労働と豊かさ

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 13日、まだお屠蘇気分が抜けない頃、福岡・中間市の住宅で、1人暮らしの86歳の老人が殺害されているのが見つかった。この事件で、警察は、近くに住む61歳の男を逮捕した。

 2人は飲み仲間であり、男は以前からこの老人の自宅に出入りしていた。男は、警察の問いに、「もめたので刃物で刺した。凶器は捨てた」などと容疑を認めたという。

 まだ供述では、犯行の動機が、酒に酔って人がわりしてのことか、金銭トラブルのせいか、それとも他の理由か、あいまいであるという。

 私は、この事件に格別な興味をもったわけではない。ただ「老人による老人の殺害事件」であり、容疑者が61歳という、比較的私の年齢に近いことに気がひかれたのである。

 もしも動機が金銭トラブルならば、ブログで私の述べている「お金による人間の支配」という事実に1ページがつけ加わるにすぎない。

 あるいは、かっとなってのことかも知れない。私は、「老人による老人の殺害事件」ということで、少し自分に引きつけて「老いるということの意味」について普段考えていることを述べたい
 自分の経験から、私は、老いるということは、経験を積んで、人格が磨かれるプロセスではないと思う。

 昔ならば、家族共同体の中で、老人は自分の人生経験に基づき、家族に「人生の知恵」を伝える重要な役割を果たしていた。しかし、核家族化が進んだ今、そうはいかない。むしろ、今は、財政負担の対象としてしか見られない場合もある。

 だからこそ、私は、スウェーデンのように、老人ホームを廃止し、その代わりに、政府による手厚い福祉・医療のもとに「老後の自立的な人生」をサポートする政策に魅力を感ずるのである。

 (こう書いた時、私は、病院に入院中、かつて「トラック野郎」であった男が、退院後「特別養護老人ホーム」に入所が決まったと、うれしそうに話していたのを思い出した。彼は、睡眠時間もあまり取れず走りまわる、事故と背中あわせの「トラック野郎」の実態を語っていた。)

 私は、自分が老いるということを、まず思うように体が動かなくなる、心と体が一致しなくなるという「身体の老化現象」で気づいた。

 続いて、忘れっぽくなるとか、1度に多くのことに対処できないとか、集中力を欠くようになったという、「精神の老化現象」に悩んだ。

 その中で、私は、老いるということは、経験を積んで、人格が磨かれることではないなと思うようになった。

 研究を積み、教養を深めたとしても即人格が磨かれるわけではない。そうならば、大学の教授会は人格者の集まり、という浮世離れした光景になってしまう。

 私は、老いて、気が短くなったり、人の言うことを聞かなくなったり、頑固になったりすることもあると思う。

 だから、私は、自分について、常にこうしようと思っている。

 目指すのは人格者ではない。人の良い、気持ちの優しい、人の話をよく聞く老人である。社会にとって少しでも役立つ老人になることである。また、悩みをかかえながらも、自立的に生きていく老人である。

 これは、目標である。私は、実際は、結構短期で気が難しかったりする。

 上のように考えたのは、脳梗塞に陥り、人のあたたかさを知って、人のつながりを大切にしたいと一層思うようになったからである。今まで研究三昧で、自分のことしか考えなかった自分を改め、友人をつくり、友人を大切にしたい。

 ちょっと、年寄りくさい文章になりましたね。本当は、永遠の青年を目指さなければならないというのに。


 このブログでも度々言及し、また利用してきたが、私の本『日本を貧しくしないための経済学―ほんとうにだいじなお金の話』(ナカニシヤ出版、2015年)では、アベノミクスによる大企業・金持ち優遇の社会、ひいては日本の格差社会に対して、私は次のような提言をおこなった。


   わたしの答えは、福祉・社会保障にもっと比重を置くように財政の仕組みを変えつつ、「資本の論理」に「人間の論理」(人権、生存権、労働権)を対置する「日本型福祉国家」をとりあえず築くことである。福祉国家の利点は、次のことにある。


