いつまでも、御塩倶楽部

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源義朝の「その時歴史が動いた」

NHKの「その時歴史が動いた」で源義朝がやるよ、と某先生が教えてくれた。

先月(2月)、「武者の世になりにける 源義朝の戦い 〜保元・平治の乱〜」というタイトルで放送された。

「○○君(ぼくの名前)、見た?」

「ビデオに録画しました。でも、録画したドリフがまだ見終わってなくて見てないんですよ」



 そんな訳で、3月になってやっと見た。

源義朝(よしとも)は鎌倉幕府を開いた頼朝(よりとも)の父親である。

義経の父親でもある。

 この義朝にとって知多半島は最期の地になる。

平治の乱で東国へ逃げる途中、知多半島を経路にした。

半島先端部の南知多町に船で上陸し、陸路で美浜町野間(のま)へ入った。

そこで、頼ったはずの家臣長田(おさだ)氏に暗殺された。


 「その時歴史が動いた」では、最後で義朝の墓がある大御堂寺(おおみどうじ)が紹介されていた。
現在、湯殿跡と呼ばれる暗殺されたと伝えられる場所は、大御堂寺から東にある法山寺(ほうさんじ)にある。

写真を見てわかると思うが、ここは風呂場で暗殺されたことによる「表示」であって、当時の遺構が残っているとは思えない。

しかし、付近には中世の遺跡が多く、暗殺した長田氏の屋敷跡と伝えられる遺跡もあるので、どこかに残っているのかもしれない。


 今夜もご覧いただきありがとうございました。

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 道具は、その道具本来の使用目的以外にも別目的に使われることがある。


この別目的への使用を「転用(てんよう)」という。


遺跡から出土する遺物にも「転用」されている例がたくさんあるので、道具の使用と同時に「転用」の歴史も始まったと言える。


 写真の錨(いかり)は、船のアンカーとしてではなく、柵として転用されている例である。

位置や配列状況から推測すると、強い「立ち入り禁止」を表していると思われる。



 ここへ入ると「怒りますよ」という意味である。

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知多美浜かんぽ保養センター

 オリックスへの一括売却が問題になっている「かんぽの宿」であるが、知多半島にもある。

場所は、美浜町大字奥田字砂原、「知多美浜かんぽ保養センター」である。

地元では「保養センター」と呼ぶ人が多い。



 きな臭い話は置いておいて、この施設がある場所を説明したい。

「知多美浜かんぽ保養センター」は、10年ぐらい前に天然温泉もできた海岸に建つ施設である。

伊勢湾に面した砂浜の奥に堤防があり、堤防の裏から「かんぽの宿」になる。

少なくなったとはいえ付近には松林が残っている。

「かんぽの宿」が建設される前は、この場所に名古屋から陸上自衛隊が訓練に来ていたそうである。



 もっと時代をさかのぼると、奈良時代・平安時代に製塩を行っていた場所でもある。

発見当初は「奥田製塩遺跡砂原地点」と呼ばれていたが、現在では「奥田砂原製塩遺跡」とも呼ぶ。

ある報告書では「おくだすなはら」とふりがなが付いているが、正しくは「おくだすはら」と読む。

美浜町の「かんぽの宿」は、古代製塩の跡付近に建っている。

古代製塩の製法は、海藻を使って採鹹(さいかん・海水濃縮工程)し、土器で煎熬する「藻塩法」。


「かんぽの宿」には、からいニュースが続くと思うが、是非とも「藻塩」でがんばってもらいたい。




参考文献

美浜町教育委員会 1972『奥田製塩遺跡』

愛知県教育委員会 1999『愛知県知多半島遺跡詳細分布調査報告書』
磯部利彦 2001「奥田製塩遺跡」『伊勢湾考古 15号』

知多半島一の誇大広告

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 知多半島一の誇大広告


宇宙で一番!美味しいお店!「のんちゃんのたこ」




 半田警察署から少し北へ行くと、メガネやがあって、その隣りにあるたこ焼き屋である。

好きな看板の一枚である。


店主のセンスか、どこかにネタ元があるのか知らない。


このコピーのセンスを受け付けられない人もいる。



 「地球以外にたこ焼き屋ってあったの?」



と嫁に聞いても相手にしてくれない。



でも、無防備かつ一生懸命攻めてくるこの看板が好きだ。

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森田萬右衛門像(愛知県武豊町)


 愛知県にある名鉄河和線は、南へ下ると冨貴駅(武豊町)で河和行きと内海行きに分かれる。

交通の要衝であるが、昔から駅前の景色は変わっていない、とある人が教えてくれた。

この富貴駅から西へ行くと武豊町役場の冨貴支所がある。

道から敷地をのぞくと、ヒゲを生やした老人の像がある。

台座裏面に「昭和五十四年十一月吉日建之 武豊町大字冨貴字外面六十三番地から移転 銅像製作者 筒井英造」と彫られている。

何かの都合で動かされたらしい。

ぼくは、地元の人間ではないからどのような仁かしらない。

隣りにある説明版と『知多半島タウン情報誌ステップ 2008年11月号』によると、



森田萬右衛門(もりたまんえもん) (1852〜1934)

村長、郡会議員をし、知多半島に農地が少ないことから開拓・干拓などの事業をした。

時には私財を投じることもあり、晩年は貧しかった。



 自身が貧乏になってまで地域のために事業を行ったらしい。

悲しいかな、個々へ強要を迫る場合に「公のため」という言葉が利用されることもある。

他人の財布が当てにされる昨今、貧乏になるまで私財を差し出せる人は、立派である。


 自分にはできない。

もちろん強要もしない。


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