|
150407 いよいよ二月堂の南参道を上り始めます。参道の左手(北側)には、屋根のかかった登廊が見えています。 登廊は、修二会の時には、参籠所と行方を行う本堂の往復に使われ、火の付いた大松明もこの屋根の下を担ぎ上げます。 画面左端に見えている建物は、修二会の行を行う練行衆と呼ばれる僧たちが行の期間中、食事を取る食堂(じきどう)と呼ばれる建物です。この建物は登廊から繋がる通路を隔てて練行衆が寝起きする参籠所と屋根続きで繋がっています。 少し石段を登っていくと見える景色が、下の2枚の写真です。 中段の写真は、石段の北側ですが、左から閼伽井屋が見えて、食堂が見えて、一番右が興成神社です。 興成神社については、「神社フリーク」というホームページから引用させていただきます。 ・・・ 修二会において、最初と最後にお参りされる三社、興成神社・飯道神社・遠敷神社。こちらの三社は二月堂練行の神社で、三社とも実忠和尚の勧請と伝える。飯道・遠敷・興成の三社はいずれも二月堂鎮守神である。・・・ ・・・ 二月堂のすぐ下に鎮座する。お水取りのおたいまつには、上から火の粉をあびるようなところにあり、近くに若い世代の良弁杉がある。祭神は豊玉媛命で、玉依姫命は御妹で海神といわれる。二月堂練行の神社で、一説に東大寺八興社の一社とされている。・・・ 石段を、かなり上った所で撮ったのが、下の写真です。御覧の様に石段の両側には、寄進をした人の名前と金額が彫られた碑がズラリと並んでいます。 かなり古い物もあれば、比較的新しい物までいろいろあります。 一方、遠くに見える景色では、四月堂やその隣にある開山堂の屋根などが見えています。さらに遠くには大仏殿の大きな屋根も木々の間から覗いています。 |
過去の投稿月別表示
[ リスト | 詳細 ]
|
150407 東大寺の起源は、若草山山麓に創建された金鐘寺であると東大寺の記録である「東大寺要録」は伝えています。 先にご紹介した法華堂(三月堂)は、金鍾寺の遺構と言われていますが、東大寺境内の東側には、二月堂を中心として、法華堂、四月堂、開山堂、さらには手向山八幡宮などが並んでいます。このあたりは、かっての金鍾寺の境内だった場所です。 上の写真は、法華堂の西側からの写真です。中心に見える高台に建つ建物が二月堂です。二月堂の建物の前面は舞台造りになっていて、春に行われるお水取りの際は、舞台上に大松明が並びます。 2月3月の寒い時期の行事ですから、私が実際に目にすることはありませんが、テレビニュースなどで放映されているのを見ると盛大なものだと感心させられます。 二月堂の前に立っているクリスマスツリーみたいな大きな木は、良弁杉で、東大寺の初代別当である良弁上人にまつわる伝説のある杉の木ですが、現在の物は三代目だそうです。 写真の右端に少し見えている建物は、法華堂です。 このあと、二月堂の舞台からの写真を何回か後に載せる予定ですが、それを見ていただくと開山堂や四月堂の建物の配置がよく分ると思います。建物の説明もその時まとめていたしますので、本日はスルー。 中段の写真は、開山堂の門から覗き込んで撮った写真です。奥に屋根が見えているのが開山堂ですが、入口の所に二月堂の俗にお水取りと言われる修二会の時に使われる大松明の燃えがらが飾ってありました。 開山堂自体は、普段は公開されていません。毎年12月16日の良弁忌に法要後、安置されている良弁上人座像とともに内部も公開されます。 下の写真は、閼伽井屋です。この中にお水取りの時に水をくみ上げる若狭井戸があります。この建物は二月堂の南参道の石段を下った北側に建っています。 |
|
150407 念仏堂の南側に法華堂や、二月堂に続く参道があり、東へ向かいやがて石段を登ると法華堂の脇へ出ます。 法華堂は、別名三月堂とも呼ばれ、東大寺創建以前に若草山山麓に創建された「金鍾寺」の遺構とされています。 東大寺の記録である「東大寺要録」によれば、金鍾寺は東大寺の起源であるとされています。 法華堂についての東大寺の公式ホームページからの引用です。 ・・・東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。 もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。