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少し前に、どうしたら大学教授になれるのと聞かれたことがあります。どうも大学教授は、一般の人々にとって、雲の上の住人か尊敬される存在のようです。
昔「中流意識」がはやり「一億総中流社会」が謳われた時、中流の目安として大学教授の知り合いがあるという項目があがっていて、思わず笑ってしまいました。
最初に断っておきますと、大学教授の職には、はっきりとした資格はありません。小中高校の教員のように、教員の免許があるわけではありあせん。だから近年では行政府の役人などが多く天下ってきています。
それでは、どうしたら大学教授になれるのでしょうか。一般的には、大学卒業後、大学院に進学することが考えられます。
大学院は、修士課程(前期課程)2年と博士課程(後期課程)3年からなります。修士課程の修了時には修士論文を提出し、その合格を通して修士という学位を取得します。そして、これを前提にして博士課程に進学します。
昔は、理科系の大学教員は、博士論文を書いて博士号を取得して大学院を卒業するのが普通でしたが、文科系の大学教員の中では博士号をもっているものは少数者でした。文科系の中では博士号は、あってもなくてもいいという雰囲気がありました。
私も、履歴書の中では、大学助教授に採用されたときは、大学院博士課程は「単位取得退学」となっていました。助教授になって5,6年して最初に書いた著書を博士論文として提出し、学位を取得しました。これを論文博士と呼びます。
もちろんこれらの学位は、資格を意味するものではありません。大学の教員公募では、大学院修士か博士課程単位取得者などが応募資格となります。
もちろん、このブログを読んで、「なんじゃ、これ、簡単じゃん」と思ってはいけません。
文科省の調査によると、大学院博士課程の就職率は、64.3%です(2008年)。
昔、博士課程を終えて就職できないものを「オーバードクター」と呼んでいました。今日では非正規に大学に雇用された研究者を「ポスドク」と呼んでいます。
私の大学院生時代の友人に、結婚の話があった時に、「オーバードクター」問題が話題になったという話があります。当時は、大学院生は身分不安定な輩というイメージがあったようです。
だから、私の卒業した大学の経済学部では、大学院生をはるかに定員以下の人数に絞る「産児制限」という措置をとっていました。それでも当時わたしは、大学院博士課程を卒業しても民間に就職できなく大学教師になる道しかないと、ちょっと悲愴な気分にもなりました。
大学院時代の友人の中には、就職できず、ずっと非常勤講師をつづけて定年年齢に達した者もいます。
それでも何をまちがったか、文科省は大学院生数を大幅に増やす政策をとります。その結果、1980年には約5万人だった大学院生は、2010年には27万人に達しました。とくに東大、京大の増員が大きかったと思います。文科省から定員を満たすように、きついお達しもありました。
その結果、日本の大学では、大学院生の奪い合いが生じ、さらには外国人留学生の獲得に奔走することになりました。大学院生室を見ると、中国人ばかりという光景もありました。彼らに博士号を与える大学の審査員が博士号をもっていないという事態が生じました。
それでも、大学教員になる夢をいだく若者の数は、需要供給の関係からいって多いです。これが大学教員の賃金を押し下げているのかもしれません。
9年間大学で学ばなければならない高学歴の割には、給料は非常に安いと思うのですが、それでも研究という仕事に生きがいを感じる者は多いのでしょう。
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大学と教育
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おもしろい記事を見つけた。「なぜ大学のポスターは『世界にはばたき』『未来を拓く』」ばかりなのか」(ITmediaビジネスオンライン 12月7日(月)8時9分配信)である。記事のあげるキャッチコピーを見て、なるほどと思った。
「世界へ、そして未来へ」 記事では、次のようなコメントがつけられる。
「大学のスローガンにおける妖怪(=手垢がついた決まり文句)は『世界』『未来』『学び』『自分』などの名詞と、『はばたく』『拓く』『みつける』『創る』などの動詞の組み合わせたものだ。」