国民にとって確かに税負担は重くなるが、その代わり、大学を含めた教育、医療は無料となる。高い教育負担、医療負担に悩む日本の家庭にとって、この利点は大きい。また、教育の機会均等が実現し、どの子供にも、その努力と能力に応じて働く将来の機会が与えられる。社会的弱者も安心して暮らし、高齢者も老後の第二の人生を楽しむことができる。


企業には「社会的責任」を果たすために応分おうぶんな負担が求められる。しかし、他方で、教育・福祉・社会保障の充実は、企業にたいして良質な人材と労働力の確保を保障する。また、健康・スポーツ、余暇関連で新たなビジネス・チャンスを与える。さらに、個人消費の拡大による国内市場の充実は、企業にとってその利点が大きい。


「日本型福祉国家」は、以上のような利点を生かしながら、国際的な経済競争力のある福祉国家を目標とする。


 私の本では、「日本型福祉国家」については、「あえて抽象的なことを言うのにとどめ」た。みなさんに自分の頭でまずは考えてもらうためである。


 ここでは、福祉国家が怠け者を利するだけだとか経済を停滞させるという「俗説」を批判することをこころがけた。この「俗説」がいかに誤っているかは、スウェーデンの経験が示している。


 私は、来年度の講義で、「日本対ヨーロッパ諸国の経済体制の比較」を通して、このことを具体的に論ずるつもりである。高齢化社会にもかかわらず、日本の社会保障支出は著しく抑制されていて、アメリカよりは多いが、ヨーロッパの福祉国家に比べてかなり低い。
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     厚生省の政策レポート「社会保障の給付と負担の現状と国際比較」より



「安保法」反対闘争で若者が立ち上がった。テレビのニュースでも、国会周辺の集会に集まった若者の熱気が伝えられた。

今度は、最低賃金1500円の要求する学生らの市民団体(AEQUITAS)のデモがなされた。一昨日の1213日のデモには、雨の中、約500人が参加したとのこと。

今年の11月に安倍首相は、「一億総活躍社会」の一環として、最低賃金の1000円への引き上げを要求した。しかし、すぐに引き上げがなされるのではない。毎年3%ずつの引き上げによって、平成35年度に1000円を達成するという内容だ。

今年の最低賃金が全国平均798円だとして、来年度に3%の賃上げがなされれば、最低賃金は24年増の822円となる。

この安倍構想に対して、最低賃金1500円の要求を掲げて学生らの市民団体が立ち上がったのである。

                                     レイバーネットより
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今日のYahoo!ニュースで、毎日新聞はこう伝えている。

「『父は寝たきりで祖母も高齢。高校時代、家族で唯一働ける僕のバイト代は時給850円だった』。非正規雇用が労働者の4割を占める中、そうした人々の生活に直結する最低賃金を現在の平均798円から全国一律で1500円に引き上げるよう求めるデモが13日、東京・新宿であった。中心メンバーで法政大4年の岩井佑樹さん(22)は、アルバイトで家族の生計を支え一時は進学も諦めかけた体験から、活動を続けている。


 岩井さんが中学生の時、契約社員だった父が持病の悪化で失職した。しばらく家計を支えた母も疲れ果て、高校2年の春に家を出た。

 同居の祖母が預金などから授業料を出してくれ中退は免れたが、父と祖母の年金では生活費と大学進学の費用を賄うことはできない。『貧困って、こんな普通になってしまうんだ』と衝撃を受けた。父の介護の傍らコンビニ店でアルバイトを始めた。」(1214()227分配信)

林田七恵の記事である。いい記事だから、少々長く引用した。最低賃金1500円は、結構野心的な要求である。

参考までに現行の他の先進国の最低賃金を述べると、1000円から1300円くらいの範囲だろう(時給は、ドイツで8.5ユーロ―、アメリカの連邦で7.25ドル、フランスで9.4ユーロ)。

