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私の1年年下の大学経済学部の友人が、今年3月末に定年退職を迎える。そして、定年退職にあたって、自分史というか自己の思想的な遍歴を綴るA4サイズで70頁弱の小冊子を送ってきた。
こ れを読みつつ、私も自分の昔を思い出していた。
彼も私も大学紛争世代である。彼の方が思想的に早熟だったと言える。中高校の時からすでに「社会問題」に目覚めていた。
私は、高校時代には、世の中に金持ちと貧乏人がいることを意識して、「世の中を良くするために役にたちたいね」と漠然と兄弟たちに語っていただけであった。
私が、「社会問題」に本当に目覚めたのは、大学紛争をとおしてであった。大学の建物が封鎖され、授業がなくなったのを幸いにして、マルクスの『資本論』を読んだ。正直に言って、おもしろかった。世の中の仕組みがはっきりとわかり、歴史の動きをよくつかむことができた。
私は、学部に入り、いろんな考えを学ぶにつれて、社会主義に「理想社会の追求」を夢見るようになった。
社会主義といえば、今日、自由のない独裁社会、非効率的な計画経済であったと考えられている。そして、旧ソ連・東欧における「現実社会主義」が崩壊した今日、あまり振り返られることはない。
社会主義を語る青年には、「アカ」というレッテルがはられ、「危険思想」に染まっているといわれた。自由のない独裁社会にどうしてあこがれるのかと、首をかしげられたのではないか。
しかし、友人もそうであったが、我々は、旧ソ連・東欧のような社会に決してあこがれたのではない。
むしろ、社会主義が西欧の価値観に基づき、自由・平等・民主主義・社会的連帯を完成させるものであり、資本主義の悪いところを克服した社会であると考えた。ヒューマニズムに基づき、人間解放をもたらす社会であると考えた。
社会主義に憧れる多くの青年は、社会主義に理想を求める以上のような考えをもっていたと考えられる。誰も自由のない独裁社会にあこがれたわけではない。
私は、この観点から両大戦間期にドイツの労働運動を指導した思想家であるヒルファディングを調べてみた。そして、続いて、オーストリアの労働運動を指導した思想家であるオットー・バウアーという人物をとりあげた。
彼らは、社会主義に理想を求めるマルクス青年として出発した。そして、大物の政治家・思想家として育っていった。
彼らは、レーニンら共産主義にたいして、西欧の価値観である自由・平等・民主主義・社会的連帯を内容とする社会民主主義を唱えた。そして、当時のドイツ、オーストリアで労資の共同決定権に基づく資本主義の改革、今日で言えば福祉国家への路線を追求した。
福祉国家の路線を築いていったことを社会民主主義の歴史的功績として評価する私の立場は、こうした研究をとおして確定していった。
一方、私の友人は、東欧研究者とくにハンガリー研究者となり、私と同じ自由・平等・民主主義・社会的連帯という西欧的価値観から、これらの社会主義国の反体制運動や改革の動きを追求した。
そして、現実の社会主義が崩壊した時、その中で育てられてきた福祉国家の側面を評価するようになった。またこれとスウェーデンなど西欧の福祉国家に「社会主義的要素」を見出すようになった。奇しくも別々の研究を通して、私と彼の、福祉国家をめぐる考えが一致していった。
今日、「新自由主義」の支配のもとに、日本では、資本主義における格差と不公平な現実が国民を悩ましている。ワーキングプアの問題もある。
私は、自分の考えをみなさんに決して押し付けるわけではないが、西欧の本来の社会民主主義のごとく、我々にとって「理想社会」を描き、これに向けて福祉国家の道をとおして日本の資本主義を変えていくという考えをもっている。
しかし、かなりの日本人は、社会を良くする夢を見るのではなく、時として、生活保護を攻撃するなど、貧乏人が貧乏人の足をひっぱったりしているように見える。
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経済学
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以前のブログで述べたように、脳梗塞から立ち直って、私が最初に読んだ経済学書は、スティグリッツの『世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠』(徳間書店、2015年)である。読むのにだいぶ時間がかかったが、おもしろかった。
スティグリッツと私の見解には、共通する点が多い。とくに現在の支配的な市場崇拝の経済学を批判するところがそうである。
