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日本陸海軍機大百科 第108号「零式観測機11型」(発行 アシェット・コレクションズ・ジャパン)という本が昨年11月に出版された。
付録に、零式観測機(第二河和海軍航空隊所属の72号機)の金属製模型が付いている。
第二河和空が、こういう形で紹介されるのは、初めてのことではないだろうか。
付録の機体は暗緑色、フロートは灰色に塗られている。
解説によると、全面灰色の塗装だったころの予備部品を使ったため、と書かれている。
日本に限らず米軍でも、機体と交換した部品の色が異なる例はある。
『河和海軍航空隊調査報告書』に掲載されている72号機の写真を見てみると、フロートの色は灰色っぱい。
気が付かなかった。
尾翼に書かれる航空隊を示す符号は、第二河和空の場合「カウ」「カワ」と言われている。
「カウ」と書いてある本もあるし、「カワ」と書いてある本もある。
かつて零観に乗っていた人に聞いたことがある。
「カワ」だったかなあ、とのこと。
72号機には、カワの文字はないが、写真の出所からして修正された写真とも思えない。
私見であるが、72号機は番号だけの表示と考えている。
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河和海軍航空隊
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この夏に、河和海軍航空隊について、いくつかの行事があったので、紹介したい。
(写真:現在の第2河和海軍航空隊の跡と水上機の訓練が行われた海)
・展示「遺構から見た河和海軍航空隊」8月2日〜16日 場所:美浜町生涯学習センター
平成20年から5年ぶりの河和空の展示だった。美浜町文化財保護委員の山下泉氏の調査と協力による。自分も、微力ながら資料協力をした。
・講座「河和にあった航空隊講座」8月10日 講師:山下 泉 場所:美浜町生涯学習センター
講座には、小学生から大人までの参加者があった。
・演劇「青春の碑 −ああ 河和海軍航空隊−」8月11日 主催:半田空襲の記録上演実行委員会 場所:アイプラザ半田
河和空をテーマとした劇だったので、ご案内をいただき、見に行った。創作劇だったが、台本には史実や当時の隊員の話が織り交ぜてあった。本格的だったので劇団かと思ったら、教育関係の方が多いらしく、驚いた。もっと驚いたことは、生前お世話になった方が劇のモデルだった。
・朝日小学生新聞に学徒出陣70年を機会に第2河和空の第一期予備生徒の記事が載った。 8月13日〜15日
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移転前に名古屋から八高教官が第1河和空基地の跡を見に来た。
その時は建物内に家具等もそろっていたが、八高がいざ移転してみると、家具等は盗まれてなくなっていた。
元々が河和駅からは遠くて、不便な立地である。
使用できる建物も基地跡に残る全ての建物ではなく、一部に限られていたので、河和校舎に幻滅した教官もいた。
昭和22年1月14日、中寮が出火した。
教室では午前の授業を行っている最中だった。
河和校舎の建つ場所は高台なので、火災現場には風がよく当たった。
河和町消防団が消火しようにも水の便が悪い。
立地が裏目に出た。
事務長の指示で、水を入れたコップを金庫内に入れられた。
しかし、カギはかけない。
熱で金庫が膨張して変形するので、カギをかけると扉が開かなくなるからだった。
事務長は、戦時中の空襲の経験から火災の対処方法を知っていたのである。
八高は二日間燃えて、本館と南寮・中寮・北寮の寄宿舎三棟・売店が焼失した。
焼け跡に鉄くずを拾いに来た人もいたという。
物資の少ない終戦直後の世相である。
火災後、名古屋への復興運動は大きくなった。
河和町中部国民学校では3月に八高復興資金のため、児童向けの有料映画会を開いた。
卒業生、愛知県、名古屋市など各方面からの援助・支援を受け、昭和22年8月、八高は名古屋へ戻っていった。
八高河和校舎のあった場所は、戦中には軍歌が響き、戦後には八高の寮歌が響き渡っていた。
海軍の将兵と旧制高校の学生の声。
帝国海軍も八高も無くなった。
現在は、田で鳴くカエルと虫の声が夜に聞こえている。
参考文献
八高創立五十年記念事業実行委員会 1958『八高五十年誌』
山口拓史 2007『第八高等学校 ―新制名古屋大学の包括学校①―』 名古屋大学大学文書資料室
山下 泉・伊藤厚史・磯部利彦 2007『河和海軍航空隊調査報告書』美浜町教育委員会
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第1河和空の本部庁舎は、現在の名古屋無線標識所跡(平成18年に閉鎖)の道を挟んですぐ北にあった。
本部庁舎のさらに北には、士官舎が三棟並んでいた。
昭和21年9月、この場所に八高は移転した。
本部庁舎と士官舎の跡は、現在辺り一面が田になっており、現地に行っても目印になるものが少ない。
無線標識所跡の一番北側に土盛りがある。
地下にコンクリート製の防空指揮所が残っている。
愛知県下に残存する海軍航空隊の防空指揮所の中で、最高レベルの保存状態である。
この土盛りと道を挟んですぐ北側にある田が本部庁舎の位置である。
写真左が八高本館付近、写真右にある土盛りが防空指揮所。
すなわち、八高本館跡地である。
第1河和空の本部庁舎は三階建てで、八高の教室や事務室として使用された。
本館と呼ばれ、三階の司令の部屋が校長室になった。
士官舎は三棟全てが2階建てで、南寮・中寮・北寮という名称で八高の寄宿舎になった。
士官舎の西にあった士官ほう炊場は、売店になった。
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第1河和海軍航空隊の跡地は、戦後短い期間ではあるが第八高等学校(八高)の校舎になった。
戦前の高等学校は、戦後の高等学校とは異なり、文字通り高等教育を受けさせるエリート養成の学校だった。
戦後の高等学校と区別するために旧制高等学校と呼ばれる。
コンクリートの壁を蹴ったらムチャクチャ痛かったっすよぉ、と自慢している今の高校生。
生涯学習という言葉までできて、一生にわたり学習や勉強ということを奨励される。
万人が教育という名目で学校に通う戦後の社会は、戦後と比べてどれほどよくなったのだろう。
旧制高等学校を調べるうちに、そう思った。余談ながら。
旧制高等学校の中には地名ではなく、数字を校名にした学校がある。
これが東京の一高から始まるナンバースクールである。
名古屋には、八高があった。
ナンバースクールは旧制高等学校の中でも伝統校であり、八高は最後のナンバースクールになる。
昭和20年3月の空襲で、現在の名古屋市瑞穂区にあった八高の校舎は、多くが焼失した。
昭和21年9月、八高は第1河和海軍航空隊跡(現在の美浜町)に移転し、残った建物を使って授業を始めた。
軍隊の建物が、学校として戦後使われた例は多数ある。
昭和22年1月14日、八高河和校舎の寮から出火し、燃え広がって校舎も燃えた。
9月、八高は名古屋へ戻った。
現在、八高の跡は、田んぼになっている。
航空隊になり、旧制高等学校の校舎になり、最後は田んぼになった。
八高も、昭和24年7月、教育制度の移行によって名古屋大学の一部になった。
昭和25年3月、とうとう廃校となった。
記録や手記を見ると、旧制高等学校はいいところだったらしい。
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