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伯耆の製塩土器
長瀬高浜遺跡で、外面に叩きを有する小片が出土しています。
出雲の製塩土器
製塩土器が出土した遺跡は7個所あるそうです。
すべて、海に面した遺跡です。
生産遺跡の可能性があります。
高広遺跡では、倒盃形の脚部が出土しています。
坏部には叩き目があります。
郷の坪遺跡では、倒盃形の脚部と棒状の脚部が出土しています。
伊屋谷遺跡では、さらに角形の脚部の出土もあります。
これらの出土範囲は、まだ出土例が少なく、考察を進めるのは困難ですが、現状で少し考えてみましょう。
倒盃形の脚部は、塚森式(伊勢湾岸に分布)によく似ています。
坏部に叩き目を施すあたりも似ています。
塚森式が備讃瀬戸からの伝播と考えられているようにこの土器もその影響下のものと考えられます。
角形の脚部は、知多式3類もしくは5類と形態的に、成形的に似ています。
大きさは、5類に近いのですが、坏部の立ち上がりは3類に類似しています。
それとも、知多式のようなラッパ上の坏部にならず、能登の棒状脚製塩土器のような坏部になるのかもしれません。
これも脚部の成形・形態ともに類似しています。
製塩土器は煮沸時に、塩分などが器壁に浸透し、長時間の加熱を加えられるために、一回使用されると剥離・細片化の現象が起こります。
だから、完形品の出土は希です。
棒状の脚部は、三河湾に浮かぶ篠島の神明社貝塚から出土した篠島式製塩土器と形態的に似ていますが、出雲出土の土器は倒盃形の名残と考えられているのに対して、篠島式の方は、成形時の転がしたときの痕と考えられています。
形態だけが似ているのかもしれません。
次ぎに、時期ですが倒盃形は塚森式と同じように古墳時代前期に出現します。
角形の脚部は知多式3類(律令期開始前後)よりも若干出現が早いようです。
時期から考えると知多式5類は平安時代に出現するので、知多式3類の方に近いのかもしれません。
一方、能登の棒状脚製塩土器も律令期の開始あたりに出現します。
どのような形態に復原できるにせよ、角形の脚部を持つ製塩土器にはそれに対応した製塩炉を伴います。
つまり、石敷炉ではなく、炉の底部に砂などを敷く炉が対応します。
伯耆・出雲もこのような炉がありそうですが、発見はまだ無いようです。
特徴として、伯耆・出雲は『延喜式』の規定では調庸として塩の納税を義務付けられていません。
荷札木簡にも見つける事はできません。
これらの地の製塩土器は流通を目的としたものではなく、自家消費用の製塩に用いられていた可能性やそれぞれの自国内のみにこの土器によって生産された塩が流通していた可能性もあります(内田 1994)。
引用・参考文献
磯部利彦2010「古墳時代・律令期における伊勢湾・三河湾周辺の製塩土器」『伊勢湾考古』21号 知多古文化研究会
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塩
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土器製塩とは煎熬(せんごう)工程に土器を使用する製塩を言います。
煎熬工程とは海水または鹹水(濃縮された海水)を容器に入れて煮沸する作業を言います。
日本は、地理的な制限から岩塩を産出しません。
日本の歴史の中では、製塩は縄文時代の後期とも晩期とも言われる時代から始まりますが、その時から現代に至まで原料には海水を使います。
これは世界的に見た場合、日本製塩の一つの特徴です。
海水の塩分濃度は、約3%です。
この濃度から塩の結晶を得るまでには、とても多くの燃料と時間を必要とします。
だから、採鹹(さいかん)工程と言う海水を濃縮するための工程を煎熬工程の前に設けてやります。
現在でも揚浜塩田を行っている角花さんにお話を聞くと20%まで塩分濃度を採鹹工程で高めるそうです。
残念ながら縄文・弥生・古墳時代の製塩に採鹹工程が存在したのか、確実な証拠はありませんが、奈良・平安時代頃にはあります。
だから、この頃の土器製塩には「採鹹―煎熬」の作業のセットがありました。
この採鹹は『万葉集』などに表現されるように海藻を利用していました(森 1991a.b)。
統一的な税制が施行されるこの時期には全国でこの方法がなされていたと思います。
表面に塩の結晶が付着した乾燥させられた海藻は焼かれて灰にされます。
