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150410 平等院の境内の中心を占める大きな池は、今まで「池」としか書いてきませんでしたが「阿字池」という名がついています。 デジタル大辞泉の解説によれば、 ・・・梵語(ぼんご)字母の第一。密教ではこの字に特殊な意義を認め、宇宙万有を含むと説く。・・・ とあります。 「阿」の字のもととなった梵字をかたどった池というのですが、ネットの検索結果で出てくる梵字の阿は、池の形と似ても似つかないものです。つまり人差し指を立てて、指さしている形には見えません。 崩して書く書体があるのでしょうか。形だけを言えば、短い柄のついたひしゃくをむ想像していただいても良いかと思います。 庭の造りとしてみますと、鳳凰堂の対岸である東岸は、大きく池にせり出して、広場のようになっています。 このせり出した出島丈状の広場が鳳凰堂の正面を外し、やや南側に大きくせり出しています。 見方によっては、人差し指の部分、ひしゃくの柄の部分が水路状になって見えます。 下の写真が、人差し指の先から見た景色になりますが、こちらからの絵は水路の向こうに見える鳳凰堂です。 この水路は、どこから来た水路なのでしょう。現世を旅立って長い旅の末に、彼方に見える極楽浄土の堂宇が見えたという絵なのでしょうか。 鳳凰堂の対岸の広場には、かって「小御所」と呼ばれる建物が建てられていて、池に浮かぶ鳳凰堂の姿を眺めるための建物だったようです。 |
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150410 9時25分になると、池の北岸の橋の渡り口の所に、9時30分からの鳳凰堂の拝観予定者が集まってきます。50人というと大勢のようですが、実際集まってみればそれ程でもありません。 案内係りのお姉さんから、拝観の注意があって、引率されながら、島へと橋を渡ります。 北へ向って延びる翼廊の下で、靴を脱いでいよいよ中央の阿弥陀堂へ入ります。 入ると堂内には、ご本尊の阿弥陀如来座像が中央に高々と鎮座されていて、脇侍仏などは無く、壁に掛かっている雲中供養菩薩像を別にすれば、他の仏像はありません。まるで阿弥陀堂が阿弥陀如来座像の厨子のような感じです。 ご本尊の説明は、お寺の公式ホームページからの引用です。 ・・・阿弥陀如来坐像 像高277.2cm 髪際高242.3cm 木造、漆箔 鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像は、日本の仏像作家を代表する仏師定朝によって平安時代後期、天喜元年(1053)に造られたものです。その構造技法は日本独自の寄木造りの完成した技法を示します。また表現の上でも日本独自の様式、いわゆる和様の完成を見せる点がたいへんに重要です。 頬がまるく張った円満な顔。伏目がちですが意外に大きな眼は拝む者を静かに見つめ、その表情はかぎりないやさしさにあふれています。胸をひいて背をわずかにまるめた姿勢には無理がなく、いかにも自然で、どこにも硬い緊張感がありません。・・・ マイベスト仏様の一つですが、一言で言えば端正なお顔立ちの、きれいな仏様です。 堂内では、案内のお姉さんの一通りの説明があり、説明後は20分間の制限時間まで、自由に拝観できます。 |
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150410 降りしきる雨の中を、鳳凰堂の内部の拝観時間までの間、池の周りを回りながら、鳳凰堂の姿を写真に収めました。 眺めれば眺めるほど、これが好天気だったらと思わずにはいられません。 撮れた写真をよく見ると、雨の短い線が画面全体に写り込んでいて、腹立たしいやら、悲しいやらで、何とも言えない気分です。 平等院の境内は、東側に隣接して宇治川が流れていて、東側の垣の外は、堤防になっています。敷地の中央には大きな池があり、池の西側よりに島が造られ、その上に鳳凰堂が建っています。 池の形は、太い指の人が、右手で拳を握って、人差し指だけを立てた形です。立てた人差し指は南東を指していて、鳳凰堂の建つ島は、ちょうど生命線に当たるあたりの西よりにあります。 敷地の北側には、観音堂が建っており、鳳凰堂の背後の西側には、平等院を管理する、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院があります。 境内の南側は、少し土地が高くなっていて、平等院ミュージアムの鳳翔館が建っています。 鳳凰堂の建つ島へは、島の南北の岸から橋が架かっていて、渡れるようになっています。 特に北側の橋は、途中に小島を経由して二つの橋を使って島へ入るようになっており、鳳凰堂に近い方の橋は、少しですが反りがついています。 一方南側の橋は、島が南岸とほとんど離れておらず、しかも水があまり無いので、小さな橋が直接南岸から島へ架けられていますが、こちらは拝観者用には使われておりません。 島への出入りは、北側の橋だけが使用されていました。 今回は、鳳凰堂の写真ばかりですが、下の写真などご本尊のお姿もわずかに写ってはいます。 |
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150410 平等院は、山号は朝日山で、17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在では特定の宗派に属さない単立のお寺です。まずは、創建の由来をウィキペディアから引用します。 ・・・京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。・・・ 少し判り辛い説明でしょうか。それでは、平等院の公式ホームページからも引用させていただきましょう。 ・・・永承7年(1052)、時の関白藤原頼通が、父 道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院としました。この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。・・・ さっぱりしたものですね。 写真は、一番上と、二番目が境内の北側にある観音堂で、下は言う迄も無い鳳凰堂です。 |
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150410 いよいよ旅の最終日です。最終日の行程は、平等院と修学院離宮です。天候は、2日目と同じ雨。 2日目より悪いことに、午後になっても回復の予定がありません。 朝のうちに、すでに役目を終えて不要になった荷物や、昨日までに買い込んだお土産を段ボールに詰めて宅配便で自宅へ送り出して、身軽な装備で帰途につきます。 JR奈良駅から京都行きの電車で、宇治駅へ。雨の中を平等院まで、まだあまりお店の開いていない商店街を、連れと一緒に歩きます。 ご存知の方も多いと思いますが、平等院は入場しても、鳳凰堂の拝観は、20分ごとに50人ずつの人数制限があるため、別に申し込まなければなりません。のんびりしていると、20分単位で、鳳凰堂の拝観予定が先に延びていきます。 と言うわけで、9時前には平等院の受付を通り、そのまま鳳凰堂の拝観券を求めて行列し、予定どおりに、朝一番の9時半からの50人に入ることができました。 今回の写真は、いきなり雨の鳳凰堂です。こんな小さい写真からでも、雨がけっこう降っているのが良く判ります。 晴れていれば、宇治の駅から撮りはじめ、途中の商店街の町並みや、宇治橋、宇治川の岸辺の様子などを撮りながら、おもむろに平等院の写真となるのですが、片手に傘を抱えて、片手でカメラを構えて撮るわけですから、ぶれるのは当たり前、運が良ければ幾分ぶれの少ない写真も混ざるという状態でした。 鳳凰堂は、平成24年(2012年)9月から平成26年(2014年)3月まで屋根の葺き替えや柱などを塗り直す修理が行われました。そのため建物の朱の色もひときわ鮮やかです。 これらの写真を撮ったのが、鳳凰堂の入場券を確保して、9時10分頃です。拝観の集合時間の9時半まで、鳳凰堂の周りを一回りしてきます。 |


