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150410 浴龍池の北岸を歩き、御舟宿(おふなどまり)までやってきました。浴龍池について、「小学館ウィークリーブックス週刊日本庭園をゆく 京都 離宮の庭2 修学院離宮」の記事から引用です。 ・・・浴龍池(よくりゅうち)は舟遊びを目的とした池泉で、上皇はここに楼船を浮かべて酒宴を開いた。『霊元法皇御幸宸記(れいげんほうおうごこうしんき)』によれば、7間(12.5m)もの高瀬舟を運び入れて、これに25人が同船したという。後水尾上皇の愛娘常子(つねこ)内親王の『夭上法院(むじょうほういん)日記』には、「あなたこなたにこぎめぐり窮𨗉、隣雲亭なども見やり、それより堤へあがり」と記される。陶然心酔の人影が、眼前に浮かぶ思いがする。・・・ 「御舟着附近から隣雲亭を望む」という写真に添えられた文書です。御舟着(おふなつき)は、もう少し先にあるちょうど北岸が西浜に繋がるあたりにあります。池の北西隅ですね。次回写真を載せます。 下離宮から上離宮までの高低差は40mありますが、下離宮より持つとしたの川から、人力で上離宮まで12.5mもある高瀬舟を担ぎ上げたんですね。すごい!!!! 写真は、一番上と2番目が、御舟宿付近からで、一番上は、西浜が見えています。二番目の写真には、中島が見えています。 下の写真ですが、まずは、ウィキペディアからの引用です。 ・・・上御茶屋の主要建物は隣雲亭と窮邃亭の2棟である。他に池の北岸に止々斎という建物があったが、宝永6年(1709年)に仙洞御所に移築され、天明の大火(1788年)で仙洞御所が焼失した際に失われてしまった。・・・ ということで、写真は止々斎のあとで、残っているのは、石船と呼ばれる水盤です。 |
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150410 現在地は、修学院離宮の上離宮です。上離宮にある浴龍池に浮かぶ中島で、「窮𨗉亭」の見学を終えたところです。 次は島を下って土橋を渡り、浴龍池の北岸へ向います。 上の写真は、土橋からの三保ヶ島です。画面の右端の方に、紅葉谷からの流入口が見えているのですが、判らないですね。三保ヶ島へは、こちらから島の影になって居る場所に橋が架けられていて渡ることができます。 下の中段の写真は、土橋ですが、向う側が池の北岸になります。 土橋は、木製の橋を土で覆ってあり、説明に依れば緩い反りがあるそうですが、渡っているときは、反りなどは、判りませんでした。 下の写真は、土橋から見た池の西岸ですが、西浜と呼ばれています。 何気なく見える西浜ですが、実は浴龍池を造るために西側に水をせき止めるため、4段に渡り護岸の石垣が組まれています。西浜は、堤防の上の道と言うことになります。 この石垣を見えなくするために樫の木を主木として数十種類の木々が植えられています。 木々は、石垣を覆い尽くし、さらに、その木々を丹念に刈り込むことにより、緻密な植栽ができあがっています。 この植栽は、大刈り込みと呼ばれ、馬車道から良く見えます。この大刈り込みによるカバーのおかげで、山の景色に違和感が無くなっています。 西浜の向う側は、大刈り込みで急な斜面になっていますから、西浜の木々の背景は、空です。 画面右側の北岸には、舟遊びのための船を格納しておく「御舟宿(おふなやどり)」が見えています。 |
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150410 上の写真は、修学院離宮の上離宮の窮𨗉亭ですが、外見はいたって質素で地味なものです。 しかし、内部はさすがに凝った造りの部分もあって、「この建物の良さが判るかね。」と問われているようです。 下の中段の写真は、内部の板戸の飾りですが、モダンというかオシャレな感じがします。江戸時代のセンスというのは、ハイレベルですね。 ところで、窮𨗉亭の建物を見て思うのは、トイレはどうしていたのでしょう。隣雲亭の方もそうですが、建物の説明の中に、厠はなかったように思います。どれくらいの時間滞在するのかは、判りませんが小用は茂みに紛れて用をたしていたのでしょうか。 それとも堂々と橋の上や池岸から池に向ってしていたのでしょうか。 宿泊することはなかったそうですから、あまり気にしなくても良かったのかも知れませんが、やっぱり気になります。 