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150410 上の写真は、中離宮の楽只軒の前庭ですが、奥に見えている建物は客殿です。楽只軒の前からの写真なので、写真の手前にある池の縁を回って右端に見える石橋を渡ります。 石橋を渡ると右に曲がり、その先の石段を登ると客殿の前庭に出ます。 上の写真を目をこらして見ると右端に見える石橋の先に石段がかろうじて見えています。もしもそのあたりに灯籠が見えたなら、生込灯籠と呼ばれる灯籠で、客殿の前庭にある灯籠です。 写真中央よりやや右寄りの池の畔の、白っぽい目立つ石がありますが、この石の脇に客殿の前庭を流れる遣り水からの水が、落ちてきて、池に注ぎこむ小さな滝が見えています。この写真のサイズでは判らないでしょうね。 2枚目の写真は、上の写真に見える石段を登ってきて客殿の前庭の入り口です。奥に見える建物は、もちろん客殿です。 手前に見える橋が渡されている流れが、遣り水です。 見ての通り、石組もあまりツンツンと立ててある石はなく、落ち着いた感じの穏やかなお庭です。 この辺りは、離宮内でも紅葉の美しさでは屈指の場所だそうです。 お庭の側から客殿の全景を捉えた写真はありませんが、取りあえずウィキペディアの説明を引用させていただきます。 ・・・客殿 - 楽只軒の南東に接して建つ。東福門院の女院御所の対面所を移築したものである。楽只軒より客殿の方が若干高い地盤上に建っており、楽只軒南東の板縁と客殿入側の間は矩折に位置する2つの階段で結ばれている。階段は楽只軒側が4段、客殿側が3段で、段差が一定の高さでない、特異な階段である。建物は入母屋造、杮葺とし、南面と西面に1間幅の入側(畳縁)があり、その周囲に板縁をめぐらす。西側の南が「一の間」、その東が「二の間」、その北が「三の間」で、一の間の北には仏間(御内仏の間)がある。・・・ と云うことは、下の写真は一の間と思われます。 |
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150410 中離宮にある二つの建物は、建てられている土地に高さの違いがあります。 客殿の方が高い敷地に建てられており、楽只軒の方が低い敷地に建てられています。そして上から見ると概ね方形の二つの建物は角で繋がっています。 それぞれの建物は、南西側に前庭を持っていますが、高い方にある客殿の前庭は、東側に滝口を設け、客殿の一の間の前を東から西へ遣り水を流し、庭の西端から楽只軒の前庭の池へ流れ込むように造られています。 上の写真と下の中段の写真は、楽只軒の建物です。参観は、建物の内部を外から覗き込むのですか、天候が悪くて薄暗いのと、部屋の天井が低めで室内は薄暗く、あまり良く見えませんでした。 楽只軒の前庭の印象は、周りを植栽に囲まれて少し鬱蒼とした感じのお庭です。開放感と言うよりは、深山幽谷に身を置いた感じ、大自然の奥に抱かれるような感じです。 引きこもるときには、気分が落ち着いて癒やされる感じで良いかもしれません。 このような感じは、楽只軒の前庭の東側が客殿の敷地を支える石垣になっていることも一因と思います。 楽只軒の前庭の池は、小さい池を繋いだような形をしていて、つなぎ目に島があったり、石橋が渡してあったりして二つの池に分けています。図面を見るとさらに下流に池があるようですが、参観経路から外れるので全く見えません。 客殿の前庭の遣り水から流れてきて流れ込む先は、一番楽只軒の建物に近い場所にある池ですので、流れる水音なども、楽只軒の中では楽しめたと思います。 |
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150410 上の写真は、中離宮の中門です。参観者は、いつもどおり脇にある参観者通用門から入場します。 中離宮には、楽只軒と客殿の建物があります。敷地は斜面になっており、低い方の敷地に楽只軒があり、高い方の敷地には客殿が建っていて、二つの建物は建物の角で繋がっています。 参観は、最初に楽只軒を回り、その後客殿を見学、最後に建物の背後を回って元の場所へ戻ります。 下の中段の写真は、楽只軒のお庭ですが、中央の背景に見える建物は客殿です。楽只軒は、画面左側になります。 楽只軒は、中離宮の前身である朱宮御所の一部で、寛文8年(1668年)頃の造営です。 それでは、楽只軒の説明をウィキペディアから引用させていただきます。 ・・・楽只軒 - 瓦葺、杮庇の建物。軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。