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150409 御祭神は、天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)が主祭神ですが、水の分配を司る神様で中央の中殿に祀られています。右殿には、天万栲幡千幡姫命・天津彦彦火瓊々杵命・玉依姫命を配祀し、左殿には、、高皇産霊神・少名彦神・御子神が配祀されています。 神社の歴史については、ウィキペディアから引用させていただきます。 ・・・創建については不詳である。当社に関する最も古い記録は、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)4月29日条で、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述である。 当神社は、元来は吉野山の最奥部、吉野町、黒滝村、川上村の境に位置する青根ヶ峰に位置したとされる。青根ヶ峰は吉野川の支流である音無川が東へ、喜佐谷川が北へ、秋野川が西へ流れるなどの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい。大同元年(806年)ごろに現在地へ遷座した。延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。前防家が社家。・・・ 引用を続けます。・・・平安時代中期ごろから「子守明神」と呼ばれるようになった。豊臣秀吉もこの地を訪れ秀頼を授かったといわれる。現在の社殿は慶長10年(1605年)に秀頼によって創建されたものである。作事の奉行を務めたのは豊臣家臣で尼崎郡代の建部光重。 神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ(子守権現)、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社に列格した。・・・ もう一つ、本居宣長記念館のホームページからも、本殿の建物について引用させていただきます。 ・・・ 慶長9年(1604)豊臣秀頼によって再興された本殿は、桁行9間、梁間2間の流造(ナガレヅクリ)の形式をとり、正面に千鳥破風を三つ並べる。檜皮葺。本来は中央に一間社隅木入春日造で、この両側に三間社流造が配置されていたのを、相の間を設けて連結し一つの屋根に納め、両側の流造に千鳥破風をつけた。だから、現在も各社殿ごとに別 々の茅負(カヤオイ)、木負(キオイ)、軒付をもっている。組物、虹梁、長押(ナゲシ)などに極彩色をほどこし、蟇股(カエルマタ)、木鼻などに桃山時代の特徴をよく表している。【国・重文】・・・ 本殿を初めとする神社全体の華やいだ雰囲気は、豊臣氏の遺産なのでしょうか。 ※気が付かれた方もおられるかも知れませんが、ウィキペディアからの引用と本居宣長記念館のホームページからの引用で、本殿の創建が1年違っていますが、それぞれ引用元の記載どおりです。 |
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2016年06月01日
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