いつまでも、御塩倶楽部

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河和海軍航空隊

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昭和20年8月に広島と長崎に米軍は原爆を落とした。
 
日本は原爆の被害調査を行い、白い衣類を着ている者に被害が少なかったことがわかった。
 
そのため、昭和20年8月11日(土曜日)、第1河和海軍航空隊では軍服の一部を漂白した。
 
第1河和海軍航空隊とは、現在の愛知県美浜町(当時は河和町)あった飛行機の整備教育を行っていた航空隊である。
 
大量に漂白処理をしたため失敗も多かったらしい。
 
この作業を行った兵員浴場の壁が今でも田園の中に残っている。
 
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終戦後に米軍が撮影した写真などを見ると長細い施設だったようである。
 
壁も長細く残っている。
 
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色々調べてみたが、壁のどちら側が当時の外側だったのか、わからない。
 
 
 
地元の小中学生のみなさん、身近な所にこのような遺構が残っている。
 
原爆と美浜町をつなぐ唯一の遺構である。
 
 
参考文献
山下 泉・伊藤厚史・磯部利彦2007『河和海軍航空隊調査報告書』

河和の歴史を伝える

 何年か前に、「知多半島の歴史」をある研修の講義で紹介することになった、という方がいた。
 
河和海軍航空隊もパワーポイントの資料に入れて下さい、と言ってお願いした。
 
以下は、その時のお願い資料。
 
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写真は、第2河和海軍航空隊(愛知県美浜町)のスベリである。
 
スベリとは、水上機を海面に降ろしたり、海面から揚げるためのコンクリート製スロープである。
 
第2河和海軍航空隊には、このようなスベリが3つあり、現在も残っている。
 
第2河和海軍航空隊は、戦時中、美浜町にあった水上機の操縦訓練を目的とした航空隊である。
 
水上機は、軍艦に載せて、航海中に海面に下ろして飛ばすことができる。
 
また、飛行場のない場所でも水面があれば飛ばすことができたので、重宝された。
 
水上機は主に偵察に使われたが、戦争末期には特攻にも用いられた。
 
 
第2河和海軍航空隊でも神風特別攻撃隊が編成され、訓練が行われていた。
第2河和海軍航空隊の跡地は、戦後、中学校や住宅地・工場になった。
 
第1河和海軍航空隊の跡地の多くが農地になっているので、第1河和空と第2河和空の戦後は対照的である。
 
第2スベリ・第3スベリの西側にかつて都築紡績河和工場があった。
 
平成17年に都築紡績河和工場の建物は解体され、広大な敷地は、一時砂利敷きの空き地になっていた。
 
その後、カインズホームというホームセンターとフィールというスーパーが建てられて、平成21年3月にオープンした。
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この辺りは戦前、古布という村があったが、航空隊基地建設のため移転させたれた。
 
航空隊の後に紡績工場が建ち、紡績工場の後に大型店舗が建った。
 
戦時中に、水上機の搭乗員を養成するため全国から若者が集められた場所である。

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 名鉄河和駅から歩いてすぐに河和港がある。

ここから知多半島の先端にある島行きの船が出ている。

河和漁港は、河和港よりも南に位置し、河和港からも見える。(写真)

写真に黄色い船が着けられているのが見えると思う。

加藤化学という工場で作る水飴の原料を揚げている風景である。

黄色い船の横に写っているサイロは、ここの工場である。

水飴といっても清涼飲料水などの原料になる水飴で、縁日で食べる水飴ではない。




 加藤化学の黄色い船は、名古屋港から知多半島先端を回り、三河湾にある河和まで来る。

知多半島ではよく見る風景である。

黄色い船体なので、あだ名もあるらしい。

河和漁港は、戦時中に河和海軍航空隊基地の港として造られた港である。

戦後、漁港になった。

航空隊で使う物資を揚げていた港は、水飴の原料を揚げる港に変わった。

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第1河和海軍航空隊本部庁舎


 戦時中は海軍航空隊の施設が並んでいた河和南部地区(愛知県美浜町大字古布、大字豊丘)であるが、現在の跡地は田んぼと旧無線標識所、鶏舎になっている。

基礎など遺構が残っている建物は何とかわかるが、跡地に行っても、かつての建物がどの場所だったのか、わからないケースも多い。



 旧無線標識所内に第1河和海軍航空隊の防空指揮所がある。

フェンス内にマウンド状になって残っているので、すぐに見つかる。

防空指揮所の道をはさんだ反対側の田んぼが、本部庁舎と士官舎が並んでいた場所である。

遺構はない。

田んぼの向こうに鶏舎が見えるだけである。




 戦後、本部庁舎と士官舎は、八校の校舎になったので八校卒業生も懐かしい場所である。

八校に勤めていた方の話によると、本館(第一河和空本部庁舎の八校時代の名称)3階にあった元司令室は校長室として使用された。

将校、下士官室は、事務室になった。

その後、第一河和空跡地にあった八校も火事に遭い、主な校舎は焼失、再び名古屋へ戻っていった。


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