もしかすると、便器を持ち歩いていたのかも。お供の人が回りに幕を巡らせて、その中でやっていたのかも知れません。女性もいたかも知れないですし。細かいことを考えていくと、どうしていたのだろうと気になることがいくつも出てきます。 下の写真は、入り口の上に飾ってあった「窮𨗉」(きゅうすいと読みます。)の額ですが、当然、後水尾上皇の筆です。 でもこの額も随分とオシャレです。 焼き板のような土台に、八角形のお盆のようなものを二つ並べて、接する一辺を少し重ね合わせて、それぞれに一文字ずつ配し、その重なった部分に水引ののし結びのような飾りがついています。 下の写真ですが、少し小さいですが、のし結び、判るでしょうか。 |
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150410 修学院離宮の上離宮にある主要な建物の2棟の内の1棟は、窮𨗉亭です。 修学院離宮の下離宮と上離宮は、後水尾上皇が造営したものですが、当時の建物はほとんど失われて居る中で、唯一この「窮𨗉亭」だけは、創建当時の建物が残っています。 それでは、説明を、ウィキペディアから引用させていただきます。 ・・・窮邃亭 - 後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。ただし、幕末頃には相当に荒廃していたようで、大幅な修理が加わっている。大きい中島の上に建ち、宝形造、杮葺、屋根頂部に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せる。南面と東面は縁および土間庇をめぐらす。内部は18畳の1室とし、間仕切りはない。ただし、北側の東隅に板間が突出し、水屋となっている。水屋には流し、天袋、地袋を設ける。床(とこ)、棚などの座敷飾りはないが、池に面する北面から西面にかけて鉤の手に6畳分を框一段分高くなった「上段」とする。上段の西側窓際には幅1尺、長さ2間の肘掛板があり、これは欅の一枚板である。この建物は、壁でふさがれているのは前述の水屋部分のみで、他は4面とも明障子の戸または窓とする。南側上がり口の軒下の「窮邃」の額は後水尾院の筆である。・・・ 浴龍池の東岸の道から、楓橋を渡り中島へ渡ると、直ぐに石段があり道は二つに分かれます。 一方は、「窮𨗉亭」の西側を通って、池の北岸へ渡る土橋へ向います。 もう一方は、南へ向い千歳橋を渡って万松塢という島へ渡ります。 一番上の写真は、窮𨗉亭の西側ですが、この下に土橋に向う道があります。 中段の写真は、窮𨗉亭の内部の東側です。中央奥に見える板間は、水屋です。 下の写真は、建物の西側ですが、一段高くなっている上段が、西側に4畳、北側に2畳ならんでいます。蔀戸は、開けられていましたが、一番上の写真の蔀戸と同じ窓です。 |
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150410 修学院離宮の上離宮の中心たる巨大な池、浴龍池には、南の方から万松塢、中島、三保ヶ島の三つの島があります。それぞれには橋が架けられており、歩いて渡ることができます。 一番南側の万松塢は、隣雲亭から直ぐ眼下に見えた島ですが、中島と千歳橋で繋がっています。ただし万松塢から直接池畔へ渡る橋は、ありません。ちなみに上の写真は、千歳橋です。 中島へは、東岸から木製の楓橋が渡されています。中島へは、もう一本北岸から長い土橋が架けられています。三保ヶ島にも東岸から橋が架けられていますが、特に名前は無いようです。 下の中段の橋は、東岸から中島へ渡る楓橋です。 楓橋は、木製で長さも二間ほどで、水面から高い位置に渡してあります。実は中島は、東岸との間隔はあまり離れておらず、見ようによっては、半島の根元を掘り割りが通って分断しているような感じです。 この辺りは紅葉の名所と言うことで、深山の渓谷の趣があります。 楓橋を渡ると、中島の中央の高台に建つ茶室「窮𨗉亭(きゅうすいてい)」があります。 見学コースは、楓橋までは池畔の道を通ってきましたが、楓橋を渡って中島の窮𨗉亭へ向います。 池畔の道は、楓橋まででお仕舞いというわけでは無く、紅葉谷を渡り、三保ヶ島のそばを巡って北岸を経て、中島から北岸へ渡る土橋の袂で見学コースと合流します。 ただしこちらのコースは、普段は非公開と云うことで通行止めされています。下の写真です。良さげでこちらも歩いてみたいです。 |






