自然ワンダーランド

ちょっと立ち止まって、見て、考えたい。

雑録・雑感

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 もうだいぶ前になるが、2004年イラクの人質になった3人に対して、読売新聞が自己責任論を言い出した。それからしばらくして、政府から同じ言葉が出た。新聞を通じて反応を探り、ある程度の賛同を得られそうだと確信してから、政府から公式に言い出したのではないかと、私は勘ぐった。なぜなら、日本政府は日本国民を守らない、その言い訳を探しているように見えたからだ。その後の3人に対する政府の発言は、耳を疑うばかりだった。
 そのずっと前、こんな記事があった。東大卒の非常に有能な弁護士が学生時代、海外に行って、そこの日本大使館に相談する事案が発生したときに、けんもほろろの対応をされて、ところが彼が「東大法学部」と知られると、とたんに対応が変わった、というのだ。身分差別は形を変えて、役人の頭に染み付き、そこのことが役人の地位を守っているのを、役人自身は意識しているのだろう。たとえば拘束された人間が何者かによって対応が180度変わるのでは、誰のための政府なのか?
 言い訳が必要なのは、不当なことだからである。大手新聞が政府広報のような使い方をされて、良心に咎めないのだろうか?それとも情報を流してもらうことの見返りとしてやっているのか?昨今の政治報道や記者会見での悶着を見ていると、後者の動機があって、良心のほうは抑えているのではないかと思う。いや、良心があるのなら、まだ救いはあるのだが。
 公式に渡航することが危険だからと制約される場合、もちろん何の準備もなく、そもそも何を準備すればいいのかわからないで行くのはよくない。しかしはっきりした問題意識と、周到な準備の上で行くのは許されると思うし、草の根からできることはあり、また現地の底辺にいる人々の抱える問題に寄り添い、解決に努力することは、無駄どころか、究極的には紛争の解決に資する可能性だってあるのだ。安全なところから公式に発表される情報だけ流すような報道では、ことの本質は見えてこない(あえて隠すためにそうすることは、よくある)。拘束されたという結果だけから非難する人は、自分が見えていないことがたくさんある、ということを知ろうともしないで、知ったつもりになっているのではないか?それを、自己責任論が後押しする。
 悪口は、全部とは言わないが、自分の不平不満のはけ口の一つとして、意識せずに言う人が多い。少なくとも、悪口を言っている相手は自分より下の人間だと思えることで、ある種優越感を持てる。自分の無知は意識できないのだから、仕方がない。まともな批判であれば、その論拠に対して反論できるし、議論の先により良い解決もありうる。しかし、論拠のない、または薄弱な、感情的非難は、ふつう反論を許さず、ただ「謝れ」というだけで、何の出口もない。非難する人がいい気持ちになるという効果はあるが、されるほうはひどい迷惑だし、そんな非難に謝る必要も、反省する必要も全くない。そんな馬鹿げた非難に自己責任論はちょうどいい「言い訳」を与えたので、政府は何もしなくてもよくなった。これは意識操作の一つで、騙されない人もいるが、かなりの数の人が騙されたままでいるらしい。開放に税金が使われるのがいやだというなら、戦闘機を買うのには使っていいのか?ODAに多額の金を支出するのはかまわないのか?そもそも身代金を払わない解決法を探ったことがあるのか?これは一個人のことではなく、国家間、集団間のことなのだ。目先の、表面的なことだけに問題を落としこむのも、「誰か」の思うツボだろうな。そしてジャーナリストの一部は、これに与していた。意識的なら許せないし、無意識ならジャーナリストの資格はない。
 結果に対して、予想できない、しきれないことはたくさんある。毎日新しいことが起こっていて、中には過去にはなかったことだってある。その場での対応を誤れば、不幸な結果になるかもしれない。いや、その対応が誤りかどうかだって、ずっと後からわかることも多い。誰の言うことであれ(神様でも)、ただ従うだけでよい結果になるなら、こんな楽なことはないが、現実にはありえないことだ。平和で安定した世の中なら、昨日正しかったことは、明日も正しいと考えて、大きな間違いはないが、変動するとき、ましてや紛争の中で、一個人どころか国全体の明日さえ予想できないときに、完璧な結果を求めるほうがどうかしている。するべきことは過程の状況分析であり、背景の分析であり、相手方の行動指針の、より確からしい推測であろう。

