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 今回の写真は、楼門と本殿です。
 上の写真は建物に囲まれた境内の、一番奥からの楼門です。楼門の右手前に見えるのが、拝殿です。

 下の中段の写真は、本殿です。おそらく中央にある主祭神である天之水分大神を祀る中殿だと思うのですが、正直の所、右殿も、左殿も正面の造りは、ちょっと目はまったく同じに見えますので、正確にはどの建物を撮ったのかは、覚えていません。

 この社殿は、それぞれの建物の石垣に石段が作られているのですが、石段の上の垣には、扉とか引き戸などの出入口と思われるものが一切ありません。
 まったく同じ垣が続いているように見えて、垣の内側は誰も入ってはいけないんだよと云われているようです。(実際、出入口が作ってあっても私らが入れるわけもないのですが)

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 たとえば家が一軒建っていて塀でぐるりを囲まれているとして、塀に出入口が全く無い状態を想像していただけば良いわけです。神社建築としても珍しいとおもいます。
 垣の内側には、さらに木の階段を上り社殿の入り口があり、その前には供物台のような台があり、その両側に狛犬が一対置かれています。

 と云うことは、どうでも垣の内側に入って、何かする機会がありそうです。
 垣の写真を拡大してみて、ようやく仕掛けが判りました。垣の格子が石垣の上の部分だけ引き戸になっていました。さらに勝手に開けられないようにひもで縛ってありました。

 現実には、格子の直前どころか、石段の前でお参りをするので、垣に入り口があろうと無かろうと関係の無い話ではあるのですが・・・・・。

 下は、中殿か右殿前から撮った楼門ですが、この楼門だけはしっかりと朱に塗られていて、割と地味な感じの境内に文字通り、朱を添えていました。

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 写真は、吉野水分神社の拝殿です。上の写真は、本殿の前より写したもので、中段の写真は拝殿の中の様子です。

 境内の中を見ている分には、まったく判りませんが、拝殿は清水寺の舞台と同じ崖造りです。
 一番下の写真が、境内の外から見た拝殿です。手前に楼門の隣にある回廊があって、その奥に見える建物が拝殿の後ろ側です。
 境内は、全体にきっちりと纏まっており、箱庭風と書かれていた説明にも、妙に納得してしまいます。
 
 拝殿の西側では、お守りなどを配布しています。

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 この神社は、水の分配を司る神様ですが、もう一つ子守明神の別名もあります。子守と云っても子授けの神様として、信仰があります。
 豊臣秀頼や本居宣長と云った有名人が、この神社に子授け祈願したことによって生まれたのですから信仰を集めて当然です。

 この部分の担当は、左殿に祀られている天万栲幡千幡姫命・天津彦彦火瓊々杵命・玉依姫命(子守三女神・国宝)ですが、玉依姫命については、国宝に指定されている鎌倉時代に作られた座像が御神体として祀られています。

 残念ながら、こちらは御神体ですので非公開となっています。
 また、もう一つの御神体である木造天万栲幡千幡姫命(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)坐像は、重要文化財の指定を受けていますが、こちらも非公開のようです。

 御神体ですから、非公開というのは判らないわけでは無いのですが、やはり一度直接お参りしたい人は沢山おられると思います。是非とも特別公開のご検討をしていただけるとありがたいのですが。

 こちらの神社は、特に拝観に当たってもお金を取りませんが、これだけの建物等を維持するために、参拝料を納めるのは別に構わないと思います。もっとも無料で拝観できるのは、本当にありがたいことではあるのですが。

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 御祭神は、天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)が主祭神ですが、水の分配を司る神様で中央の中殿に祀られています。右殿には、天万栲幡千幡姫命・天津彦彦火瓊々杵命・玉依姫命を配祀し、左殿には、、高皇産霊神・少名彦神・御子神が配祀されています。

 神社の歴史については、ウィキペディアから引用させていただきます。

・・・創建については不詳である。当社に関する最も古い記録は、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)4月29日条で、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述である。 当神社は、元来は吉野山の最奥部、吉野町、黒滝村、川上村の境に位置する青根ヶ峰に位置したとされる。青根ヶ峰は吉野川の支流である音無川が東へ、喜佐谷川が北へ、秋野川が西へ流れるなどの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい。大同元年(806年)ごろに現在地へ遷座した。延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。前防家が社家。・・・

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引用を続けます。・・・平安時代中期ごろから「子守明神」と呼ばれるようになった。豊臣秀吉もこの地を訪れ秀頼を授かったといわれる。現在の社殿は慶長10年(1605年)に秀頼によって創建されたものである。作事の奉行を務めたのは豊臣家臣で尼崎郡代の建部光重。
神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ(子守権現)、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社に列格した。・・・