そうだ、そうだとうなづく私は、大学人として悲しい。このように「創造性」を欠く大学には、「未来」にはばたかない。
大学は、文科省の指示によるか、あるいは顔色をうかがって毎年のように改革、改革と叫ぶ。私の属していた経済学でもコース再編に直面した。その時、出てきた名前に、「国際」と「地域」があった。「国際」は、他の学部で目玉として使うというので、経済学部では、遠慮して引っ込めた。「地域」は採用された。「地域マネジメント」というわけのわからぬ名前が考えられた。
最近では、文科省から「ミッション再定義」というわけのわからぬ通達が出た。この時、学長サイドが示してきた模範答案には、「グローカル」とか「グローバルスタンダード」という陳腐な言葉が並んだ。
私は、グローバルとローカルをくっつけてつくった「グローカル」という言葉にいい印象をもたない。というのは、グローバルとローカルは、対立すると考えるからだ。グローバルに金もうけし、地域から中央におカネを吸い取る大企業の視点に対して、地域の「循環型社会」とか「持続可能な発展」とか「地域からの再生」が唱えられているのだ。
だから、私にとって、「グローカル」という言葉は、「愚弄カル」と響く。
文科省は、大学に給付する運営交付金を毎年機械的に1%削減し(効率化係数)、教員定員を減らすことを要求する。改革、改革と言っても、人が変わるわけでも、増えるわけでもない。
だから、勢い、改革構想は「作文」となる。なるべく見栄えがいい言葉が並ぶ。これが、上の記事で取り上げられた大学の惨状を生み出す。
上の記事では、このどうでもいい、内容がなくて印象が残らないキャッチコピーを「空気コピー」と呼んでいる。 たとえば、日本の飲食・食品・製造業界にはびこるのは、「こだわり」という言葉だ。
「そのような決まり文句は、あってもなくても同じ空気のような存在の言葉だ。だから『空気コピー』と呼ぶことにした。『こだわりの××』というフレーズは現在の日本においてはまさに『空気コピー』だ。何の役割も果たしていない。お客さんの心を1ミリも動かさない。あってもなくて同じ。いやないほうが圧倒的にいい言葉なのだ。それにもかかわらず、日本の多くの飲食店や食品会社は、何も考えずに使いまくっている。まさに『こだわりバカ』状態だ。」
このブログを書いているうちに、だんだん私は、日本の大学が情けなく思ってきた。ドイツでは、法的に「大学の自治」が保障され、時の政治権力に振りまわされることがないというのに。
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きのう大学にいって12冊ほど本をリックに背負って帰ってきました。重かったです。
長い急な坂道を上る時に苦労しました。バスの便が悪いので、1キロ半ほどテクテクと歩かなければなりません。しかし、この試練に耐えられるほど私の体は回復しています。
左から12冊です。
今週金曜の東京日帰り一人旅行に向けてまた自信がつきました。
大学では当初の意図に反し、5人ほどと会って話をしました。廊下でばったり会って、「お、久しぶり」と挨拶をかわして、少し話し込んだ人もいます。
「いつ定年ですか」
「あと2年後」
「そう、大変だね」
「本当に学長の改革構想に振りまわされて」
というような調子です。
一人は、その研究室で来年の私の講義について話しました。
「ヨーロッパ経済統合論は将来リストラ科目にあがっています」
「そう、残念ですね」
「それに来年からクオーター制がはじまります」
クオーター制とは、これまで夏休みを挟んで前期後期に分かれた学期を、四半期ごとの4学期に細切れにすることです。文科省に指示され、文科省の顔色をうかがう学長ら大学経営陣の主導下に導入されました。文科省が何か言う度に大学は右往左往です。
ところで、ドイツでは、日本のような文科省はありません。ドイツ政府のなかに「連邦教育研究省」はありますが、日本のように上から一律に「右向け右」と号令をかけることはありません。教育の点では、全体の「調整機関」にすぎません。教育を担うのは州政府です。
ドイツは、日本と違い連邦制をとっており、州ごとに政府があり、首相がいます。メエルケルは、州首相とは区別する意味で「連邦首相」と呼ばれています。州ごとに文部省があり文部大臣がいます。
