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移転前に名古屋から八高教官が第1河和空基地の跡を見に来た。
その時は建物内に家具等もそろっていたが、八高がいざ移転してみると、家具等は盗まれてなくなっていた。
元々が河和駅からは遠くて、不便な立地である。
使用できる建物も基地跡に残る全ての建物ではなく、一部に限られていたので、河和校舎に幻滅した教官もいた。
昭和22年1月14日、中寮が出火した。
教室では午前の授業を行っている最中だった。
河和校舎の建つ場所は高台なので、火災現場には風がよく当たった。
河和町消防団が消火しようにも水の便が悪い。
立地が裏目に出た。
事務長の指示で、水を入れたコップを金庫内に入れられた。
しかし、カギはかけない。
熱で金庫が膨張して変形するので、カギをかけると扉が開かなくなるからだった。
事務長は、戦時中の空襲の経験から火災の対処方法を知っていたのである。
八高は二日間燃えて、本館と南寮・中寮・北寮の寄宿舎三棟・売店が焼失した。
焼け跡に鉄くずを拾いに来た人もいたという。
物資の少ない終戦直後の世相である。
火災後、名古屋への復興運動は大きくなった。
河和町中部国民学校では3月に八高復興資金のため、児童向けの有料映画会を開いた。
卒業生、愛知県、名古屋市など各方面からの援助・支援を受け、昭和22年8月、八高は名古屋へ戻っていった。
八高河和校舎のあった場所は、戦中には軍歌が響き、戦後には八高の寮歌が響き渡っていた。
海軍の将兵と旧制高校の学生の声。
帝国海軍も八高も無くなった。
現在は、田で鳴くカエルと虫の声が夜に聞こえている。
参考文献
八高創立五十年記念事業実行委員会 1958『八高五十年誌』
山口拓史 2007『第八高等学校 ―新制名古屋大学の包括学校①―』 名古屋大学大学文書資料室
山下 泉・伊藤厚史・磯部利彦 2007『河和海軍航空隊調査報告書』美浜町教育委員会
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2013年07月01日
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