この経済学は、こう主張する。“市場に任せよ、そうすれば万事うまくいく。政府は経済から手を引け。”「新自由主義」は、この考えにたって、規制緩和、民営化、財政支出の削減を主張する。
スティグリッツは、この経済学が時代遅れの考えに立っていると指摘する。市場は、欠陥があるのであり、市場だけでは経済はうまくいかない。経済は、市場と国家の適切な組み合わせによって、運営されなければならない。スティグリッツは、その際、政府の財政政策を重視する。
このケインズ主義的観点から、スティグリッツは、市場崇拝に基づく経済政策を批判する。まず彼が槍玉にあげるのは、ブッシュ・ジュニア前米大統領(在任期間2001−2009年)の経済政策である。
ブッシュのお父さんつまりパパ・ブッシュは、湾岸戦争を行った。ブッシュ・ジュニアは、テロに対する戦争を叫び、イラク戦争を行った。
スティグリッツは、2000年のアメリカのハイテクバブル崩壊後のブッシュ・ジュニアの経済政策を批判する。
ブッシュ・ジュニアは、ハイテクバブル崩壊後の不況を、金持ちに対する減税で乗り切ろうとした。つまり、金持ちに減税すると、彼らはやる気をおこしてがんばるというのだ。これは、「新自由主義」、なかでもサプライサイド・エコノミクス(供給重視の経済学)の考えの実践である。
スティグリッツは、この減税が1%の富豪への格差拡大をもたらし、また財政を食いつぶすだけで効果がないと批判する。
それに対して、彼は、逆に、貧しい者への減税、所得の再配分を訴える。経済の公平化を訴える。そうすると、彼らの個人消費が、需要が増加し、経済の発展をささえる。
ブッシュ・ジュニアは、また、イラク戦争を起こしたり、軍事支出を急激に拡大する。その結果、アメリカは、財政を食いつぶしつつ、軍拡景気に走っていく。
さらに、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)議長グリンスパーンは、バブル崩壊時の日本を教訓にして、迅速に超低金利政策をとった。これは住宅バブルを生んだ。サブプライムローンの破綻による国際金融危機をもたらしていく。
スティグリッツは、こうしたブッシュ・ジュニアの経済政策の帰結を冷静に見抜き、自らは、教育とインフラを中心とした財政政策を主張し、アメリカ経済の足腰を鍛えることを提唱した。
さらに、極端な経済的不平等・不公平を解消し、機会均等の社会を実現し、アメリカン・ドリームを再建することによって、経済の活気を取り戻すことを主張した。
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不況と失業の問題は、我々の社会にとって深刻な問題だ。経済学でも、その解決のために賃金をどうするか、国家の役割をどうするかという議論がなされた。
このことを見つめることによって、我々の社会の問題がよく浮かび上がる。以下、幾人かの架空の経済学者に登場してもらって、これに答えてもらおう。
1 市場に任せる経済学と賃金引下げ
経済学者Aは、こう言う。市場に任せておけば万事うまくいく。市場システムにおいては需要と供給の作用によって、つまり労働市場における売った買ったというやりとりにおいて、適切な賃金すなわち均衡賃金がもたらされる。
均衡賃金のもとでは、労働の需要と供給はぴったりと一致する。むしろ、労働の需要と供給がぴったりと一致する時の賃金を均衡賃金と言う。この均衡賃金のもとでは、労働の需要と供給がぴったりと一致し、過不足はなく、したがって失業などありえない。
だから、失業が生ずるのは、怠け者がいっぱいいるか(自発的失業という)、高賃金のせいで企業が労働者を雇うのを尻ごみし(求人倍率を減少させ)、反対に労働者の多数が仕事にありつこうとするせいである。こうして、就職したいという労働の供給が雇いたいという企業の需要を上まわり(労働の需要<労働の供給となり)、その差が失業となって現れる。
経済学者Aの考えに基づき、政治家たち(たとえばイギリスのサッチャー元首相、アメリカのレーガン元大統領)が、団体で賃上げ闘争をし、高賃金の状況をもたらすという理由をあげて、労働組合をあたかも経済の暴力団であるかのように非難する。
経済学者Aは、さらにこうつけ加える。市場に任せておけば万事うまくいく。経済がうまくいっていなく、不況と失業が生じている理由は、政府の経済的役割の削減が徹底していなくて、市場機能が十全に作用しないせいである。
2 賃上げを要求する経済学
