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古生物学者、妖怪を掘る 鵺の正体、鬼の真実
荻野慎諧著、2018年、NHK出版新書
現実には存在しない、荒唐無稽なもの、と切り捨てることもできるが、何の根拠もなしに生まれるものはない。化石を掘るように古文書を掘ると、人の意識の中に、何かの実体から生まれて、空想を交えて生長するイメージが浮かび上がる。
方法論は極めて科学的・合理的。ただし、どうしても実在するものと結びつけようとするのはどうか?まあ、極めて知的な遊びなのだが、遊びは真剣なほどおもしろい。
強そうな悪者にはツノがある。だけど、どうしてツノがあるのか?生物界でツノがある動物といえば、大きくて強いものはあっても、すべて捕食獣ではない。なのに、悪魔にも人を食う鬼にもツノがある。いつから、なぜこうなったのか?人を襲うのに、ツノはあまり有用ではない。大きすぎる牙も同様で、これらは雄同士の闘争など、捕食とは別の用途に使われている。人を食う鬼にも、雄同士の争いがあるのか? 鬼を1つの生物と捉えると、ツノは不合理な部品だ。誤解なら解いてあげないと、鬼が気の毒だ。
現在は化石としてしか知られていない動物を、日本列島に移り住んだ人間が見る機会があったか?石器時代の人はゾウを狩っていたが、それが歴史時代の人に何かの形で伝わった、ということはなかった。しかし、中世・近世の人はゾウの歯(化石)を見ている。場所によっては、田んぼを新しく開くとたくさん出てくる。今なら、歯1本だけでもゾウだということがわかるが、生きたゾウを知らないで姿を復元することはできない。それでも「歯」だと解釈した人があったのには驚きだ(ただし、龍の歯とした)。その一方で、ゾウの頭骨にある鼻の穴を、眼窩と勘違いしたのが一つ目の妖怪になったという解釈もできる(かもしれない)。ゾウの本物の眼窩は、小さくて目立たないので、見落したというのだ。
「変なもの」を見た時に、それを正確に描写する、という態度を取る人があった。正確な描写があるから、当時はわからなかったその正体を、現代の知識と照らし合わせて解釈しなおすことができるので、事実を残すことがいかに大事であることか。また、分類は多様なものを整理する手段として有用で、どんな人々もそれなりの分類をしてきた。その枠に入らない変なものには、それ用のゴミ箱的な分類群が当てられる。これは現在の科学としての分類学にも存在する。分類の「妖怪」枠はそのようなものだったかもしれない。
中に、相当のページを割いて、ある妖怪が語られている。それは我々の意識に深く住みつき、ゆゆしき問題としてマスコミにまで取り上げられるものだが、これこそ勘違いかもしれない。私もこれに賛成だ。なぜなら、一般には難しいという人が確かにいるが、それは極めて合理的に考えれば、他の分野よりもずっとわかりやすく、筋道の通ったものだからだ。もし難しい、またはわかりにくいと感じる点があるとすれば、感情に訴えて共感させる、という、広報の常套手段を、注意深く除いているからではないだろうか。
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