・・・ 近年、法華堂は改修工事などで、内部を拝観できませんでしたが、平成25年5月から拝観を再開しました。 ただし、以前、堂内に安置されていた日光・月光菩薩、弁財天、吉祥天、地蔵菩薩、不動明王の六体は、新しくできた東大寺ミュージアムの方に移動して安置されました。 現在安置されている仏様は、本尊の不空羂索観音菩薩、梵天、帝釈天、金剛力士(阿吽)、四天王、執金剛紳(秘仏)です。 以前は、内陣へ入ると目の前に仏様達がギッシリと立ち並んでいた雰囲気でしたが、現在の感じはスッキリと間が取れて、収まりの良い感じとなりました。 本来の法華堂に安置されていた仏様だけを残したと言うことなのでしょうか。 |
|
150407 上の写真は、念仏堂です。大鐘を吊す鐘楼のある広場の東側、鐘楼の真東にあります。こちらの説明は、念仏堂の扉に掲示されていた説明書きからの引用です。 ・・・念仏堂(重要文化財) 寄棟造の念仏堂は、もとは地蔵堂と言われ、鎌倉時代の建物であるが、屋根は江戸時代に改修されたものという。堂内に安置された本尊 地蔵菩薩は、仏師康清が嘉禎三年(一二三七)に造仏したもので、重要文化財に指定されている。 毎月五日と春秋2回の彼岸に法要があり、毎年八月十一日には戦没者慰霊法要が営まれている。・・・ 念仏堂の北隣には、こじんまりとした行基堂があります。中には、寄棟造の屋根を持つ御厨子が安置されていて、御厨子の中には、公慶上人の発願で行基菩薩座像が安置されています。 行基菩薩座像が、安置される以前は、現在は俊乗堂に安置されている、重源上人(俊乗坊重源)座像が安置されていたらしく、俊乗堂が建つまでは、俊乗堂として使われていたという説もあるそうです。 下の写真は、北側から見た鐘楼です。どうも写真の修整がうまくいかなくて左に傾いだような感じに撮れてしまいましたが、当然のことながら実際には、きちんと直立してますので安心してください。 いつもこの鐘楼の写真をブログに載せるとき、この建物の空へ向かって飛び立たんばかりの姿に感動します。 こんなにも空へ飛び立とうとしている建物は、他にはないのではないかと思います。やはり屋根の反りがただ事でないからだと思っていますが、よく見ると柱や梁の木組みの見事さにもほれぼれします。 もっとも、26トンの大鐘を吊して支えるためには、これ位の骨太でないと持たないのでしょう。 この建物、26トンの大鐘を吊していながら、どこへ飛んでいこうと言うのでしょうか。 |
|
150407 この鐘楼と大鐘については、東大寺のホームページから引用させていただきます。 まずは、大鐘について ・・・東大寺の梵鐘は、総高3.86m、口径2.71m、重量26.3tあり、撞木はケヤキ造りで、長さ4.48m、直径30cm、重さ180kg、金具を入れると約200kgもある。 大きな釣鐘であるところから古来東大寺では大鐘(おおがね)と呼んでいる。・・・ 大鐘は、他にも「奈良次郎」と呼ばれ、「東大寺鐘」 は南都八景の一つです。 続いて、鐘楼についての説明の引用です。 ・・・この大鐘をつっている鐘楼は、俊乗堂と念仏堂にはさまれた鐘楼ヶ丘と呼ばれる場所に建っているが、現在の建物は、重源上人のあとを継いで東大寺の大勧進となられた栄西(ようさい)禅師が鎌倉時代(承元年間・1207〜10)に再建したもの。大鐘は天平勝宝4年(752年)に鋳造されたといわれているが、その後、延久2年(1070)10月と永長元年(1096)10月に地震のため墜落し、又延応元年(1239年)6月には龍頭が切れて転落したが、すぐに修理されたことが修理銘によって知られている。・・・ 現在の鐘楼は、東大寺の鎌倉再建の事業として復興されました。 この鐘楼は、和様をベースに、同じ鎌倉再建の時に復興された南大門に取り入れられた俊乗房重源が中国・宋から伝えた建築様式、大仏様(だいぶつよう)と、宋から輸入した最新の建築技術を組み合わせ、26トンあまりの大鐘の重量に耐える構造を実現しました。 26トンと言えば、ダンプカーとかトレーラーの重さです。これ以前の鐘楼が地震のたびに被害を出していたというのも頷ける話です。 下の写真は、鎌倉再建の総責任者である大勧進を務めた俊乗房重源を祀る「俊乗堂」で、江戸時代のものです。 鐘楼の北西側に、南向きに建っています。 |