しかし、問題は、毎日新聞の記事が伝えているように「非正規雇用が労働者の4割を占める」中で生活を支える者の収入が低い点だ。これは、格差社会とかワーキングプアの問題だろう。毎日新聞の別のニュースでは、こう述べられる。

「今年10月に改定された最低賃金(平均798円)は、フルタイム(1日8時間、週40時間、年間52週労働)で年収に換算すると約166万円で、働いても生活が苦しい『ワーキングプア』の指標とされる年収200万円を下回る。」(毎日新聞201512121022分)。

 だから、我々は、非正規雇用、格差社会、ワーキングプアの問題の一環として、最低賃金の問題を考えるべきだ。生計を支える賃金は、少なくてもまともな生活ができるものでなければならない。

 その意味で学生らの市民団体の、最低賃金1500円の要求は決して不当に高いとはいえず、他の先進諸国の最低賃金引上げ運動に合流するものだろう。







 ブラックバイトの問題と並んで「オワハラ」が社会問題化してきました。私も102日のブログ「ああ就活――その繰り下げの果てに」で、次のように簡単にこれに言及しました。

 「『オワハラ』という言葉が、ハラスメント用語に付け加えられた。つまり、企業から、内定学生に他社への就活を終わらせろと圧力をかける嫌がらせである。あちらこちらからその生々しい実例が聞こえてくる。」

 これに対して、昨日の1123日に、BBさんから次のようなコメントがありました。

  「昨今のオワハラ問題の記事は、取材不足の典型記事です。記者には出稿ノルマがあります。記事数をこなさないと異動希望や昇進にひびくのです。インターネットのコピペ取材が横行する原因になっています。ちょっと考えればわかるのですが、企業が学生に内定を言い渡すとき『内定だしますから必ずわが社への就職意思を決めてください』ということの何が問題なのでしょう。こんなものハラスメントでもなんでもありません。昔から普通にあることです。「オワハラ」という安易な新造語に疑問をもたない若手記者が軽く乗っかっているだけです。若手記者は雑務や宿直などのローテ勤務に忙殺されて、時間のかかる取材を忌諱する傾向にあります。これこそ問題です。」

 BBさん、貴重な意見どうも有難うございます。私への反対意見も含めて、コメントを大歓迎します。むしろ議論を深める絶好の機会だと思っています。だいぶ過去の記事ですので、よくブログを読んで下さったと感心しております。

 BBさんのコメントには、一応私の返答を書いておきました。しかし、重要な問題なので、改めて大きく取り上げることにします。少し私の返答を膨らませて、私の見解を述べると、こうです。

 最近また「オワハラ」に関する記事を目にしました。多くの記事がでて「社会問題化」しております。実例も豊富に出ています。一部の新聞の一部の記者がいいかげんに書いたものではないと判断しています。

  国会質問でも大きく取り上げられました。「オワハラ 国会質問」というキーワードでGoogleを検索するといっぱい出てきます。

少し前に企業の「内定取り消し」の話がありましたので、「なにを勝手な」と思いました。「オワハラ」については、BBさんは、企業が「内定だしますから必ずわが社への就職意思を決めてください」というが、何が問題なのでしょうと疑問を呈しています。

確かにこれだけでは、「オワハラ」に該当しないですね。学生に訊いても、彼らの方でも、就活マニュアルに従い、「ぜひ御社に就職したい」と言います。その実、学生は何社も内定をとりつけたりします。私は、かつて大学の就職担当者として、この行為を不道徳と思ったことはありません。

学生は弱い立場なので、こうして選択の範囲を広げ、結局、自分に合った会社を選びます。大学側としては、大学の推薦によって内定が決まった学生だけに縛りをかけ、逃げないようにします。