ほぼ正方形平面で、南面と東面に板縁を設ける。主たる部屋は東側の「一の間」とその西、建物中心部に位置する二の間である。一の間は6畳で北側に床(とこ)を設け、床壁貼付と、その西の壁貼付の絵は狩野探信の「吉野山桜図」である。二の間は8畳で、西面南寄りの壁貼付絵は作者未詳の「竜田川紅葉図」である。一の間・二の間境の長押上の「楽只軒」の額は後水尾院の筆になる。一の間の南には3畳の入側、二の間の南には4畳の入側がある。このほか、建物の西側に5畳間と2畳間、北側に6畳間、5畳間、納戸(2畳)がある。・・・ 引用文の中で「杮庇」というのがありますが、調べましたが良く判りませんで、想像するに「こけら葺き」の庇のことかと思いますが、どうなんでしょう。 下の写真が、楽只軒ですが、確かに大屋根は瓦葺きですが、庇はこけら葺きのようです。 |
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150410 雨の降り続く松並木の御馬車道を、中離宮に向います。中離宮は、上離宮に向う途中から右へ曲がって突き当たりになりますが、下離宮の建っている土地よりは、高い場所にあります。 中離宮についての説明を、ウィキペディアから引用させていただきます。 ・・・後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていたが、上皇の離宮建設の意思を聞いて、奈良八島の地へ移っていた。朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められた。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。・・・ 一番上の写真は、中離宮の表門です。参観者の出入りは向って右側にある通用口から出入りをします。門を入ると広場が有り、幅の広い石段を左に右に折れながら上ると中門があります。 後水尾上皇の時代には、修学院離宮は、上離宮と下離宮だけで、中離宮のある場所は朱宮(あけのみや)御所がありました。御所とは言うものの随分と郊外にあるものだと驚きます。 中離宮は、後水尾上皇の死後、朱宮御所を林丘寺と改めて使っていたものが、明治になって御所の半分を宮内省に返還された時に、中離宮として整備し修学院離宮の一部となりました。 ところで、後水尾上皇は、万治2年(1659年)の離宮造営の一応の完成後、85歳で崩御されるまでの20年ほどは、ほとんど毎年一度〜三度修学院離宮に行幸され、そのたびに中離宮の前身である朱宮御所も訪れて、寛がれていったそうです。 田舎で暮らす娘の顔を見ていった訳ですね。それにしても随分な規模の修学院離宮を、年に一度〜三度しか訪れられなかったと云うのも、お気の毒な話です。 |
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150410 下離宮の寿月観の見学を終えると、元へは戻らずに、入ってきた西側の御幸門と反対側にある東門から、下離宮を退出します。 前に来た時は、東門を出ると眼前に田園風景と、その向こうに比叡山が見えていましたが、この天気ではさっぱり見えません。 下離宮から上離宮や中離宮の間には、水田などの耕作地が広がり、後水尾上皇が田園風景を愛でるべき風景の一つと考えていたことに驚きます。 そう言えば、桂離宮へ行ったときも、窓から見える田園風景を維持するために、周りの農地を買い上げ耕作を委託していましたが、同じようなことをここでもやっていました。 下離宮から中離宮や上離宮へは、松並木に囲まれた馬車道と呼ばれる道をたどります。 下離宮から馬車道を真っ直ぐたどれば、上離宮へ行きますし、途中から南へ分かれる馬車道を行けば突き当たりは、中離宮になります。 この松並木は、意外にも蓋らしく、明治になってから明治天皇の離宮行幸のために、それまでの田んぼの畦道だったものを、馬車が通れる幅の道に整備し、両脇に松を植えて松並木としたものです。江戸時代の皇族や天皇は、馬車には乗らなかったでしょうからね。 松並木の松は、2.5mにすべて剪定されていますが、やはり松の木が高くなりすぎると、この見晴らしが失われるのを厭っているのでしょうか。 それにしても、すべての松並木の松を剪定によって、同じ高さに切りそろえていくというのは、大変な手間だろうと素人ながら感心します。 京都の皇室関係のお庭は、本当に手間ひまを厭わず、一流の手が入り続けているお庭ばかりなので、できれば、できるだけ多くの人が見れると良いなと思います。 手間ひまの価値や長年培われた技術というものが、どんなものなのか確かめることができます。 |