そこに経済学者Bが現れて、こう言う。とんでもない。あなたは、不況でただでさえ賃金が低く抑えられている時に、失業を解消するために、労働者にさらに一層賃金を引き下げるように強要している。あなたの言うように、賃金と人件費を切り下げると、労働者、サラリーマンは消費者でもあるのだから、個人消費の減少をまねき、不況をより深刻化し、失業をかえって増加させしまう結果となる。
失業を解消するためには、反対に派遣労働をやめ、これまでの賃金を保障しつつワークシェアリングで正規労働者をふやし、そればかりか賃金を引き上げ、個人消費を増やし、日本国内市場と内需を拡大し、景気をよくする必要がある。
3 国家の役割重視と赤字財政の経済学
さらに経済学者Cが出現して、経済学者Bに対してこう言う。とんでもない。不況で企業はただでさえ業績が悪化し(財務内容が悪化し)青息吐息の状態で倒産の恐れさえある。あなたの言う賃上げは、企業に死ねというようなものだ。企業はリストラを行うことによって、経営改善を行う必要があるし、その結果かえって失業を増やしてしまう(非自発的失業)。
自然の成り行きに任すのでもないなら、不況と失業問題を解消できるのは政府だけだ。政府は、積極的赤字財政政策を行い、公共事業、失対事業を行い、失業者を減らすと同時に景気を回復させるべきである。
経済学者Cは、経済学者Aに対しては、こう言う。市場に任せれば万事うまくいく? ふん、何を言うのだ。市場システムは、見込み生産と結果の事後的確認を内容とする「不確実性の経済」である。不況と失業は「不確実性の経済」である市場システムの欠陥の結果であり、だからこそ政府の経済的役割が期待される。
4 資本主義の袋小路を指摘する経済学
最後に経済学者Dはこう言う。もともと市場システム正確には資本主義経済は、救いようのない欠陥に満ちたシステムだ。歴史を見たまえ。景気循環、バブル、不況と失業は、資本主義の「不治の病」のごとく延々と続いている。1929年世界大恐慌を思い出しなさい。
市場に任せよ、民間企業はすばらしいって? 何を言う。不況の時、企業はリストラし、賃金と人件費の削減によって個人消費をへらし、これは企業をまたリストラに誘う。この悪循環はいつまで続く?
企業は自分で自分の首を絞めることしかできず、結局は不況と失業をかえって深刻化してしまう。
政府の経済的役割に期待するって? 政府は、赤字財政によって、民間がどうしようもなくて売れ残った商品の山を処理し、結局借金まみれになって、財政危機に陥ってしまう。資本主義の枠内では、金融・経済危機、不況と失業をもたらす「矛盾」を解決する決定打はない。
このように、不況と失業問題について、対立する経済学者たちの見解が現れる。それぞれもっともらしい理屈がつけられている。さあ、みなさんはどう考えますか。
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J.E. スティグリッツは、私がもっとも買っているアメリカの経済学者である。
彼は、1943年生まれで、今年72歳である。1995年クリントン政権の大統領経済諮問委員会の委員長に就任し、その後世界銀行の副総裁兼チーフエコノミストを2000年まで務めた。2001年には「情報の非対称性の経済学」を発展させた功績を認められ、ノーベル経済学賞を受賞した。
「情報の非対称性」とは、経済主体の間に存在する情報の差、情報の不均等を意味する。たとえば、商品について、「売り手」のみが専門知識と情報を有し、「買い手」はそれを知らないというような状況である。「情報の非対称性」があるときには、市場はうまく機能しない。つまり「市場の失敗」が生ずる。
スティグリッツの書いた本は、わかりやすく、おもしろい。私も脳梗塞後、時間がかかったが、初めて読んだ経済学の本がスティグリッツのものである。
スティグリッツは、現実の経済は、「情報の非対称性」からなるという。だから、“市場はすばらしい”、“市場に任せよ”と唱える「新自由主義経済学」は、現実離れした時代遅れの経済学を意味する。彼は、この観点から、「新自由主義」に立つIMFの経済学者を批判したし、「新自由主義」の経済政策を取り入れたブッシュ・ジュニア大統領(2000−2009年)を批判した。
ブッシュ・ジュニアと言えば、2001年の9.11同時多発テロにあい、イラク戦争を
行った人物である。
オバマの前の大統領である。ブッシュ・ジュニア大統領は、「新自由主義」の経済政策の定番である金持ちの減税を行った。つまり、金持ちに減税すると、彼らはやる気を起こして、一生懸命貯蓄・投資を行い、経済を発展させるという考えからである。
スティグリッツは、金持ちの減税は、1%の富豪に富を集中させるだけだと批判する。そして、むしろ低所得者の減税や教育・インフラへの政府投資を主張する。
