ここから本文です

書庫石童丸物語

記事検索
検索

全1ページ

[1]

イメージ 1
高野山苅萱堂:撮影:2011年11月25日
石堂まるこの「石童丸物語」
はじまり、はじまりぃ〜

ということで、前もって、石童丸のお話をわかりやすく理解していただくため、苅萱道心にも触れておかないと、全体の話が見えてこないので、まえがきに代えて、少しおつきあいください(^^)。

そもそも、石童丸の父上である繁氏(しげうじ)の誕生にも、地蔵様のお告げで生まれたという秘話もあって、そこから説明すると非常に長くなるので、ここは省略。
とにかく、九州は筑前、といえば福岡県の苅萱荘博多というところに、加藤左衛門尉(いわゆる加藤家)に生まれたのが、石童丸の父、繁氏(しげうじ)なのです。

ある日、苅萱の城下にある武将で、原田家の菊見の宴に、加藤家親子で招かれたときのこと、突然、狂い馬が乱入してきたのですが、一同が慌て逃げまどうなか、繁氏は、荒れ狂う馬の背中にひらりと飛び乗り、その場を静めました。このとき、繁氏17歳だったそうです。

ほんでもって、これが原田の武将さんに認められて、娘さんの桂子(かつらこ)姫を嫁にもらったんだそうです。

けど、ここからが、ややこしくて・・・・、繁氏は、ある春の花見の帰り、にわか雨にあって、あわてて逃げ込んだ家に住んでいた、千里(ちさと)姫に一目惚れ。
なんやかんやあったのですが、結局、千里姫を妾(めかけ)として迎えたのです。

ここで、有名な話があります。
ある日、繁氏は、妻の桂子姫を伴って、妾の千里姫の館に花見に行ったときのこと、繁氏は見てしまったのです。それは、一見仲むつまじく見えてはいましたが、本妻の桂子姫と、妾の千里姫の二人の長い黒髪が、蛇となって狂い、争っている有様でした。

ついには、本妻の桂子姫は、千里姫殺害を計画しました。でも、家来の機転で、身代わりを立て(この話がまたすごい)、千里姫を救い、千里姫は加藤家を去ることになりました。

そんなこんなで、繁氏は、以前より出家しようと思っていたところ、この一件で決心がついて、誰にも行き先を告げずに、紀州(和歌山)高野山の覚心上人を頼って登山し、すべてを話して弟子入りし、出家しました。

このとき繁氏21歳、名前を円空と改めました。
そして、一度は捨てた浮き世には、二度と戻らんぜ。と心に決め、修行に励み、やがて周囲から苅萱道心と呼ばれるようになりました。

で、いよいよ、石童丸の話です。

話は、千里姫が、加藤家から逃れた時に遡ります。
千里姫の侍女の故郷は播州でしたので、そこの大山寺っていう近くのお寺に身を寄せました。このとき、千里姫のお腹には、繁氏の子供がいましたが、繁氏は知るよしもありませんでした。

やがて、千里姫は男の子を産みました。
そして、千里姫は、父、繁氏の幼名をそのまま石童丸と名付けました。

それから、石童丸も14歳になりました。
千里姫も石童丸も、日増しに父に会いたいと思っていたところに、風の噂で、父繁氏は、紀州の高野山にいると聞くと、居ても立ってもいられず、高野山を目指して旅に出たのです。

石童丸と千里姫は、播州から、摂津、和泉の国を経て、やっとたどりついたのは、高野山のふもと、学文路(かむろ)の宿、玉屋という宿でした。

ところが、その、玉屋の主人が言うには、高野山は女人禁制、女性は入山できないとのこと。千里姫は、その昔、弘法大師の母親でさえ登山できなかったと聞かされ、納得しない訳にはいきませんでした。