こうしたことは、当たり前のことで、企業の就職採用の担当者には、分かり切ったことで、辞退の場合も含めて対処していると思います。

問題は、ここにあるのではなく、企業側による「他社への就職活動の妨害と脅し」にあると思います。企業が学生に、「他社への就職活動の停止を強要するか、これまで決まった他社の内定辞退を求める」ことが、「オワハラ」の意味です。

 文科省は、この1120日に、「就職・採用活動時期の変更に関する調査」の結果を発表し、「オワハラ」について、次の事実を指摘しています。

 「オワハラ」を受けたことがあると回答した学生は、13.5%で、大学の約5割が「オワハラ」の相談を受けたことがあると答えています

 BBさん、以上が「オワハラ」問題に関する私の具体的な見解です。この問題について、深く考える機会を与えていただいて、感謝しています。私の記事への批判・反論は、ブログ活性化のために必要なことだと思っています。

 なお、10月2日の私のブログ記事に関連していえば、経団連は、就活解禁を6月へと2か月前倒ししましたね。


              1.人生とは労働である


  我々は、人生の大半を労働にあてている。今年の3月に定年退職して、私はあらためてその意味を考えている。他人が働いているのに自分が温泉に行く(今日も行くだろう)のはどこか落ち着かない。やはり、私は、心の上では、労働と切り離されていない。脳梗塞後のリハビリ生活をしている今もそうである。


  労働が人生の大半をなしているとすれば、その労働が苦痛や不快で出来るならばしたくないと感じるとすれば、我々はやりきれない。もちろん太古の昔から、労働が楽で楽しいものであったわけではない。たとえば、自分のつくった作品に芸術的な満足を覚える手労働の親方も長くて苦しい修業の果てにこの満足感を得られるにいたったのである。つらいがやりがいがあり、達成感を覚える労働であった。



 問題は、自己の労働にやりがいや達成感を得られなくなり、自己の労働の成果に満足を味わえられなくなることである。何のために労働するのだと聞かれて、賃金を稼ぐためだと答えるものは多いのではなかろうか。



 もちろん労働にやりがいを感じつつ、賃金を得ることが望ましい。私も、この観点から、学生に就社でなく就職の観点にたち、どんな仕事が自分の能力、適性、興味にあったものであるか慎重に考えて選びなさいと助言してきた。



             2.労働はなぜ手段化するか
 


 しかし、世の中、労働から達成感ややりがいを奪い、賃金目的のためのものにする傾向がある。この傾向は、労働の量的側面がお金の側面として貫くことから生ずる。つまり労働は、企業の利潤追求に貢献して賃金をえるためになされる。この場合、労働は、企業の利潤追求の手段となる。


  企業にとっては、労働は利潤獲得のための取り換え可能な「消耗品」となる。この「消耗品化」に対しては、これまで労働基準法など様々な労働の規制によって、人間は労働生活を防衛してきた。しかし、新自由主義のイデオロロギー下に規制緩和がなされ、グローバリゼーションの名のもとに激しい企業間競争がなされるにつれて、労働の「手段化」、「消耗品化」傾向がいっそう強く貫いていく。


                    3.ああ賃金

  その中で、労働には、賃金を得る楽しみだけが残る。しかし、その労働はたいてい、「生活の強制」のために、「餓死」を避けるためになされる。できればやらないで済ませたい労働となる。


  やり遂げた後に達成感、充足感を感じる労働の質的側面と賃金を得るという労働の量的側面が一致するのが望ましい。だが、労働は、賃金を得るための手段化を強めていく。


 しかもその賃金は低く抑えられる。というのは、企業の利潤追求要求は際限のないものであり、この利潤を削る賃金引上げは中々なされない。賃上げは、労働力不足でやむにやまれない時にしかなされない。



 むしろ、賃金は人件費として、企業間競争の関係上、抑制されていく。人件費を削減するため、正社員、正規労働者を削減し、パート、アルバイト、派遣など非正規労働者への置き換えがなされる。