低所得者への減税は、彼らの購買力を高め、個人消費需要を増加させる。この個人消費需要の増加は、力強い生産の前提をなす。
教育への投資は、教育の機会均等を実現し、若者のアメリカンドリームを復活させる。
スティグリッツは、1%の富豪への富の集中が、アメリカンドリームを崩壊させ、経済低迷を生み出していると批判する。つまり、機会不平等は、若者の意欲を奪い、
その才能を浪費するというのだ。これに対して、若者の意欲と才能開花が、アメリカの力強い経済発展を保障すると考えるのだ。
スティグリッツの考えは、将来の不確実性を指摘し、市場の欠陥を認めて、政府の経済的役割を強調するケインズの考えと同一線上にある。彼は、市場狂信主義者に対して、政府と市場の適切な組み合わせによる経済政策を強調する。
私は、スティグリッツのこの主張を見て、かつてのケインズ左派あるいは左翼ケインズ主義者の考えを思い出す。ケインズは、政府の財政支出の役割を強調した。ケインズ左派は、財政支出を福祉・社会保障の充実にあてた。そして、ヨーロッパの福祉国家を築いていったのである。
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経済学では市場経済をどう見るかで、まったく違う理論的考え方と政策的対応が生ずる。
とりわけ、市場経済に確実性を見るか不確実性を見るかによって、経済学的な立場が違ってきたのである。
私は、経済思想史のながれを大ざっぱに、次のようにまとめることができると思う。
経済学の父であるアダム・スミスは、利己心を追求する個々人の経済活動が「見えざる手」に導かれて、社会の富の増進をもたらすと述べる。ここでいう「見えざる手」とは、市場メカニズムのことである。
スミスは、こうした考えから、規制や保護主義、独占を批判し、自由競争の資本主義をたたえた。その時、市場経済に確実性を見ていたのである。
スミスに始まるイギリス古典派経済学は、自由競争の資本主義を賛美する立場に立った。
これに対して、マルクスが登場して、根底から批判することになった。マルクスの生きた19世紀の資本主義は、古典派経済学の理想とは反対に、10年ごとに経済が落ち込むいわゆる「周期的恐慌」に見舞われた。また失業と貧困といった現実に支配された。
マルクスは、これは、市場経済の不確実性(彼の言葉では、生産の無政府性)と資本主義的搾取のせいだと考えた。そして、その解決策は、社会主義の実現以外にないと思った。
しかし、19世紀末からアカデミックな経済学の世界を支配したのは、いわゆる新古典派経済学であった。これは、自由競争の資本主義をたたえた。市場経済の確実性を信奉する経済学であった。
それに対して、ケインズは、1929年世界大恐慌とそれに続く1930年代世界大不況を目にした。市場機能は完全にマヒしている。自力では回復できない。飛行機にたとえていえば、今や資本主義を新たに浮上させ、飛ばして、操縦することが問題である。彼は、この役割を国家に期待した。
彼は、その際、資本主義という飛行機の欠陥を認めた。つまり、その市場経済の不確実性を認めたのである。その結果、この飛行機は自動操縦ではうまくいかない。といってもマルクスのいうように墜落して粉々になるというほどのものではない。要するに国家という良き操縦者を席にすえればいいのだ。その後、資本主義という飛行機の操縦術を発展させ、これを国家に教えるのが、ケインズ経済学者たちの任務となった。
1970年代にケインズ経済学が権威失墜した時、再び市場経済の確実性を讃える経済学が台頭した。「新自由主義」の経済学である。それは、市場に任せよと唱え、政府の経済介入を否定した。規制緩和と民営化、財政支出削減がその政策の柱をなす。
以上のように、経済学は、市場経済の見方にともない思想史的な変遷をなしてきた。それぞれの立場は、資本主義を飛行機にたとえて述べると、こうである。
スミスは、自動操縦にすると飛行機はうまく飛ぶと主張した(確実性の経済学)。それに対してマルクスは、資本主義という飛行機は必ず墜落すると考えた(不確実性の経済学)。マルクス以後、自動操縦にすると飛行機はうまく飛ぶと主張する新古典派経済学が支配した(確実性の経済学)しかし、1929年世界大恐慌に直面したケインズは、資本主義には国家という操縦者が必要だと考えた(不確実性の経済学)。それに対して新自由主義は、飛行機を自動操縦に切り替えろと改めて主張する(確実性の経済学)。
そして我々は今、新自由主義経済学が提唱する市場の自由に任せる経済政策によってえらい目にあっているのである。
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