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150409 楼門の感じは、さほど大きくは感じませんが、門をくぐった途端の光景は、ちょっと感動するものがあります。 うまくは言えませんが、何か狭い空間にビッチリと豪華なものが詰め込まれている感じ。豪華なものと云うのとも少し違うのですが、感じとしては、こんな所に、こんな立派なものがあっていいの(失礼な表現で済みません。)と云う感じです。 楼門をくぐった先の、中庭の回りに本殿、拝殿、幣殿と隙間無く立ち並ぶ様は、まるで楼門の外の世界とは別の世界に迷い込んだような感じです。 上の写真は、楼門から奥の幣殿を眺めた写真です。向って右が本殿、左が拝殿、突き当たりが幣殿です。 前回も引用させていただいた本居宣長記念館のホームページからの引用です。 ・・・ 鳥居を潜り石の階を上り楼門がある。中に入ると、南に本殿、西に楼門と回廊、北に懸造の拝殿、東に幣殿があり、本殿と拝殿は向かい合って建つ。 境内地は決して広くない。その中にすべてがきれいに納まっている。神社と言えば、広々した感じの所が多いが、ここは箱庭に入ったような不思議な空間である。・・・ 記念館のホームページでは、東西南北に建物を振り分けていますが、地図を見ると本殿と拝殿を結ぶ軸は、北東から北西で少しぶれています。ですから本殿は北東を正面として南西方向に建っています。 もう一つ、北に懸造の拝殿とありますが、この写真からは全然判りませんが、左側の拝殿の背後は崖になって落ち込んでいて、石垣が組まれた上に立てられています。 中段の二枚目の写真は、本殿ですがウィキペディアの説明では、 ・・・本殿 - 正面の3箇所に破風があり、中央に春日造、左右に流造の三殿を横に繋げた形の特異な形式になる。・・・ と、いともあっさりと説明しています。 |
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150409 坂の向こうに赤い鳥居が見えて来ますと吉野水分神社は、もう直ぐです。 下から上ってきた道は、鳥居を通って楼門をくぐり、本殿前に至ります。一方金峯神社から下ってくると、途中から鳥居の内側まで行ける脇道ができており、楽に楼門へたどり着けます。 また、神社の説明をウィキペディアより引用させていただきます。 ・・・吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町子守地区(吉野山上千本)にある神社。式内社で、旧社格は村社。 葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた。また、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。宣長の両親の子守明神への祈願により本居宣長が授けられたといわれている。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。・・・ ウィキペディアの説明にもあるとおり、本居宣長ゆかりの神社として、本居宣長記念館のホームページにも、かなり詳しい神社の説明が載っていましたので、一部引用させていただきます。 ・・・ 奈良県吉野町吉野山。延喜式内社。「御子守の神」「子守明神」とも。「恩頼図」に、「御子守ノ神」と書かれる。宣長は、父定利が同社に祈誓した授かった子である(『日記』表紙裏)。このことを母から事ある毎に聞かされ育ったが、特別の信仰心が芽生えた時期は不明。『毎朝拝神式』制定の40歳頃からは毎日遙拝した。直接の参詣は、お礼参りの13歳、花見を兼ねた43歳、和歌山からの帰途の70歳の3度。参拝の感慨を述べた歌が『菅笠日記』(43歳)、「吉野百首」(70歳)に載る。 同社は、名前の通り水を分けてくださる神である。昔は、「芳野水分峯神」として吉野山山頂青根ヶ峯(857.9m)に鎮まり、頂上から1km西北の山腹の字ヒロノに旧拝所があったといわれている。後に現在地に遷座した。 本来、雨乞いの神(『続日本紀』)であった同社が子守の神となる過程を宣長は、ミクマリ→ミコモリ→コモリと推定する(「吉野の水分神社」『玉勝間』)。 ・・・ 一番上と、二番目の写真は、横道からの鳥居へのアプローチの写真です。下の写真は、楼門です。 |
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150409 金峯神社からの下り道は、緩く下ったり、平らな道が続いたり、また緩く下ったりと、道幅が車道で比較的ゆったりとしているせいもあって、のんびりと歩けます。 やはり上りよりは下りが楽などと当たり前のことを考えながら、取りあえずの目的地「吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)」を目指します。 お不動様が祀られた閼伽井を過ぎていくらも行かないうちに、左側に何か史跡のような場所が見えて来ました。 牛頭天王社跡の碑や、環境省と奈良県による説明掲示がありました。引用させていただきます。 ・・・牛頭天王社跡 牛頭天王とは、釈迦の説法道場である。祇園精舎の守護神であったと伝えられ日本では素戔嗚尊(すさのおのみこと)のことであるとされています。 