後3時。荷物の用意に時間がかかり家を出るのが少し遅れてしまったか、、
今日の目標は宮城県の石巻まで行きたいんだけどなぁ。


さくっと食事を終わらせ北上を続ける。
郡山を過ぎたあたりから大粒の雪が降ったり止んだり。





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石巻まで行くには仙台南JCTで仙台南部道路に乗り換えた方がいいのか。
それとも更に北上を続けたICで降りたらいいのか分からなかったので
仙台南JCTの一歩手前の菅生SAで確認しようと車を止める。



電話で確認をすると仙台南JCTで仙台南部道路に乗り換えた方が早いとのこと。
が、電話をする間にも降雪は勢いを増し、以北はチェーン規制がかかってしまった。
ノーマルタイヤの僕の車では今日はここまでが移動の限界だった。




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今回の旅では津波で被害のあった場所ばかりを移動するために毎日、車の中での寝泊まりを考えていた。
初日は予定外のパーキング泊になってしまったが、隅に車を停め、いそいそと寝る準備を始める。
断熱材で窓ガラスを覆って、車内をフルフラットに。羽毛ダウンの上下に着替えると寒さも和らいだ。


食堂で簡単に食事をとって車に戻ると地面の雪はもう凍り付いていた。
あのまま北上していたら危なかったな、、
果たしてノーマルタイヤで岩手県まで辿り着けるのだろうか ←




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時間とともにものすごい豪雪に。
やることもないし寝ようと思っていたんだけど、せっかくの雪景色を撮影することに。
パーキングの夜をカメラを持って徘徊、、
知らない人から見たらかなり怪しく見えただろうな。





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なかなか撮影しないであろうこの状況
旅の初日ということもあり、撮影に熱が入ってしまった。
気付くと夜の1時を過ぎていた。
早く寝よう、、車に戻って寝袋に潜り込んだ。











ise




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