いつまでも、御塩倶楽部

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河和海軍航空隊

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 前回、第1河和海軍航空隊の防空指揮所について書かれた中日新聞の記事を紹介した。

今回は、敷地内に現存していない遺構について紹介したい。




 『わが海軍』(ノーベル書房)に戸室正一氏が書いたイラストが掲載されている。

防衛研究所にある第1河和空の施設配置図に比べると正確さでは劣るが、鳥瞰図になっていて雰囲気が伝わる。

このイラストによると防空指揮所の南は練兵場になっている。



 また、戦時中、第1河和空に在隊した方が記した記録によると対空機銃陣地も付近にあったらしい。

近くにある本部庁舎を防御するための対空機銃陣地だったと思うが、建物がなく開けた練兵所付近なら射界も広く確保でき都合がよかったのだろう。

別地点にある第1河和空の現存する対空機銃陣地は、「C」字状の土塁が確認されているが、旧無線標識所あたりでは発見されていない。

土塁があったのが、元々そこまでの陣地ではなかったのか、わからない。

戦時中の海軍の土地を、現在は国土交通省が管理している。

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第1河和海軍航空隊の防空指揮所、今後



 2009年5月21日(木)付けの中日新聞知多版に、こんな見出しが出た。

「美浜に4.3ヘクタール、謎の空き地」

「かつて海軍施設 総合公園計画も」

「町は買えず民間売却へ」



 愛知県美浜町にあつた国土交通省の無線標識所のことである。

無線標識所は平成18年に閉鎖され、施設は解体されている。

戦時中は、第1河和海軍航空隊の敷地である。

敷地どころか、基地のど真ん中である。

道を挟んだ向こうは、本部庁舎と士官舎群である。



 何年か前までは、正門横の自動車車庫の基礎も残っていたが、無線標識所の解体と同時になくなった。

現在、旧無線標識所内で確認されている遺構は、防空指揮所が唯一である。

第1河和空の防空指揮所がどんなものなのかは、このブログに書いてきた通りである。

さらに詳しく知りたい方は、美浜町教育委員会が測量をしているので、『河和海軍航空隊調査報告書』を参照されたい。



(写真 上 防空指揮所 遠景)

(写真 中 防空指揮所 近景)

(写真 下 2006年町教育委員会主催による展示「河和海軍航空隊と美浜町」で公開された防空指揮所内部)

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川の流れを変える工事(愛知県美浜町の大川)

 昭和16年5月15日、帝国海軍は、浦戸・古布・矢梨の住民を南部国民学校裁縫室に集めた。

集めた目的は、海軍航空隊の基地を造るための用地買収をするためである。

この様子を山下泉氏が『河和海軍航空隊調査報告書』の中で資料と聞き取り調査の結果を交えて、書いている。



海軍側が言う、「海軍は必要ならば、富士山でも動かす」と。




この時の海軍と住民のやりとりは戦時下の軍の発言力が強かったことを象徴している。

そして、その言葉どおり、浦戸と古布の集落は動かされた。

動かされたのは集落だけでなく、大川(おおかわ)という川までが動かされた。




 戦前の大川の流れと戦後の基地跡の航空写真を重ねると、水上機の格納庫や駐機場の場所がかつての大川である。

基地の施設配置に、大川がじゃまだったので、流れは建物群を迂回するように変えられた。




 愛知県半田市に神戸川という川がある。

現在、河幅を拡張する工事をしている。

写真は、新成岩橋から工事現場を撮影したものである。

流れを変更する工事ではないが、大川の流路変更工事もこんなだったのか、と思った。

もちろん重機もない戦時中の工事を現在の工事と単純に比較をしてはいけないが、ただ想像した。

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「不発弾爆発事故と地方史」どうして地方史を調べるのか



 インターネット版の琉球新報(2009年3月13日付け)に、「不発弾爆発事故 なくすにはどうしたらいいの?」という記事があった。

1月14日に沖縄県糸満市で水道工事中に不発弾が爆発、ショベルカーのオペレータが大けがしたことから、不発弾についての問題を考えた記事である。

太平洋戦争は、日清戦争や日露戦争のような外征型の戦争ではないので、日本中が攻撃を受けた。

戦後すぐの頃は、知多半島でも不発弾で子どもが死亡する事故があったそうである。

また、最近でも名古屋で工事中に不発弾が見つかっている。

つまり、不発弾について言えば、都市や軍事施設など攻撃を受けた場所全てにこのような事故が起こる可能性はある。

不発弾の怖さを知っている工事関係の会社は、工事前に対象地の空襲の記録を調べる。

地域の歴史として調査された記録は、このような使われ方もする。



 河和海軍航空隊のあった河和町(現在の美浜町)山下泉氏が米軍の記録から空襲の様子を『河和海軍航空隊調査報告書』の中で紹介している。

(本ブログの写真は引用したものに赤字で筆者が施設名を入れている)


米軍撮影の写真もあり、このような例は極めて稀である。

他に聞き取り調査や戦死した方の記録などからいくつかの攻撃地点はわかっているが、それは一部分でしかない。

琉球新報の記事によると、沖縄の不発弾は、全て見つけて処理するのに、あと80年ぐらいかかる。

日本国内で現実に起こっている問題として認識したい。

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基地のために移転した神社(古布津島神社)


 愛知県知多郡美浜町に古布(こう)という地区がある。

ここは、戦時中に河和海軍航空隊の基地を造るために集落移転させられた地区である。

同様に集落移転させられた浦戸が集落としてまとまった状態で移転したのに対し、古布は移転先の造成などの事情から浦戸のようにまとまった形態にはなっていない。

海軍の計画が最優先なのである。



 集落移転は、民家に限らず神社やお寺なども対象になり、そして移転した。

昭和19年12月、津島神社は、こうして移転した神社である。(写真 最上段)

津島神社にある鳥居などの石製設備を見ると、ほとんど「大正○○年」と彫られている。

運ばれて、設置されたのだろう。



 拝殿は平成20年の修復時に、「嘉永七寅四月」(1854)の墨書が発見された。

拝殿の鎧囲板内側に大工の名前と一緒に書かれていた。

この拝殿も移築された建物である。(写真 最下段)



 戦国時代でも城を築こうとする土地に集落がすでにあった場合がある。

民家やお寺は強制移転したらしいが、神社はそのまま城の鎮守とすることが多かったらしい。

戦国大名でも神社の移転はあまりしなかったのに、帝国海軍は移転させた。

同じある種の武装集団でも、精神的な施設への対応が異なっている。


どうしてか。



それは、帝国海軍は「天皇の海軍」だったからである。



参考文献

美浜町教育委員会 2007『河和海軍航空隊調査報告書』

古布津島神社遷宮実行委員会 2009『平成20年古布津島神社遷宮の記録』


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