 我々は、労働が苦痛になり不快になる理由が、労働の量的側面すなわちお金の側面から生ずることに気がつく。労働は、企業にとっては利潤獲得の手段となり、労働者にとっては賃金獲得の手段になる



 労働者は、企業にたいして利潤獲得のために奉仕することによって賃金すなわち生活の糧を得る。失業すれば、生活の糧を得られなくなり、社会的救済がなければ、餓死する。この場合、我々の基本的人権をなす自由は、餓死する自由となる。だから、労働は生活のためにする「他人のための強制労働」となり、利潤獲得の手段化する。労働規制がなければ、企業にとって、労働を、人間をいっそう取り換え可能な部品化、消耗品化する。


           4.労働の一面化・奇形化


  もちろん労働のこうした量的側面は、質的側面に影響を与える



 ほんらいは科学や技術の発展は、人間の労働生産性をあげ、労働をより楽にしたり、人間の暮らしをよりゆとりのあるものし、豊かにするためにある。ところが、それは、一方で大量の失業を生み、他方で企業に残った者の長時間労働を生む。格差社会のもとで、富のかたよりを生み、「豊富の中の貧困」を生む。さらに労働の一面化を生む。


 
 我々の社会では、科学と技術の発展は、利潤追求を目的とした効率性の追求のためになされる。その結果分業やオートメーションの発展は、人間的要求を無視した効率性の追求のあげく、労働を一面化し、おもしろみのないものにする。


  テーラシステム、フォードシステムは、労働を細かく分解し、労働を奇形化する。私は、労働とは、目的意識をもった人間の自然に働きかける実践活動であると述べた。


  しかし、今や工場労働者から、この目的意識の最後の一片が奪い取られる。人間はこれまで自分の労働の方法、」作業手順を考えることができた。ところが、今やスタッフ職員が指図表をとおして労働のすべての手順、方法を決めるのであり、労働者は精神なき機械的な労働を、ラインのスピードにあわせて同一のリズムで行わなければならない。ここでは、精神的労働と肉体的労働が極端に分化していく。


 利潤追求のために合理化が企てられ、労働強化がなされる。ベルトコンベアのスピードがあげられ、人間がきりきりまいさせられるという光景は、自動車組立工場でよくみられた。


 チャップリンの映画「モダンタイムス」は、このようなオートメーション化の現代的傾向を風刺したのである。チャップリンがラインを離れ、タバコを吸おうとする場面がある。すると壁にかかっていたモニターに経営者が現れ、サボるな、と言う。まだテレビのない時代によく未来のことを予測したものだ。


                 5.労働疎外について
 
 労働の一面化は、労働を単調なものにし、つらくてきついものにする。こうした労働はやがては科学技術の発展によって、機械やロボットに置き換えられるべきものである。ところが我々の社会では、機械やロボットによる労働の置き換えは、それによってコストの削減が実現するかどうかによる。つまり、機械やロボットを使った方が安いか、人間を使った方が安いか、という選択による。その結果、工場の中で、人間がロボットと厳しい競争をさせられるという場面さえ出てくる。


 
  そのなかで、人間が機械を使うのではなく、機械が人間を使うという現象が生ずる。機械は、人間と対等の地位におかれるというよりは、人間を支配しているようにみえる。


  我々の資本主義社会では、人間が資本の利潤追求の手段になり、利潤追求に役立つかぎりで、企業のなかでその地位が保障される。つまり、機械による人間の支配は、資本による人間の支配の別の表現である。利潤追求に役に立たないとみなされると、人員整理、首切りの対象となる。これは、労働疎外の一現象である。


 労働疎外とは、労働が手段化し、また一面化・奇形化していき、労働の成果が他人のモノになる現象である。労働は本来人間の創造的活動であったが、いまや労働疎外をとおして人間にとって苦しみ、苦痛となった。
 





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