その灰は海水に溶かれ、上澄みが煎熬に回されます。
しかし、この採鹹方法は、原始的な方法で、採鹹効率は高くはありませんでした(磯部 1996)。
煎熬工程の後に、いわゆる焼塩と呼ばれる精製の工程があります。
最近の研究では、この工程のための土器(焼塩土器)の存在が言われていますが、どうやら、焼塩土器を利用する地域と煎熬用土器(製塩土器)をそのまま精製に利用する地域があるようです。
この工程はまだまだ分からないことが多いのです。
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製塩土器には、時間や地域を越えて、以下のような特徴がある。
・耐熱性をあげるため、砂礫の混入が密である。
・熱の伝導をよくするために、器壁が薄い。
・使い捨ての土器であるため、外観が簡素で装飾がない。
・液体を煮沸するので漏れないために、坏部の内面は丁寧な調整がされている。
遺跡から出土する製塩土器を一見するとただの破片であるが、その裏側には意図された機能がある。
各地で行われている古代の製塩体験では、受講者に製塩土器から作ってもらうパターンと事前に主催者側が製塩土器を用意しておくパターンがある。
写真は8月に使った製塩土器の複製である。
ぼくが作った「渥美式C1類」と呼ばれる6世紀に渥美半島で使われた製塩土器の複製である。
陶芸用の土を使っているので、砂礫の混入はしていない。
土器内部に空気が入っていると、写真のようにはがれることがある。
恥ずかしながら、下手な証拠である。
製塩土器は器壁が薄いので、ほとんどの人は初めて作ると朝顔のように開いてしまう。
また、粘土は焼くと収縮してしまうが、それでも実物のように薄い器壁の製塩土器は作れない。
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どの地域の製塩土器にせよ、製塩土器の作り方の変化は、簡単かつ大量に同じ形のものを作りだそうとする効率の変化である。
製塩土器生産の効率化は、製塩の効率化でもある。
古墳時代から奈良・平安時代の渥美半島で製塩土器が改良されると、それに応じて同時期の島嶼部の製塩土器も変化していく。
製塩において島嶼部は、古墳時代から平安時代まで一貫して渥美半島と密接な関係にあった。
知多半島は、古墳時代から独自の製塩土器を作っていたが、知多式4類の時期に渥美半島・島嶼部から初めて製塩土器の作り方を取り入れた。
その結果、三地域の製塩土器の作り方と形が同じになる。
製塩土器の作り方と形の共通は、塩の生産と流通が一元化されたとも解釈できるが、そうではない。
知多半島の製塩が効率化された結果である。
知多半島は一方的に渥美半島や島嶼部の作り方を導入していた訳ではなく、知多式5類の時期には知多半島の作り方が渥美半島と島嶼部に伝わっている。
製塩土器の型式変化から推定すると、各地域に古墳時代から続くそれぞれの地域性が残っていた。
つまり、塩の生産と流通にも各地域の範囲が残っていたのである。
参考文献
磯部利彦2010「古墳時代・律令期における伊勢湾・三河湾周辺の製塩土器」『伊勢湾考古』21号
磯部利彦2010「知多半島の製塩土器」『ふるさと』16号
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知多式1類以降400年間、知多半島において製塩土器の容器部分(坏部)の底は、脚の上部を指で摘んで作り出されてきた。
しかし、約1100年前に脚の上部を手の平でねじって押しつぶすか(坏底部プレスねじり技法)、ただ押しつぶして容器部分の底にする作り方(坏底部プレス技法)へ変化している。
この作り方で作られた製塩土器を「知多式5類」と呼ぶ。
渥美半島や島嶼部の製塩土器にはない作り方である。
知多式4類の回転粘土技法は渥美半島・島嶼部から知多半島へ伝わった技法であるが、プレス技法は知多半島から渥美半島・島嶼部へ伝えられた技法である。
知多式5類は、10世紀前半(平安時代)の50年ほど製塩に使用された。
鉄釜が普及し始めた時期であり、知多式5類を最後に知多・島嶼部・渥美で製塩土器は使われなくなる。
参考文献
磯部利彦2010「古墳時代・律令期における伊勢湾・三河湾周辺の製塩土器」『伊勢湾考古』21号
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