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毎年5月15日に、ある河和海軍航空隊の戦友会が、基地のあった愛知県の河和に集まっていた。
と、今日思い出した。
みなさん、お元気だろうか。
航空隊の各戦友会の活動は、戦後の歴史である。
河和海軍航空隊に関連したページは、インターネットにたくさんある。
苦労して河和空を調べられたページもあれば、他の人の研究成果をコピーしたページがあるのも事実。
総じて、更新がなくなった。
昨年、縁あって、ある所に河和空の概略を説明する原稿を書いた。
いつか、第1・2河和空の関係者の方々から聞き取りや手紙で教えていただいたことをまとめようと、思ってから数年がたってしまった。
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河和海軍航空隊
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昭和20年の昨日、8月13日、第2河和海軍航空隊で編成された「神風特別攻撃隊御楯隊河和隊」の第1小隊に命令が出た。
零式観測機で、15日未明に沖縄のアメリカ艦隊に対して特攻出撃せよ。
250kg爆弾が零式観測機に積まれ、特攻隊員は遺書と遺髪を準備した。
零式観測機は、偵察や着弾観測に用いる2人乗りの水上機である。
昭和20年2月、第2河和海軍航空隊は、水上機による特攻隊を編成した。
この特攻隊は、昭和20年8月5日に河和から深江へ出発した零式観測機35機の一部である。
一部の隊員は、特攻に使用する零式観測機を受け取るため7月に別の航空隊へ鉄道で向かっていた。
河和でも特攻の準備は着々と進められていたのである。
特攻隊員は、特練舎と呼ばれる兵舎に集められ、特攻訓練を行った。
特攻隊員がいた場所は、戦後、区画整理がされ当時の面影は全くない。
終戦直後に米軍が撮影した航空写真と現在の地図を比べて、やっと、おおよその場所は特定できた。
ある河和の若者は、地元で特攻隊が訓練していた、と初めて聞いたと言っていた。
8月13日に命令を受けた特攻隊であったが、翌14日に出撃中止の命令がされた。
そして、15日に終戦となった。
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第1河和海軍航空隊の戦友会を知ったのは、会が解散する年だった。
「河和空集いの会」という。
昭和50年から平成17年に30回、日本各地で会合が行われていた。
若僧の不躾な質問にもかかわらず、多くのことを教えてもらった。
いつの日か、このご厚意には報いたいと思っている。
第1河和海軍航空隊は、飛行機の整備教育を行う練習航空隊である。
現在の愛知県美浜町(旧河和町)にあった。
同じ河和町にあった第2河和海軍航空隊とは、「上の航空隊(第1河和空は丘陵部に立地したことによる)」、「下の航空隊(第2河和空は海岸部に立地したことによる)」と呼ばれることもあるほど隣接していたが、海軍内の組織は別々の航空隊であり、戦友会も別々に存在していた。
第1河和空には、防空指揮所、対空機銃陣地の掩体、兵舎基礎などの遺構が今も残っている。
防空指揮所は半地下式のコンクリート製構造物で、おそらく愛知県内の海軍施設としては保存状態がよいものの一つである。(写真は防空指揮所入口付近)
第1河和空の資料は第2河和空に比べると少なくて、その実態はわからないことが多い。
かつては、何棟もの兵舎がならぶ建物群があった場所であるが、現在は田園地帯になっている。
日が沈んでから訪れると、真っ暗である。
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もう何回もこのブログで紹介しているが、写真は第2河和海軍航空隊の門柱である。
河和中学校の敷地にあり、写真の右側は道路である。
現在でも「隊門」と呼ぶ人がいる。
河和海軍航空隊を調査している山下泉氏が数年前に、ある冊子へ終戦間際に隊門付近で戦死された方の話を書いた。
冊子が出た翌日か翌々日に、この門柱の上にコップ酒とタバコが供えてあったそうである。
もちろん、誰が供えたのかわからない。
戦後になっても、このような出来事が起こる門柱である。
現在の文化財保護行政において、日本に人間が住み始めてから中世までの遺跡は工事などで破壊されるおそれがある場合、事前に届出が義務づけられている。
届出は先ず市町村教育委員会に出され、意見が付けられて都道府県教育委員会に送られる。
中世までの遺跡は、破壊されるにしてもワンクッションあって、制度上緊急調査なりなんらかの措置が一度は講じられる。
しかし、太平洋戦争に関係する遺跡には、このワンクッションがないので調査もされないまま消えていくこともある。
基本的な制度外なので戦争遺跡に対して、どう考えるかで対応は全く異なる。
一方で調査が及ばず戦争遺跡かどうかもわからないまま壊されることもある。
先日、久しぶりに門柱の前を通った。
いつの間にか、門柱付近に縁石が造られていた。
でも、門柱の横で止まっていた。
破壊も検討されたのだろうか、工事の事情は知らない。
でも、門柱は航空隊の時から残っている。
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愛知県美浜町内に「都築紡績河和工場」があった。
戦後、第2河和海軍航空隊の跡地に造られた工場なので、最近まで航空隊の遺構がいくつか残っていた。
平成17年に工場の取り壊しがあり、工場の建物・施設等は全てなくなった。
現在では、エプロン(駐機場)のコンクリートが一部残っている。
取り壊しまで、用途不明の水槽が残っていた。
都築紡績正門のすぐ右に守衛所があった。
さらにそのすぐ奥に、水槽があった。
取り壊し直前に、地元の教育委員会が調査している。
大きさ等の詳細は『河和海軍航空隊調査報告書』を参照されたい。
報告書では防火水槽か、と推定されている。
都築紡績跡地の国道沿いにはホームセンターとスーパーマーケットが造られ、開店した。(写真奥の建物)
その他の跡地は、ほぼ砂利敷きになっている。
写真中央の木は、戦後に都築紡績が植えたものだろうか。
もしそうだとしたら、戦後の紡績産業が華やかだった頃を感じる。
広大な土地であるが、それでも第2河和空の基地の一部でしかない。
基地建設のため流路を変更させた「大川」という川も、もとはこの敷地内に河口があった。
改めて、工事の大きさを思う。
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