母、千里姫は、意を決して、石童丸に父繁氏の特徴を教え、一人で高野山に登らせましたが、これが、一生の別れとなることを石童丸は知らなかったのです。

たったひとりで、石童丸は、高野山に向かいましたが、幼く、慣れない道中、不動堂の軒下で野宿し、一夜を明かした石童丸。やっと高野山に着きました。

それから、探し疲れた数日後のこと、奥の院、無明の橋まできたとき、前方から花桶を持った四十過ぎのお坊様と出会います。
石童丸は、駆け寄り、衣の袖を掴んで尋ねます。「今から14年前、筑前から高野山に出家された加藤繁氏というお坊様を知りませんか?」

それを聞いたお坊様は、さっと顔色が変わりました。必死で尋ねる幼い子の顔は、あの千里姫にそっくりです。そして、そのお坊様こそが、石童丸の父繁氏(円空)でした。

しかし、浮き世を捨て出家した身である以上、御仏に誓いを立て修行僧の身、張り裂けそうな胸の痛みを抑え、心を鬼にして石童丸に言いました。
「そなたの尋ねるお坊様は、先頃まで一緒に苅萱堂で修行していたが、病が元でなくなられ、今しがた、お墓にお参りした帰りです。」石童丸は、父の友人というお坊様に教えられた墓石の前で泣き伏してしまいました。

繁氏(円空)にとっても、我が子を目の前に、心がうずきつつも、「そなたの志は、父上も届いたはず、こうなっては、早く山を降りて、母親を大切にすることが孝行ですよ。」と優しく下山をすすめました。

石童丸は、仕方なく、でも、親切なお坊様の言葉を胸に、学文路で待つ母に、このことをいち早く伝えようと、高野山を後にしました。
石童丸は、二三歩くたびに振り返り、親切なお坊様に頭を下げながら、お坊様の姿が見えなくなるまで、それを繰り返しました。

石童丸が、学文路の宿まで戻ってみると、なんということでしょう・・・・。
母、千里は、長旅の疲労がたたったのか、石童丸が高野山に発ったその日から、病に倒れ、宿屋の夫婦の手厚い看護の甲斐もなく、石童丸の身を案じながら、淋しく亡くなっていました。

石童丸は、母の死骸にすがりつき、泣き崩れました。、居合わせた人々も、この有様はとても痛ましく、見るに耐えられませんでした。
天涯孤独となった石童丸は、母の弔いを学文路の地で済ませました。(今も学文路の苅萱堂にある千里の墓にはお参りが絶えません。)

それにしても、石童丸は、高野山では父の死を、学文路では、目の前で母の死を見たことは、耐え難い悲しみであったものの、高野山で出会った、あの親切なお坊様を思い出します。

石童丸にしてみると、頼れる人は、あのお坊様しか思いつきません。是非もう一度会って弟子となるため、高野山にもう一度登ることを決意しました。

再び高野山に登った石童丸は、苅萱堂に行き、父とは知らずに母の死を語り、是非弟子にしてほしいと頼みました。
繁氏(円空)は、仏に仕える身として、親子の名乗りもできないまま、石童丸を弟子として受け入れ、石童丸を道念と名付けました。

その後、繁氏(円空)は、信州の善光寺に、後を追い石童丸も信州に移りました。高野山苅萱堂には、苅萱道心(円空)と石童丸(道念)の合作の厄除け親子地蔵が安置されています。

おしまい。パチパチ
ということで、生涯実の親子と名乗らずに、でも石童丸は一生懸命生きてきました。

学文路の苅萱堂の記事は、こちら↓

長々と、書いてしまいましたが、御静読ありがとうございました。
細かいところ、参考にさせていただきましたのは、↓
イメージ 2

高野山、苅萱堂のみで販売されている、「苅萱と石童丸絵傅」でした。

苅萱堂は、外観の撮影はOKなのですが、一応確認しましたが、堂内は撮影NGとの事でしたので、是非、高野山に行かれたときには、苅萱堂の内部に飾られている、絵巻物をご覧下さい。

額に飾られた物語の各シーンが、立体で描かれていますよ。
とても、見応えありますよ(^^)







では、では

全1ページ

[1]

石童まるこ
石童まるこ
女性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事