いつまでも、御塩倶楽部

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河和海軍航空隊

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アルコールは飛ばない

 ガソリン価格が高騰する昨今、アルコールの原料価格まで高騰しているそうです。

太平洋戦争時の日本は、現在のような経済的な理由からではなく、軍事的な理由からガソリンに代わる燃料の研究と実験を行っていました。

予防的な研究・実験ではなく、石油が海上輸送できなくなった対処療法的な行為です。

第2河和海軍航空隊では、昭和19年末にアルコールによる飛行実験を行っています。


以下は、飛行長からの指名により試験飛行をした篠澤公平氏の記述によります。


・使用した機体は、93式水上中間練習機(赤とんぼの水上機版)。

・気化器のノズル先端を少し広げて、混合機の流量を多くした。

・燃費効率をよくするために、外気に接するシリンダーに石綿を巻いた。

・スピードが上がらず、離水距離は通常の2倍必要だった。

・水平飛行でスロットルレバーを全開にしてもスピードは上がらない。

・操縦席は、二日酔いのいやな臭い。

 日本が石油不足で必死だった様子とアルコール燃料が使い物にならなかったことがわかります。


 他の第2河和空の搭乗員からもアルコール燃料はふらふらして飛ばない、と聞いたことがあります。


参考文献
篠澤公平「私と第二河和航空隊」『知多半島 第2河和海軍航空隊の記録』(非売品)

 現代は石油の値段が高騰すると代用する植物が重宝されるが、戦時中の日本は南方から石油を運びこめなくなって代用する植物を探した。

石油不足の原因は、日本行きのタンカーが途中で米軍に沈められるからである。

近代以降の軍隊は、石油がなくなると動けなくなる。

当時の日本が取った対策の一つが松根油(しょうこんゆ)である。

詳しい製法は知らないが、松から飛行機を飛ばせる油が作れるらしい。


 何年か前に、第2河和海軍航空隊に工作兵として在隊していた方とお会いした。

当時の写真を見ると、高等科練習生終えているので八重桜のワッペンをしている。

河和でも松根油を作っていたそうで、いろいろと教えてもらった。

その方は、今年の春に亡くなった。

ある夏の暑い日、お宅におじゃました。

まあ座れ、と言われコーラを注いでくれたことが懐かしい。


 花岳寺(愛知県吉良町)住職鈴木悦道氏のエッセイに、明治海軍航空隊基地(愛知県安城市)の海軍機が松根油を使って飛んでいる話が出てくる。

うっすらと煙を引いて飛んでいる海軍機を見て、理科の先生が藷アルコールや松根油で飛んでいる飛行機の屁だ、と言う。

きっと、日本中で戦争末期に見られた光景なんだろう。


最後に、鈴木悦道氏のエッセイのテーマが屁の話だったことを付記しておく。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

(写真1 河和駅遠景)

(写真2 河和駅看板)

(写真3 ホーム)

(写真4 酔って帰るぼく)


 先日、名鉄河和駅から電車に乗りました。

河和駅は終点なので、南へ行く人は、ここでバスに乗り換えます。

駅から少し行けば、河和港があり、日間賀島などの島嶼部行きの舟も出ています。

知多半島南部における交通の要衝です。


 前回は、河和駅から第2河和海軍航空隊へ赴任する将校の話を書きました。

(前回の話 http://blogs.yahoo.co.jp/iso710ookina/34300803.html

戦前に、鉄道が河和まで引けていたことも河和に基地を造った要因でした。

今回の河和駅シリーズは、河和海軍航空隊のズンドコ節です。

歌詞に「せめて河和の駅までも」と出てきます。

第2河和海軍航空隊で歌われていた「ズンドコ節」は、読売新聞(夕刊 昭和58年8月15日)の「青春紀行」で紹介されています。

書いたのは、黒田健二郎 氏です。

黒田氏は、一期予備生徒出身のパイロットです。

何年か前に亡くなったそうで、お会いしたことはありません。

記事の全文は、美浜町生涯学習センター(愛知県)で平成16年から毎年行われている河和海軍航空隊の展示で毎年紹介されているので、読まれた方も多いと思います。

他に、第2河和空にいた一期予備生徒出身者たちが編集した『知多半島 第2河和海軍航空隊の記録』という本にも黒田氏は書いています。

この本の黒田氏の文章は、第2河和空の特攻隊編成の様子や黒田氏の感情の動きが表れていて、とても「人間味」を感じます。

何回も読み返してしまいます。

みなさんにも、ご一読をお勧めします。




ここで別れちゃ未練がのこる

せめて河和の駅までも

送りましょうか送られましょか

可愛いあの娘の目に涙




今日も暮れゆく河和の町を

肩で風切る小意気なすがた

あいつだれだとよくよく見れば

上陸がえりの士官さん




エスになるなよ堅気になれと

やさし母ちゃんが泣いて言うた

だけど私は堅気にゃなれぬ

可愛いインチに会えぬもの




ズンドコ節の引用元 

読売新聞 夕刊昭和58年(1983)8月15日  青春紀行 黒田健二郎

副題には「明日なき空に特攻訓練 水上機の町 知多半島・河和」と書かれていました。

イメージ 1

愛知県知多郡美浜町大字河和(河和中学校内)

 『河和海軍航空隊調査報告書』によると、高さ4.3m、底面外径8.2mの円筒形。

この円筒形の構造物の上に、水槽があった。

水槽の詳細な構造は、わかっていない。


 知多半島は地理的に水に苦労した場所である。

溜池の数もかなり多い。

第1河和海軍航空隊、第2河和海軍航空隊ともに水に関係する遺構は多い。

 現在は白ペンキで塗られているが、戦時中はそんな目立つ塗装はされていないはず。

昭和33年頃の写真では、コンクリートの地肌のままである。

円筒の中に焼却炉が置かれているので、この遺構を焼却炉の風除けと思っている人も多い。

これか海軍航空隊の遺構だとは、河和中学校在校生・卒業生でも知らない人は多いようである。


 また、学校内にあるため写真を撮る時は注意が必要である。

捕まる可能性がある。

その点は、軍事施設と同じである。


参考文献 磯部利彦 2007 「河和海軍航空隊に関係する遺構」『河和海軍航空隊調査報告書』

イメージ 1

 「Barracks at Kouwa Naval Airplane Base No.2」という施設配置図にクリークと書いてある小川がある。

英語で施設などが表記されているのは、戦後、米軍に提出した書類だからである。

図面に「creak」と書いてあるが、正しい綴りは「creek」である。

日本人が書いた図面ゆえだろう。


 さて、この小川を地図で見たら「古江川」と書いてあった。

コンクリートが三面貼りされていたので、ぼくはてっきりドブがと思っていた。

現在はないが、戦時中は、兵舎(現在の河和中学校体育館辺り)から、病院(現在の保健所)の方へわたる橋があった。

戦時中、航空隊の基地を造るために、河川の流路を変更する例はある。

第2河和海軍航空隊の「大川」など。

しかし、河川は空中写真と図面を照合する時に目印にする地形である。

コンクリートで貼ると当時の面影がなくなるけど。

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