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関東山地や南アルプスの亜高山帯を歩いていて、一番目に付くのがシラビソ、次いでオオシラビソで、白く割れ目のない樹皮にも特徴がある。樹皮に割れ目が入っているのは、トウヒとコメツガであることが多い。たまにゴヨウマツやチョウセンゴヨウが混じるが、これらのマツ類はごく少ない。樹冠がはるか上にあるので、足元ばかり見ていると存在に気づかない。たまに松ぼっくりが落ちていて、上を見上げると、それらしい樹冠が見える。

コメツガは枝先の伸び方に特徴があり、双眼鏡で見上げると、他の針葉樹からは容易に区別できる。林床には稚樹があって、尾根には高木・稚樹ともコメツガが多い。トウヒはかなり混生しているが、どんなところに多いのか、認識していない。ハリモミ、イラモミは、下だけ見ていたのではさっぱりわからなかったが、大きな球果が落ちていると、そばにあることがわかる。しかし豊凶があって、いつでも見られるわけではないし、木が小さいうちは繁殖しない。トウヒ属の中では、トウヒが平たい葉なのに対して、そのほかのトウヒ属は葉が平たくないので、葉が見られればトウヒではないことは一目瞭然なのだが、はるか頭上の葉が見られる機会はなく、樹皮では区別が付かない。

写真は上から、トウヒ、ハリモミ、イラモミの球果

キカラスウリ

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思いがけないところにあった。東大農学部の建物には中庭があるが、その植え込みの後ろからつるが延びて、3階まで達している。エアコンの室外機などが置いてある、後からつけたテラスを覆って、中途半端なグリーンカーテンのようになり、曇りの暗い日で、夜に咲いた花が、まだしぼまずにあった。オオスカシバがやってきて、いくつかの花を回って去ったところを見ると、明るくなってだいぶたつのに、蜜があったらしい。

キカラスウリはなかなか見られない植物で、奥多摩でたまたま目の高さに萎れた花が付いたものがあったが、夜に見に行く機会もないままになってしまった。多分珍しいものではないのだろうが、カラスウリと違って高く登ってしまうので、花どころか葉っぱさえ目の届かないところにあって、存在すらわからない。人工林をきちんと手入れしていれば、こんなつる植物に繁殖の機会はなかなかないはずだが、昨今は放置したところが目立ち、そのためフジやジャケツイバラの花が、その季節には人工林を彩っている。
今なら山でキカラスウリを見つけることはできるかもしれない。しかし、夜に咲く花を見るのは、やはり難しいだろうな。

ヤセウツボ

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 外来の寄生植物で、宿主は割合広いらしいが、ムラサキツメクサが、特に好みのようだ。都市化する中で一時的にできる空き地は、外来種ばかりの草原になり、その中にムラサキツメクサもたくさんある。そして無数のヤセウツボも育っていた。時期が遅く、もう茶色に枯れているものばかりだったが、あまりの多さに驚いてしまった。
 ヤセウツボだって、はじめて見たときは、形もおもしろいし、もの珍しさもあって、感激したものが、これほど当たり前になってしまうと、見ても感激しないばかりか、このままにしておいていいのかとさえ思ってしまう。

地下の江戸

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 地下鉄の乗り継ぎで通る通路(都営新宿線ー南北線)の一角に、小さい展示がされていた。江戸城の石垣が再現され、床には周辺の地図が描かれている。壁にあるもののほとんどが商業広告で、見る気もしないものだが、ここだけはちょっと立ち止まって見ていたい気にさせられた。

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