この地の上方、高城山にあったツツジが城の鎮守として創立され厚い信仰をあつめていましたが明治初年の神仏分離により廃絶されました。・・・ 中段の写真は、さらに下って橋も何もない場所に「吉野三橋の一 丈之橋跡」と彫られた碑が立っています。 通っていく人もほとんど気が付かないようです。 そこで吉野三橋とはなんぞやとなりますが、吉野町のホームページに現存する他の二橋の説明が載っていましたので引用させていただきます。 ・・・大塔宮が吉野に蜂起されたとき、三空堀に見たてられた谷にかかる大橋・天王橋・丈の橋を吉野三橋といいます。 大橋は七曲り坂を登りきった攻が辻のすぐ上手にある、朱塗りの欄干の橋。天王橋は竹林院近くの小さな橋です。 丈の橋は残っていません。大橋を渡ったあたりから、門前町の風情ある町並みが広がります。・・・ 丈之橋は、水分神社附近にあったとされていますので、最初の目的地 水分神社は直ぐそこです。 下の写真では、左側のカーブを曲がれば、水分神社の鳥居が見えます。 |
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150409 義経隠れ堂を見学したら、一般的には神社の脇を上っていく大峯奥駈道を登り、途中から道を分かれて「西行庵」を巡るのが一般的なコースですが、そちらは普通の山道ですので今回はパス。 来るときはバスを利用した奥千本口から、帰りはひたすら徒歩で下ります。徒歩で下る車道は、来るときのバスが通った道とはまた違います。 上の写真は、奥千本入り口のバス停のあたりです。幸い天気は、薄曇りから時折日射しも見える位です。地元の人からお聞きしたら、この年の吉野は天気が悪い日が続き、久しぶりの降らない日なのだとか。 ここから、ゆるーい車道をゆっくりと歩いて下ります。時折上ってくる自家用車もありますが、台数は少ないです。 歩き始めのあたりは、緩い下りどころか、平らな部分も多く、みんなぞろぞろと歩いて下っています。 道の両側の眺めはほとんど効きませんが、途中少し東側の展望が開ける場所があり、そこから道が分岐して展望台へ向っていました。もちろん私らは、ひたすら下ります。 下って行く途中で、道の右側に不動明王が祀られていました。側に碑があり「正須行人 閼伽井」と彫られていました。閼伽井ですから、仏にお供えする水を汲む井戸です。 ここのことをネットで調べているときに、ここのお不動様が大変強力な(強い)お不動様である旨を書かれているホームページがありました。感じることが出来る人は、またこの道もまったく別の印象なのかも知れません。 この前の年(2014年4月)一人で、初めてこの道を下りました。その時の印象は、下り初めは道幅も広く、勾配も緩やかですが、下るにつれて特に人家が建っているあたりになると、道幅は狭くなるは、坂の勾配は急になるはで、中々大変でした。 そこら辺は、初めて下る連れ合いは、知らぬが仏で取りあえず楽な行程で安心しきっている模様です。まあ「今のうちだけだからな。」と心の中でつぶやく私でした。 |
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150409 金峯神社の見所としては、拝殿の他に、義経隠れ塔があります。拝殿の前から西に向って少し下った場所に建つ隠れ塔ですが、塔と言うよりは、隠れ堂と言った方が良い感じです。 今回の写真は、3枚とも隠れ塔です。それでは、説明をウィキペディアから引用させていただきます。 ・・・義経隠れ塔 金峯神社脇の小径を下った場所に建つ宝形造・檜皮葺きの簡素な塔である。追っ手に囲まれた源義経が屋根を蹴破って逃げたといわれ、「蹴抜の塔(けのけのとう)」とも呼ばれる。現在のものは大正初年に再建されたもの。・・・ もう一つ、拝殿の階段下に掲示してあった説明書き「金峯神社と隠れ塔」から引用させていただきます。 ・・・前略 左の小道を下ったところにある建物は、隠れ堂といって、ここは大峯修行場の一つで、この塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になります。そこで神官の先導に従って 吉野なる深山の奥の隠れ塔 本来空のすみかなり と唱えながら境内を巡ります。 文治元年(二八五)十一月 源義経がこの塔に隠れ、追っ手から逃れるため屋根を蹴破って外へ出たため、「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」ともいわれています。・・・ 私は、やはり塔ではなく、堂に見えます。また、修行の際に修行者が真っ暗な建物の中に入り、そこから神官の先導に従って境内を巡るとあります。塔内を巡るというのが正しいのではないでしょうか。 建っている敷地を見ると、過去に建てられていた建物が現在の建物と比べて極端に巨大だったとは考えにくいと思います。ただ、何層かの文字通りの塔だった可能性はあります。 すると、修行者は堂内に入ると扉を閉められ真っ暗になった塔内を、上の層まで神官に手を引かれて巡ったのではないでしょうか。 本当のところは、何とも言いかねますが・・・・・。 隠れ塔の正面は、西側。下の写真で建物の右側の背後には、神社から下ってくる道が見えています。 |