ドイツの大学の圧倒的多数は、州立大学です。現在ドイツの大学の数は総数391で、そのうち104が総合大学、184が専門大学です。専門大学は数が多いのですが小規模で、学生数は全体の3割にすぎない。このほかに教育大学、神学大学、芸術大学などがわずかな数だがあります。
ドイツの大学の圧倒的多数は、州立大学です。私立大学は、83校で、学生数はわずか数%にすぎません。
というわけで、日本の事情とは随分違います。日本の大学数は、総計758校で、その内訳は、国立86校 公立77校 私立595校です。私立大学が圧倒的な数です。
ドイツの学生数の9割は州立大学に所属し、授業料タダの恩恵を受けています。先のさらばんどさん゙のコメントで「日本の大学授業料を無料にするにはどのくらい予算がかかるか」と言う質問に答えた時、大学制度のこの根本的な違いを落としてしまいました。
それにしても、ドイツでは圧倒的多数が州立大学です。アメリカにも州立大学があります。
かつて日本で国立大学の民営化がはかられようとしたことがあります。国立大学の民営化は、他に類のない試みであり、政府はいったい何を考えているのだと思ったことがあります。結局は、「国立大学法人」というへんてこなものに落ち着きました。それも民営化の過渡的形態という但し書きがつけられて。
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今日は、自主トレも終わったし、シャワーも浴びたし、これから大学に行って、本をとってきます。
来年度の講義に必要な本5、6冊です。
定年退職にともない半分ほどの本を中央図書館に移管しました。しかし、中央図書館は貸出手続き、貸出期限があります。そこで、すぐ講義や研究に使う本は、手続き不要の別の図書室に保管しています。今日は、これをとりに行きます。
脳梗塞に倒れて、そして退院した後3度ほど大学にいきました。同僚は、歓迎し、励ましてくれましたが、これからはそうもいかないでしょう。
大学には、時々勉強のために出かけます。
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日本の大学の授業料は高い。年間授業料は、国立大学法人では約54万円、私大では75万以上である。大学生を2、3人同時に抱えると、普通の日本の家庭は破産しそうだ。
アメリカの大学の授業料は、もっと高い。州立大学でも年間90万円を超える。
だから勢い学生ローンに頼る。2014年、アメリカの公立大学など学生のうち学生ローン返済者の割合は69%に達した。一人当たりの平均返済額は、2万8950ドル(約355 万円)に達した。今月12日には、アメリカの各地で大学生らが、あまりに高い学生ローンに抗議して集会を開いた。
ノーベル賞経済学者スティグリッツは、1%の富豪の支配下でアメリカン・ドリーム(機会均等の夢)が破れている事実として、この学生ローンの問題を取り上げる。
底辺の若者がよじ登ろうとして、食い物にされる。学生ローンがそうだ。
「学費が上がり、所得が横ばいをつづけ、政府からの援助がほとんどない状況では、学生ローン債務の総額がおよそ1兆ドルにおよび、昨年のクレジットカード債務残高を超えたのもうなずける」(『世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠』徳間書店、2015年、213頁)
アメリカの学生は、高い授業料に苦しみ、教育関連ローンの減免は破産裁判所でも認められない。大学卒業には、ローン地獄に陥る。
スティグリッツは、このような状況に対して、教育の機会均等を実現するために、この学生ローン負担の問題を何とかしなけれならないと述べている。
このように、アメリカと日本では家庭は、高い大学の学費負担に悩まされている。
それに対してドイツの公立の大学では大学授業料は無料である。公立の学生が学生全体の9割を占める。だからほとんどの学生の授業料は無料である。
ドイツの大学の授業料は伝統的に無料であった。が2000年代一部の大学で授業料の有料化がはじまった。といっても年間せいぜい500ユーロ(約6万円)程度である。
しかしこれは、不人気であり、各州政府(ドイツでは州立大学が一般的)がふたたび次々と授業料を課さなくなって行った。最後に残ったニーダーザクセン州も、2014年冬学期から授業料を廃止した。
他のEU諸国でも、大学の授業料はタダか驚くほど安い。
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