 もう一つ、本居宣長記念館のホームページからも、本殿の建物について引用させていただきます。

・・・ 慶長9年(1604)豊臣秀頼によって再興された本殿は、桁行9間、梁間2間の流造(ナガレヅクリ)の形式をとり、正面に千鳥破風を三つ並べる。檜皮葺。本来は中央に一間社隅木入春日造で、この両側に三間社流造が配置されていたのを、相の間を設けて連結し一つの屋根に納め、両側の流造に千鳥破風をつけた。だから、現在も各社殿ごとに別 々の茅負(カヤオイ)、木負(キオイ)、軒付をもっている。組物、虹梁、長押(ナゲシ)などに極彩色をほどこし、蟇股(カエルマタ)、木鼻などに桃山時代の特徴をよく表している。【国・重文】・・・

 本殿を初めとする神社全体の華やいだ雰囲気は、豊臣氏の遺産なのでしょうか。

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※気が付かれた方もおられるかも知れませんが、ウィキペディアからの引用と本居宣長記念館のホームページからの引用で、本殿の創建が1年違っていますが、それぞれ引用元の記載どおりです。
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 楼門の感じは、さほど大きくは感じませんが、門をくぐった途端の光景は、ちょっと感動するものがあります。

 うまくは言えませんが、何か狭い空間にビッチリと豪華なものが詰め込まれている感じ。豪華なものと云うのとも少し違うのですが、感じとしては、こんな所に、こんな立派なものがあっていいの(失礼な表現で済みません。)と云う感じです。
 楼門をくぐった先の、中庭の回りに本殿、拝殿、幣殿と隙間無く立ち並ぶ様は、まるで楼門の外の世界とは別の世界に迷い込んだような感じです。

 上の写真は、楼門から奥の幣殿を眺めた写真です。向って右が本殿、左が拝殿、突き当たりが幣殿です。

 前回も引用させていただいた本居宣長記念館のホームページからの引用です。

・・・ 鳥居を潜り石の階を上り楼門がある。中に入ると、南に本殿、西に楼門と回廊、北に懸造の拝殿、東に幣殿があり、本殿と拝殿は向かい合って建つ。
 境内地は決して広くない。その中にすべてがきれいに納まっている。神社と言えば、広々した感じの所が多いが、ここは箱庭に入ったような不思議な空間である。・・・

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 記念館のホームページでは、東西南北に建物を振り分けていますが、地図を見ると本殿と拝殿を結ぶ軸は、北東から北西で少しぶれています。ですから本殿は北東を正面として南西方向に建っています。
 もう一つ、北に懸造の拝殿とありますが、この写真からは全然判りませんが、左側の拝殿の背後は崖になって落ち込んでいて、石垣が組まれた上に立てられています。

 中段の二枚目の写真は、本殿ですがウィキペディアの説明では、

・・・本殿 - 正面の3箇所に破風があり、中央に春日造、左右に流造の三殿を横に繋げた形の特異な形式になる。・・・
 
と、いともあっさりと説明しています。

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 坂の向こうに赤い鳥居が見えて来ますと吉野水分神社は、もう直ぐです。
 下から上ってきた道は、鳥居を通って楼門をくぐり、本殿前に至ります。一方金峯神社から下ってくると、途中から鳥居の内側まで行ける脇道ができており、楽に楼門へたどり着けます。

 また、神社の説明をウィキペディアより引用させていただきます。

・・・吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町子守地区(吉野山上千本)にある神社。式内社で、旧社格は村社。
葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた。また、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。宣長の両親の子守明神への祈願により本居宣長が授けられたといわれている。
2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。・・・

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 ウィキペディアの説明にもあるとおり、本居宣長ゆかりの神社として、本居宣長記念館のホームページにも、かなり詳しい神社の説明が載っていましたので、一部引用させていただきます。

・・・ 奈良県吉野町吉野山。延喜式内社。「御子守の神」「子守明神」とも。「恩頼図」に、「御子守ノ神」と書かれる。宣長は、父定利が同社に祈誓した授かった子である(『日記』表紙裏)。このことを母から事ある毎に聞かされ育ったが、特別の信仰心が芽生えた時期は不明。『毎朝拝神式』制定の40歳頃からは毎日遙拝した。直接の参詣は、お礼参りの13歳、花見を兼ねた43歳、和歌山からの帰途の70歳の3度。参拝の感慨を述べた歌が『菅笠日記』(43歳)、「吉野百首」(70歳)に載る。

 同社は、名前の通り水を分けてくださる神である。昔は、「芳野水分峯神」として吉野山山頂青根ヶ峯(857.9m)に鎮まり、頂上から1km西北の山腹の字ヒロノに旧拝所があったといわれている。後に現在地に遷座した。
 本来、雨乞いの神(『続日本紀』)であった同社が子守の神となる過程を宣長は、ミクマリ→ミコモリ→コモリと推定する(「吉野の水分神社」『玉勝間』)。 ・・・

 一番上と、二番目の写真は、横道からの鳥居へのアプローチの写真です。下の写真は、楼門です。

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